パフ、まほうのりゅうが暮らしているという他愛ないお話。
これもヨシコから聞いたのだが。ということで。
いつまでも成長しない子ども、という感覚が、知的障がいの子どもにはどうしてもついてまわる。
障害はどうせ、障害でしょ? 一生治らないんだし、と仰る方のご意見もごもっとも。
このような子どもとともに暮らす人たちも多いし、障がいがあるとは言え人はそれぞれ千差万別、ぜんぜん違うんですよ、という方ももちろんいらっしゃるかと。
それでも成長しない子どもがいる。すぐ身近に。まあ仮に、とと君としよう。
ととはすでに17歳となった。
頭の中は、先日よんどころない事情で病院にて発達検査を受け、幅はあるものの「2歳5ヶ月~7歳」との判定を受ける。
ととに対する周囲の評判はすこぶる良い。
まず、愛嬌がある。人が好き。思いやりがある。あいさつができる(ことばはあまりしゃべれない。人前では2語文もやっと)。
状況に応じて適切な対応をする(咳き込んでいる人の背中を軽く叩いてやったり、ティッシュを差し出したり、とか、だいじょーぶ? と声かけしたり)。
子どもも大好きで、小学生くらいまでの子をみかけると「あっ、(とも)だち!」と声をかけ、なぜか「(がん)ばれよー」とつい応援してしまう。
それでも、少し複雑なことを言われるとかたまってしまう。
小さな子どもたちは、親の制止がなければまずだいたい、ととの笑顔に笑顔を返し、すぐに傍に寄ってくる。
そして他愛ないあそびをいっしょに始める。にらめっこ、とか、訳の分からない声かけ合い、とか、軽い追いかけっこ、とか。
ととの一歳違いの兄とも、一歳八ヶ月違いの妹が生まれた時も、そうだった。お互いことばにならない声をかけ合い、ほっぺをさわったり丸抱えしたり、つまらないことで笑いあったり、ただ走り回ったり……と、どんなことも刺激的な遊びに変換して、さまざまに楽しんでいた。
やがて、兄が成長し、妹が成長し、ととは「分かっていないこと」「進んでいないこと」で非難されることが多くなり、置いて行かれることが多くなった。
それでも、周りには友人たちがいた。
友人の弟、妹が増えるに従い、彼は新しく気心の知れる小さな友だちができていった。
彼らとともに庭を走りまわり、犬小屋に潜り込んで犬をこまらせたり、泥の中でそり遊びをしたり、手でこねた団子をお互いに食べさせあったり、腹の底から笑って日々を過ごした。
小さな彼らもしかし、いつの日か成長して、家を離れ、それぞれの道を行く。
いつまでも成長しないととは、ふしぎそうに彼らの背中を見送り、声をかけようとする、が、それをためらい、地面をみる。
いつの間に、彼らは大きくなってしまったのだろう?
いつの間に、彼らは自分と離れてしまったのだろう?
人は成長する。それは当たり前のことなのだ。
ただ、それについて行けないという人も、ほんのわずかだが、いるのだという事実。
以前はとても仲良かったのだが、今ではすっかり成長して離れてしまった少年がいて、その子のおうちに久々に遊びに行った。
少年は不在だったが、彼の幼い妹が寄ってきて
「ねえ、遊ぶ?」
そう、ととに声をかけた。
パフ、まほうのりゅうがくらしてた。
なぜかその歌が急にヨシコの脳裏によみがえり、歌の世界がはっきりと意味を持って、目の前に現れた。
パフは孤独だったのだろうか。
時は流れ、ジャッキー少年はおとなになる。
でも、洞窟にこもって涙を流さなくてもいいんだよ、とヨシコはまほうの竜の背中にそっと、手をかけた。
いつまでも成長できなくても、だれか、ついていてくれる人はいる。
あなたがやさしさを忘れない限り。
ととは、小さな少女の手を握り、「ともだち」と小さな声でつぶやいた。
少女は楽しそうに笑う。
成長することももちろん大切だけど、成長できなくても、その世界を温かく、楽しくできるというのも大事だよね?
生きているだけで、特に前向きとか進んでいる、っていうことがなくても存在していてぜんぜん構わないし、むしろうれしい、って気持ちになれるのって悪いことじゃないよね?
と、ヨシコはみょうに真顔でそう、問いかけてきたのでした。




