「無理はしなくていい」が口癖の婚約者。本当に無理をしなくなったら破棄されました
「セシル、そこまでしなくてよかったのに」
マティアス様は卓上に広げられた庭園の見取り図と、書き直された招待客の席次表を見比べて、困ったように眉を下げた。
「陛下がお越しになるという知らせが、昨日の夜に届いたばかりでしたでしょう。急ぎ席次を組み直しませんと」
「それはそうだが……こういうのは侍従に任せればいい。無理はしなくていいのに」
マティアス・ランドール侯爵令息。
わたくしの婚約者であるこの方は、いつもそう仰る。
無理はしなくていい。
わたくしがどれほど手を尽くしても、彼にとってそれは「しなくてもよかったこと」に分類される。
婚約して五年。
数えきれないほど、この言葉を聞いてきた。
社交界の噂話を先回りして把握し、彼が失言をする前に話題を変えたときも。
彼の妹君の誕生日に、好みを調べて贈り物を選んだときも。
体調を崩した彼の代わりに、領地の視察報告書を徹夜でまとめたときも。
無理はしなくていいのに。
その度に彼は、困ったように微笑んで、それだけを言った。
ありがとう、ではなく。
助かった、でもなく。
無理はしなくていいのに。
まるで、わたくしのしたことに意味などなかったかのように。
◇
きっかけは、些細なことだった。
その日、王都で最も影響力のある侯爵夫人主催の夜会に、わたくしたちは招かれていた。
マティアス様は、夫人の三人の令息の名前と、それぞれの近況をすっかり失念していた。
いつものわたくしなら、馬車の中で三人の名前と近況を諳んじて聞かせ、当日の会話の糸口まで用意しただろう。
けれどその晩、わたくしは馬車の窓の外を眺めたまま、何も言わなかった。
理由は自分でもよくわからない。
前日、領地の書類を三日徹夜でまとめ、そのまま倒れるように眠って、目覚めたら夜会の当日だった。
体はまだ鉛のように重かった。
(今日くらいは、無理をしなくてもいいかしら)
彼の言葉を、初めて自分のために使ってみた。
夜会で、マティアス様は夫人の長男の名前を間違えた。
気まずい沈黙が流れ、当のご令息は苦笑いで訂正した。
その場は何とか収まったけれど、帰りの馬車でマティアス様は珍しく不機嫌そうだった。
「今日は少し、調子が悪かったな」
わたくしのことではなく、ご自分のことを、そう仰った。
わたくしが何も助け舟を出さなかったことには、気づいてすらいないようだった。
なぜだろう。
申し訳ない気持ちより先に、静かな凪のような感覚が胸に広がった。
これが、無理をしないということなのか。
◇
それから、わたくしは少しずつ、手を放していった。
大きなことを、何かひとつやめたわけではない。
小さなことを、ひとつずつ、やめただけだった。
彼の執務室の机に、翌週の予定と注意事項をまとめたメモを置くのをやめた。
彼が苦手な数字の資料に、あらかじめ要点を書き添えるのをやめた。
彼の母君が涙もろい話題を嫌うことを、彼に思い出させるのをやめた。
ある朝、彼の従者が屋敷を訪ねてきて、困ったように告げた。
「旦那様が、明後日の建国祭の式典で読み上げる祝辞をまだお書きになっていなくて……セシル様、いつものように、下書きを頂けませんでしょうか」
以前のわたくしなら、その場で構成を考え、彼の言葉の癖を真似た草稿を、その日のうちに仕上げていただろう。
「マティアス様ご自身が、お考えになった方がよろしいと思いますわ」
わたくしがそう答えると、従者は驚いた顔をした。
「ですが……お時間が」
「二日もございますもの。きっと間に合いますわ」
微笑んで見送りながら、心のどこかで、彼の慌てる姿が容易に想像できて、少しだけ胸が痛んだ。
痛んだけれど、手は動かさなかった。
式典で読まれた祝辞は、当たり障りのない、けれど彼らしい素朴な言葉で綴られていたと、後で人づてに聞いた。
拙くはあったけれど、悪い評判にはならなかったらしい。
(それなら、それでよかったのだわ)
わたくしが手を離しても、彼の人生は、彼自身のものとして続いていく。
そのことに、少しほっとしている自分がいた。
どれも、わたくしにとっては当たり前の習慣だった。
マティアス様のためというより、二人でうまくやっていくための、ただの手順のようなものだと思っていた。
けれど手を放してみて、初めて気づいた。
それは習慣ではなく、わたくしがずっと、彼の代わりに背負っていた重さだったのだと。
軽くなった腕で、わたくしは久しぶりに刺繍を再開した。
婚約する前は好きだった、意味のない、ただ美しいだけの模様を刺す時間。
マティアス様のための書類も、贈り物の下調べも、その時間を削って作っていたのだと、今さらのように思い出した。
◇
一月ほど経った頃、変化は誰の目にも明らかになっていた。
視察の報告書は締め切りに間に合わず、財務官からの叱責を受けた。
夫人方との茶会では、話題選びを誤って気まずい空気を作った。
領地の水路工事の予算配分を間違えて、村長から抗議の手紙が届いた。
どれも、以前のわたくしなら未然に防いでいたことばかりだった。
マティアス様は苛立ちを募らせながらも、その原因がどこにあるのか、うまく言葉にできずにいるようだった。
「最近、身の回りのことがどうもうまく回らない」
ある晩、彼はそう零した。
「そう、でございますか」
「セシルは何か気づかないか。おかしなことばかり続く」
わたくしは、刺繍の手を止めずに答えた。
「わたくしにできることでしたら、お力になりますわ」
嘘ではなかった。頼まれれば、今でも手伝う。
ただ、頼まれる前に先回りすることを、もうしないだけ。
マティアス様は、その違いにまだ気づいていなかった。
◇
半年後、彼の家であるランドール侯爵家と、隣領のブロワ伯爵家との縁談交渉が持ち上がった。
マティアス様の妹君の結婚に関わる、慎重な話し合いだった。
以前のわたくしなら、両家の過去の因縁や、ブロワ家当主の好む話法まで調べ上げて、交渉の場に彼を送り出しただろう。
今回、わたくしは何もしなかった。
交渉は難航した。
マティアス様は、相手方の地雷を三度踏んだ末に、席を立たれてしまったと聞いた。
その夜、彼はわたくしの屋敷を訪ねてきた。
普段の穏やかな彼らしくない、余裕のない顔をしていた。
「セシル。今日の交渉のことを、知っているか」
「風の噂に伺いました」
「以前の君なら、こうなる前に手を貸してくれていたはずだ」
わたくしは、彼の目をまっすぐに見た。
「以前のわたくしは、無理をしておりましたの」
マティアス様が、息を呑む気配がした。
「あなたはいつも、無理はしなくていいと仰ってくださいましたでしょう。ですから、その通りにいたしましたわ」
「それは、そういう意味では……」
「では、どういう意味でしたの?」
静かに問うと、彼は言葉に詰まった。
長い沈黙のあと、彼は絞り出すように言った。
「君が、変わってしまった気がする」
「変わったのではございませんわ。ようやく、無理をしなくなっただけです」
「以前の君の方が、婚約者としてふさわしかった」
「以前のわたくしは、無理をして、それを隠しておりました。マティアス様が心地よくお過ごしになれるように」
「だったら、なぜ今はそうしてくれない」
「隠さなくていいと、あなたが仰ったからですわ」
マティアス様は口を開きかけて、閉じた。
「……そういうつもりで言ったのではない」
「では、どういうおつもりで仰っていましたの」
もう一度、同じ問いを重ねた。
彼は答えなかった。
答えられなかったのだと、わたくしは思う。
その一言で、五年間の答え合わせが終わった。
彼が欲しかったのは、無理をしないわたくしではなかった。
無理をしていることに気づかせない、都合のいいわたくしだった。
◇
婚約破棄の申し出は、その二週間後に届いた。
理由には「婚約者としての熱意の欠如」と、体裁のよい言葉が並べられていた。
わたくしは、その書面に静かに署名をした。
抗議も、涙も、必要なかった。
ただ一言だけ、返事を書き添えた。
「無理はしなくていい、と仰ったのはあなたですわ。ようやく守れて、嬉しく思っております」
◇
それから一年が経った。
わたくしは実家の領地で、水路工事の予算組みを手伝いながら、暇を見つけては刺繍をする日々を送っている。
先日、隣領から視察にいらした若い伯爵が、わたくしの刺した布を見て、意味もなく美しいものを美しいと言ってくれた人は初めてだと、笑っていた。
「無理をなさらず、また今度も見せていただけますか」
その言葉を、わたくしはもう、恐れずに受け取ることができる。
無理をしていないわたくしにも、ちゃんと価値があるのだと、今なら知っているから。
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