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ぐろい話でごめんなさいという実話込みの短編

グロテスクな表現やものごとが苦手な方は、今回のお話は飛ばしていただければ幸いです!

すみません。

 その光景は、初めて見るものだった。のだろうか。

 ゆかりの目の裏に、何度も繰り返し描かれるそれは、修正と追憶とを経て、ますます鮮やかに浮かび上がる。


 それなりの量と、色。

 


 ある雨上がりの早朝、高校生の娘は

「早くしないと、もう遅刻かも」

 小声でそう叫びながらも、自転車で家を出て行った。

 以前は何かというとすぐにしゃがみこみ

「もうダメかも」

 とか

「できる気がしない」

 と、後ろ向きな感じで自らの殻に閉じこもり気味な子供ではあった。


 近頃は、何のかんの愚痴りながらもそこを乗り越えて出かけていけるようになったようで、紫にはそれがたまらなくうれしいことだった。


 紫が家を出る時間、近くの中学校もちょうど登校時間だったようで、中学の脇を車で通り過ぎた時、制服の数人とすれ違った。

 おや、と不思議に思い、紫は少し注意して過ぎゆく中学生たちをみる。

 数人が明らかに後ろを振り返りふりかえり、何かを気にするように、時に立ち止まったりしている。


 中学校から少し下って数十メートルいったあたりで、道路上に落ちていたそれに、紫も気づいた。

 思わずアクセルから足を離し、目の前に、そしてすぐ脇に見えたものを何度も見返していた。


 赤いリードが歩道を横切るように、長く一直線に伸び、その先ちょうど車道との境、縁石が途切れた合い間に斃れていたのは一匹の中型犬のようだった。

 犬とは判断つきかねるくらい、それはすでに轢きつぶされ、黒い毛皮の切れはしのまん中にこんもりと盛り上がるピンク色の丸いかたまりとなっていた。

ピンク色は妙に艶めいていて、上がったばかりの雨で潤っているかのようだった。


 なぜリードがついたままなのか、一瞬理解に苦しみ、それから胃のあたりがぐっと縮まった。

 飼い主は、早朝に愛犬を連れて散歩に出たのだ、そして、ちょっとした油断からその犬が車道に飛び出し、そこにちょうど通りかかった車がいた。

 犬は即死だったのだろう、そして、飼い主は我が家の愛犬のあまりの変わり様にぼうぜんとして、そのまま家に帰ってしまったに違いない。


 自身もぼうぜんとしながらも、紫はどうにか駅にたどり着いた。

 いつもの駐車場に車を入れたそのとたん、携帯が鳴った。

 会社からのメールだった。

 ラインがストップしているため、本日は臨時休業となります、ご了承ください。


 契約社員なので、一日分の給料はフイになる。

 罵詈雑言が淡い字体で頭の中に浮かびながらも、どこかうわの空のまま紫はまたエンジンをかけてそのまま帰宅の途についた。


 またあの塊が残っていたらどうしよう、と紫はふと思い出す。

 いくつか、他ルートでも帰れることは帰れる。

 ただ、あの道筋が一番近道には違いない。早く帰れれば、それだけ残された家事もはかどるだろう。

 夫が不慮の事故で亡くなってからは、とにかく少しでもお金を稼ぎ、少しでも時間を稼ぎ、自分と娘との暮らしをもたせようという思いしかなかった。

 あの道をまた帰ろう、と決心するまでの逡巡には数秒もかからなかった。


 事故の箇所にかかるまでに、気づいたことがあった。

 今朝早く家を出て行った娘も、あの場所を通ったに違いない。

 もしその時すでに、犬が轢かれていたのならば、長いリードとその先の屍にも当然気づいただろう。

 中学生も数人、何度かふり返っていた。

 もし神経の細いあの子があれをみていたら、一体どんなにショックを受けるだろうか。

 飼い主が見捨てて帰ってしまった、その点が一番つらいだろうか。

 いや、と紫は思い直す。

 娘があの場所を通ってからの出来事だったのかもしれない、それならば、事故が起きて間もない時間に、紫はそこを通りかかったことになるし、もしかしたら帰り道にはすでに飼い主が戻ってきて、きれいに片付けているかも。

 

 紫はあわてて途中のコンビニに寄り、駐車場で携帯を取り出す。

 娘からも、他の誰からも何の連絡も入っていなかった。

 よかった。

 娘は事故の前にはあそこを通り抜けたのだろう。


 帰り道、それはまだ残されていた。

 飼い主は、戻る気はないのかも知れない。

 飼い主が気づいていない可能性も考えられる。しかし、歩道を横切っていたあの赤いリードは幅広で、どう見ても散歩用のものだ。

 散歩に行こうとして逃げられたとしても、飼い主は探し歩くだろうに。


 紫は暗澹たる思いを胃の腑に抱えたまま、ようやく家にたどり着く。

 通りかかった何人もが、あれを目撃したはずだ。たくさんの児童生徒があの道を利用している。リードが歩道を横切っていたから、多くの子どもらがそこをまたいで通ったはずだし、おとなも何人か、その様子をみていたに違いない。

 そのうちの誰かが、通報しなかったのだろうか?

 どこに? 消防? 警察? 市役所に? 

 通報しなかったうちのひとりには、もちろん自分も入るのだ……紫は機械的に洗濯機の前に立ち、今日は洗うつもりのなかった洗濯物の上に洗剤をふりかけ、スイッチを入れる。

 赤いランプが点滅して、洗濯が自動的に始まった。


 夫もああして、人知れず亡くなったのだ。

 うなる洗濯機に両手をついたまま、その時のことを思い出す。


 やはり雨上がり、夫は仕事帰りに一杯ひっかけ、家に帰ろうとしていたらしい。

 帰宅途中の路上に倒れていたのを発見されたのは、夜も明けようとしていた時間だった。

 ひき逃げに遭ったようです、とその時警察は言った。そして、まだ加害者は見つかっていない。

 あの犬のように、むごい姿ではなかった、傷がなければ、単にその場で眠りこんでしまったようだった。

 それでも、倒れた時にどんな思いだったか、紫は何度も思い返しては動悸が早くなるのを押さえられずにいた。


 急にその思いが蘇る。洗濯機の振動ではない、何かの揺らぎが紫の体を貫いていく。

 

 同じように近しい者を失くした人びとは、いったい毎日をどんな思いで過ごしているのか。

 あの犬の飼い主は、今、どこでどんな思いで過ごしているのか。

 撥ねてしまった車の運転手は、今、どこでどんな思いで過ごしているのか。

 あれをみてしまったすべての人は。


 思いがけず、激しく動揺している自分に気づいて、紫は両手で口を押さえる。

 吐きそうだった。


 見た瞬間には、何も感じなかったはずなのに。

 あのつややかな中身を目の当たりにした時ですら。


 何も考えられなくなって、音が流れていれば気がまぎれるかとたまたまつけたテレビで、世界各地のニュースを流していた。

 どこの国なのだろうか、手をつなぎ合っていっせいに橋から川に飛び込んだ人びとが映し出されて、ギネス世界記録となりました、とキャスターが語っている。

 その風景に、紫はまた別のシーンを思い起こす。

 巨大な高層ビルが同時多発テロによって爆撃され、上階に取り残された人びとがどうしても逃げ切れず、最後にみなで手をつなぎ合って壊された窓からいっせいに飛び降りた……そんな写真が何かの雑誌に載っていた。

 テレビの画面で何度か繰り返される橋からの飛び込みシーンが、その時の写真と重なり、吐き気はさらに強くなる。

 紫はうずくまり、しばしその発作に耐えていた。




 溜まった家事に没頭しているうちに、気づいたら真っ赤な夕焼け雲がが出窓の向こうに広がっていた。


 娘が帰って来る音が聞こえ、紫は止まっていた思いの渦からどうにか抜けだし、いかにも忙しそうな体を装いながら、玄関まで出むかえた。


「おかえり」


 こちらから切りだしてみようかと思ったせつな、娘が靴を脱ぎながらこう言った。


「ひどかったよね、××中のあれ」

「……え?」

 紫は一瞬、なんと応えていいのか分からず言葉を濁す。あの、轢かれた犬のことなのだろうか。

「あれ、って?」

「狸だよ、タヌキ」

 娘が大きく息を吐き出して言う。今日もかなり疲れを溜めていたのだろうか、でもその言い方はどこかサバサバしていた。

「車に轢かれてさ、ママも見なかった? 仕事に行ったでしょ?」

「轢かれた? ……あれ、犬だよ」勇気を出して言ってみる。

「長くリード出てたし、誰が……」

 意外な娘の一言に、ことばが止まる。

「え? あれリードじゃないよ。だってタヌキだったもん」

「リード、じゃないの?」思わず紫は訊き直していた。「だって歩道のほうに長くまっすぐ、出てたじゃん? 赤いリード」

 娘は軽く、笑っている。「あれ? リードじゃないってば。うち、またいだから見たし」


 つい、

「よかった」

 と、そうつぶやいた自分がいた。

 何が? なぜよかった、と言えるのだ? 紫は何度も自問する。

 その野生動物は明け方、何かの衝動なのか、止むにやまれぬ事情なのか道路に飛び出していって、そして通りかかった車に轢かれ、あえなく最期をとげた。

 

 しかし、あれは飼い犬ではなかったし、ましてや、赤いリードではなかったのだ。


 人の手が関わったものごとにせよ、そこに不注意以上の何かはなかった。

 悪意というほどでなくとも、不慮の出来事に対する良心の欠如が、紫にとってはたまらなく辛かった。しかし、そういったものにも、まだもう少し届いてはいなかったようだ。

 

 それだけで紫の胸からどす黒い霧が徐々に晴れていった。


「よかったよ、犬ではなくて」

 じっさい、犬とタヌキとどれだけ命の価値に差はあるのだろう? そしてニンゲンとも。

 それでも紫は弾んだ声でそう言っていた。

「よかったよ、ほんとに」

 娘がいぶかしげな眼で母をみている。その視線にも、赤い紐をためらいつつもまたぎ越え、先に進んでいった子どものしたたかさを、紫は認めたような気がしていた。


 誰がどんなグロテスクなものを路上にぶちまけていようが、構わない。

 それが誰かの悪しき思いから表出しているものでなければ。

 そして、ただ私のたいせつな者たちが、何にせよそこを踏み越えて行けるのならば。


 いっしゅん、手をつないで飛び降りる人びとが脳裏をよぎる。

 ううん、だいじょうぶ、あれはギネスに挑戦しただけ、そう、そして彼はもうすでに過去の人だ。

 あの時何がどうなったにせよ、もう、過ぎたことだ、そう、過ぎたこと。


 エゴの極みだと、重々承知はしていた、それでも、紫は

「今夜は大好きなロールキャベツだよ」

 どこまでも明るい声音で、また、台所に戻っていった。



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