努力は人を裏切るということについて
近ごろ、水木しげるの本が欲しくて探しているが出て来ません。
以前、買ったような記憶もあるのだが。
『水木サンの幸福論』というもの。
Twitterでもどなたかがリツイートしているのをみたが、
幸福の7ヶ条、だったか一文がずっと突き刺さっている。
『第5条 才能と収入は別。努力は人を裏切るものと心得よ』
だったか。
これには2通りの受け止め方がある気がして、
・努力を続けたとて、報われぬことはある(のだから努力は無駄である)
・努力、という気持ちを抱くこと自体が裏切られたくないという願い。がんばってやったのに報われない、という思いこそが危険である。
わたしは以前はずっと前者の意味にとっていたのだが、近ごろ創作にのめり込んでいてようやく気づいたことが。
ものごとは『好き』を突き詰めて、無心になるくらいのめり込んでいればそれはもはや『努力』ではない。
『好きだから続けている』に過ぎない。
『努力』を感じているうちはまだ、抜け切れていないのだろう、と。
自分は書くことが好きだろうか? もちろんYES。
書くことが辛いだろうか? 今のところそう感じたことはないのでNO。
今後はどうだろう? それは何とも言えないので保留。
どうしたら辛く思わずに書けるのか?
水木氏の幸福の7ヶ条、1~4にその答えが見える気がする。
もし今何か続けていて、それが努力の割に報われていない、と感じる方がいたら
・『努力している』という字面からいったん離れて「好きで続ける」という気分に変えてみる。
・『努力』は必要ないのでは? という意見を一旦よく吟味して、「それでも自分は今は努力してみる」と開き直る。
つまり、努力というものが何なのかちゃんと把握して、あえてそれを突き詰めてみる、という手ですね。苦行僧のスタンスをあえて貫く。これも好きでやっている、という境地に行けたらもう、言うことないのですが。
・『努力』が耐えられない、と思ったら一旦離れて全然別のことをやる。
どうしてくどくどと、ドリョクについて語っているかというと、我が家の高校生がついに学校を辞めたい、と言い出しまして。
あんなに課題やテスト勉強など『努力』したのにそれでもついて行けない、課題は溜まる一方だし、来年度進級して新たな課題が出てもこなしていく自信がない。
第一、その道を本当に希望しているのかが疑問。
そこまでがんばったんだから、まだ頑張れると思うのは親ならたいがい思うことだろうけど、もうどうしても無理、親も復学のために日々『努力』しているのに彼をどうしても動かすことができない、手づまりです!
というところに急に、水木氏のこのことばを思い出したのです。
ことば通り受け取れば、身も蓋もない言い方なのだけれども、真意をよくよく考えれば、それは水木氏からの限りないエールとも取れるのでは。
好きなことをとことん、突き詰めていけますように。みなさまも。私も。