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茨の主婦、夕食の献立、時々、地獄。

掲載日:2026/02/08

今朝も腰が重い。50歳になった体には、墓地へ続く長い階段がこたえる。


命日に供える缶コーヒーと、一本のタバコ。

私は、普通の主婦として、静かに手を合わせた。


「真希、あれからもう33年経つんだね」


心の中でだけ、そっと語りかける。墓石に刻まれた親友の名前は、雨風にさらされて少しだけ角が丸くなっていた。


あの頃の私たちは、明日なんて来ないみたいに、ただひたすら熱狂の中にいた。


今の私を見たら、真希はきっと腹を抱えて笑うだろう。特売の挽肉が10円高いだけで一喜一憂し、膝の痛みに顔をしかめる、どこにでもいるただのオバサン。


「……アタシ、ちゃんと普通になれてるかな」


返事の代わりに、湿った風が私の短い髪を撫でて通り過ぎた。


「ふぅ……」


膝の関節が、パキッと嫌な音を立てた。


もはや私にとって、階段はエベレスト級の難所だ。重力という名の現実が、容赦なく50歳の体にのしかかってくる。


今の私にあるのは、湿布の匂いと、スーパーの特売チラシを読み解く生活の知恵だけだ。


名前は佐藤恵子。名字から名前まで、どこを切り取っても平均値の塊みたいな女。 スーパー・アオヤマのレジ打ちが、今の私の戦場だ。


帰りのバスに揺られながら、夕飯の献立を考える。昨日は肉じゃが、一昨日はカレー。冷蔵庫の余り物をパズルのように組み合わせる頭脳戦。


私の人生、こんなに平和でいいのかってくらい、平和そのものだった。 昨日の特売で卵を買い逃したことが、人生最大の挫折だと言えるくらいには。


でも、最近。心の奥底に、得体の知れない泥が溜まっていくような感覚がある。原因は、愛娘の菜々美だ。


「ただいま、菜々美。夕飯、ハンバーグでいい?」


リビングの扉を開けても、返事がない。いつもなら「お帰り、お疲れ様!」と、ひまわりみたいな笑顔で迎えてくれるはずなのに。


ソファの隅で、菜々美が丸まっていた。スマホの画面を凝視したまま、指先がかすかに震えている。


「菜々美? 大丈夫? 具合悪いの?」


近づくと、彼女はビクッと肩を跳ねさせた。その目は、まるで何かに追われている小動物のように泳いでいる。


「……あ、お母さん。ううん、なんでもない。ちょっと、レポートが大変で」


嘘だ。


母親を25年やってりゃ、娘の嘘なんて賞味期限切れの牛乳よりすぐ分かる。


彼女の顔色は、一晩中水に浸かった古紙みたいに青白い。食卓に出したハンバーグも、彼女は半分も口に運ばなかった。


不安が、胃の奥をチリチリと焼く。私は寝る前、海外に単身赴任中の夫、良一にビデオ通話を繋いだ。


『おー、恵子か。そっちは変わりないか?』


画面の向こうで、良一がのんきにビールを煽っている。彼の後ろには異国の夜景。


「良一さん。菜々美の様子が、最近ちょっと変なの。何かあったんじゃないかって……」


『ははは、考えすぎだよ母さん。あいつはもう大学生だぞ? 恋愛の悩みの一つや二つあるさ。それより、そっちは平和でいいなぁ。俺なんて明日も接待だよ』


この男。相変わらず私の不安を、主婦の暇つぶし程度にしか思っていない。


今度は、社会人で一人暮らしをしている息子の健太に電話をかけた。


「あ、健太? 忙しいところごめんね。あのね、菜々美が……」


『母さん、また? 菜々美を甘やかしすぎなんだよ。アイツもいい大人なんだから、放っておけって。それより俺、明日早いから切るよ。あ、野菜送ってくれてサンキュー』


ガチャン。ツーツーという無機質な音が、静かなリビングに響く。 家族は誰も、この違和感に気づいてくれない。


私は、菜々美の部屋から漏れてくる微かな震え声を聞いた。彼女は泣いている。 スマホを握りしめ、何かに怯えるように、押し殺した声で。


「……違う、私は、そんなこと……」


娘の声を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい氷が滑り落ちた。33年前。真希が死ぬ直前に漏らした、あの震える声に似ていたからだ。


嫌な予感がする。


主婦の勘なんて、大抵は明日の天気を当てる程度だ。でも、この予感は、もっとドロドロとした、逃げられない泥沼のような直感だった。


翌朝。菜々美が大学へ行ったあと、彼女がテーブルに忘れていったスマホが、狂ったように震え出した。


通知画面に表示されたのは、見たこともない罵詈雑言の嵐。


『死ねよ、嘘つき女』

『特定した。こいつの家、ここじゃね?』

『正義の鉄槌を下してやる』


……何、これ。


私の手が、得体の知れない黒い怒りで、激しく震え始めていた。


平和だった佐藤恵子の日常が、音を立てて崩れ落ちていく。


その隙間から、ずっと閉じ込めていた「あの頃の風」が、冷たく吹き込んできた。


「……え?」


開いたスマホの画面が、熱を持った鉄板みたいに熱い。


流れてくる言葉は、どれも包丁みたいに鋭く、毒々しい。


『売名女』

『パパ活失敗の逆恨み』

『佐藤菜々美、人生終了おめでとう』


そこには、私の娘の顔写真が、悪意たっぷりの加工を施されて晒されていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


心臓の鼓動が、不気味なリズムで早鐘を打つ。


「菜々美、これ……どういうことなの?」


大学から帰ってきた娘を問い詰めると、彼女は力なく床に崩れ落ちた。 震える声で語られたのは、悪夢のような真実だった。


「私……見たの。あの一条いちじょう れんが、後輩の女の子を無理やり車に連れ込むところ……」


一条 蓮。次期総理候補と言われる大物政治家、一条 龍三の息子だ。


菜々美は、それを偶然動画に撮ってしまった。そして、正義感からSNSに上げた。


だが、その数時間後には動画は削除され、逆に菜々美が「偽造動画で名士を強請った極悪非道な女」として祭り上げられていたのだ。


そこからは、まさに雪崩だった。


深夜、家の電話が鳴り止まない。受話器を取れば、『死ね』『消えろ』という汚い怒号。


玄関には、どこから集めたのか分からない生ゴミがぶちまけられ、壁には赤いスプレーで『人殺し』の文字。


50歳の主婦が25年間守り続けてきた平穏な庭が、一晩でゴミ捨て場に変わった。


「母さん、何やってんだよ! 俺の会社にも連絡が来たぞ!」


健太からの電話は、妹を心配するどころか、自分の保身に必死だった。


「会社から、しばらく来るなって言われた。どうすんだよこれ……俺のキャリア、台無しじゃん!」


夫の良一に至っては、娘をまるで厄介者扱い。


「ほとぼりが冷めるまで、菜々美をどっか親戚の家にでも預けられないか」


……情けない。男たちは、いざとなると自分を守ることしか考えない。 震える娘を守れるのは、腰痛持ちの私しかいない。


「お母さんが、何とかするから」


翌日、私はパートを休んで警察署へ向かった。


窓口で、必死に事情を説明する。娘は被害者なんです。あの一条という男が嘘をついているんです、と。


だが、出てきた警察署長は、私の顔を見るなり鼻で笑った。


「佐藤さんだっけ? 君ねぇ、相手が誰だか分かってるの? 一条先生はね、この国の宝なんだよ。その息子さんが、そんなことするはずないじゃないか。君らのやってることは、ただの名誉毀損。むしろ逮捕されるのは、君の娘さんの方だよ」


「そんな……! 動画だってあったんです!」


「証拠がないんだよ、証拠が。いいから帰りな。おばさん、世の中にはね、触っちゃいけないもんがあるんだよ」


署長が私の肩を、ゴミでも払うように突き飛ばした。よろけて壁にぶつかった私の耳に、小さな嘲笑が届く


「身の程を知れよな、まったく」


パート先のスーパーに出勤すると、店長が申し訳なさそうに、でも冷たい目で私を見た。


「佐藤さん、悪いけど、これ以上お店に迷惑をかけないでくれ。お客から『あんな母親を雇ってるのか』って苦情が殺到してるんだ」


制服を返し、重い足取りでスーパーを出た。昨日まで、私はここでネギの鮮度を確認し、1円でも安い卵を求めていた。


当たり前の日常が、権力という名のバケモノに、無慈悲に踏み潰されていく。


帰り道、コンビニの雑誌コーナーに、一条 蓮の爽やかな笑顔が並んでいた。


『次世代を担うリーダーの素顔』


その笑顔の裏で、私の娘は今も部屋の隅で、呼吸の仕方を忘れたみたいに震えている。


「……あーあ。世の中、腐ってるね、真希」


私は空を見上げた。真っ黒な雲が、今にも降り出しそうに垂れ込めている。


腰の痛みが、いつになく鋭い。でも、それ以上に、腹の底で何かが、ドロリと溶け出している。


でも私は、ただの主婦で、母親。


エプロンを締めて、娘に温かいスープを作らなきゃいけない。怒りで拳を握りそうになる自分を、私は必死で抑え込んだ。


「大丈夫……大丈夫。アタシ(・・・)が、何とかする……」


自分に言い聞かせながら、私はゴミの散らばった家へと向かう。そこには、さらなる悪意が待ち構えているとも知らずに。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


家に入ろうと玄関の鍵を取り出した瞬間、背後から一斉に眩い光の暴力が突き刺さった。振り返る間もなく、待ち伏せしていた連中に囲まれる。


「出たー! 捏造JDの母親降臨! 皆さん見てください、これが嘘つき親子の総本山ですよー!」


至近距離から突きつけられる、複数のスマホカメラ。


自称・正義のジャーナリストを名乗る配信者どもが、いつの間にか我が家の敷地内にまで侵入していたのだ。


ガムを噛みながらニヤつく男に、自撮り棒を振り回す女。


その後ろ、路上に横付けされた高級外車に身を預け、退屈そうにこちらを見ている男がいた。


一条 蓮だ。この地獄の元凶。


「やめて……映さないで……!」


奥の部屋から、ガタガタと震えながら菜々美が出てきた。


その瞬間、配信者の一人が土足で家に踏み込み、菜々美の腕を掴んでカメラの前に引きずり出した。


「ほらほら、泣き顔アップいただき! おい、一条さんに謝れよ。狂言でしたって言えよ!」


「離して! お願い、やめて!」


菜々美の悲鳴がリビングに響く。


私は必死で割って入ろうとしたが、配信者の仲間に突き飛ばされ、尻餅をついた。


その衝撃で、首元に隠していたチェーンが弾け、床に何かが転がった。


真希の形見。遺骨を納めた、小さなシルバーリングだ。


「お、なんだこれ? シルバー? 安っぽ!」


配信者の一人が、それを拾い上げた。


「返して……それは、大事なものなの……!」


私は床を這いながら手を伸ばしたが、一条 蓮が歩み寄り、配信者からリングを取り上げた。


彼はそれを、指先でつまんでまじまじと眺めたあと、ゴミを見るような目で私を見下ろした。


「おばさんさぁ、こういうゴミみたいな思い出に執着してるから、娘もゴミみたいに育つんだよ。分かる?」


一条は、リングを玄関のアスファルトの上に放り投げた。そして、磨き上げられた革靴の踵で、ゆっくりと、確実に体重をかけた。


――ミシミシ


鈍い音がして、33年間、私の心を支え続けてきた形見が、無残にひしゃげ、砕けた。


「あ……」


菜々美が絶望のあまり、声を失ってその場に崩れ落ちた。


配信者どもは、その姿を、ウケる、と笑いながら生中継している。


その瞬間――――


私の頭の中で、張り詰めていた何かが、爆音を立てて千切れた。


視界が真っ赤に染まる。


膝の痛みも、50歳の衰えも、すべてが熱波に飲み込まれて消えた。


ゆっくりと、私は立ち上がった。


丸まっていた背筋が、鉄の芯が通ったように真っ直ぐに伸びる。


「……おい、ガキ」


低く、地鳴りのような声が私の喉から漏れた。配信者たちが、一瞬だけ動きを止める。


「え? 今なんて言ったの、おばさ――」


一番近くでカメラを回していた男の首根っこを、私は左手で掴んだ。


ただの主婦の力じゃない。かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた、獲物を仕留めるための握力だ。


「ガキっつってんだよ、こら。耳ついてんのか?」


私はそのまま、男の顔面をキッチンの壁に叩きつけた。鈍い音がして、スマホが床に転がる。


「なっ、なんだよ!? このババア、暴力だ! 逆ギレだぞ!」


他の連中が騒ぎ出すが、私の目は、一条 蓮だけを射抜いていた。


蛇に睨まれた蛙のように、一条の顔から余裕が消え、みるみるうちに土気色に変わっていく。


「てめぇ、真希のリング、踏みやがったな……」


私は一歩、また一歩と一条へ歩み寄る。


震える配信者が自撮り棒で殴りかかってくるが、見向きもせずにその腕を掴み、骨が軋むまで捻り上げた。


「あぎゃあああ!」


「うるせぇよ、シャバ僧が!アタシの縄張りで、いつまでガタガタ抜かしてんだ?」


25年。私は『佐藤恵子』という仮面を被って生きてきた。


特売の肉を買い、家族の顔色を伺い、理不尽に頭を下げる。


そんな『普通』のために、アタシの魂を殺してきた。


けど、もういいわ。


「ポリ公も、その腐った親父も、まとめて焼き入れてやんよ。一条、てめぇ地獄に直葬される準備はできてるか?」


恵子の瞳から、主婦の光は完全に消えていた。


そこにいたのは、かつて関東一帯を恐怖に陥れた、伝説のレディース総長――くれないのケイ


魔王の再臨だ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「……ひ、ひいっ!」


一条が、情けない悲鳴を上げて尻餅をついた。


さっきまでカメラを回していた配信者どもは、アタシの放つ本物の殺気に当てられ、膝をガクガクと震わせている。


「一条、言ったよな? 地獄の端っこまで、ケツ持ちしてやるってよ」


アタシは一条の襟元を掴み、そのまま軽々と持ち上げた。50歳の主婦の力じゃない。これは、怒りに狂った鬼の剛力だ。


「待て! 俺を誰だと思ってる! 親父が黙ってないぞ!」


「あぁ、その親父もろともケジメつけに行こうじゃねぇか。まとめてブッこんでやるからよ、そこで震えてな!」


アタシは、一条を庭のゴミ袋の上に放り捨てた。そして25年間、一度も手にしなかった古い携帯電話を取り出す。


ダイヤルしたのは、たった一つの番号。


「……アタシだよ。……あぁ、恵子だ。……悪いな、出入りだ。頼めるか?」


電話を切ると、アタシはゴミ袋に転がったままの一条を、虫ケラを見るような目で見下ろした。


「……菜々美、こっちおいで」


アタシは優しく、でも抗いようのない力強さで、怯える娘を自分の方へ引き寄せた。


「菜々美、ごめん。ずっと隠してて。お母さん、昔ね……最低の不良だったんだわ」


娘の小さな肩がびくりと跳ねる。


「でも、アンタを守るためなら、アタシは何度でも地獄に戻る。だから、ちょっとだけ待ってな。あのクズども、全員まとめて焼き入れてくるから」


その時、庭のフェンスを軽々と飛び越え、屈強な男たちが数人、無言で玄関を固めた。


かつて『紅蓮くれないれん』で一番の武闘派だった親衛隊だ。今はただの工務店の親父たちだが、その眼光は当時のまま。


「総長、ここは任せてください。お嬢さんには、指一本触れさせねぇんで」


「……悪いね、頼んだよ」


菜々美の涙を拭い、アタシは一歩も引かない決意で立ち上がった。


間もなく、閑静な住宅街の静寂を、地を這うような重低音が切り裂いた。現れたのは、漆黒のハイエースと、フルレストアされた真っ赤なアメ車。


車から降りてきたのは、今は敏腕記者となった元親衛隊のミキ、ハッカーとして裏世界で生きるサトシ、そして泣く子も黙る元特攻隊長、運送会社の社長となったケイスケ。


「……総長。遅いっすよ、お呼びが」


ミキが不敵に笑い、特注のコートをアタシの肩にかけた。『紅蓮』の特攻服を模した、漆黒のロングコート。


アタシはそれを羽織り、砕かれた真希のリングの破片をポケットにねじ込んだ。


「行くよ。都内のホテルだ。一条の親父がパーティーやってんだろ?」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


会場の鉄扉が、ケイスケの運転するトラックによって、文字通り粉砕された。


華やかなドレスとタキシードに身を包んだエリートどもが、悲鳴を上げて逃げ惑う。


「なんだ! 何事だ!」


演壇で泡を食っているのは、次期総理候補、一条 龍三。その傍らには、恵子を門前払いした、あの汚職署長もいた。


「よぉ、お偉いさん方。パーティーの最中に悪ィな」


アタシは、ボコボコにした一条 蓮を引きずりながら、悠然とレッドカーペットを歩いた。


群がるSPどもが警棒を抜くが、アタシの敵じゃない。


「邪魔だよ、シャバ僧が」


特売で鍛えた動体視力と、体に染みついた喧嘩殺法。振り下ろされる警棒を紙一重でかわし、顎に掌底を叩き込む。


一人、また一人と、暴力のプロたちがアタシの足元に沈んでいく。


「警察を呼べ! こいつを逮捕しろ!」


署長が叫ぶが、ミキが冷たくスマホを突きつけた。


「無駄だよ、ポリ公が。今この瞬間、あんたらの癒着、裏金、一条 蓮の性加害動画……全部まとめて世界に同時配信してやろうか? あんたが頼みにしてたサーバー、うちのサトシが数分で落としたからさ」


会場の大型モニターに、一条 蓮の悪行の証拠が次々と映し出される。


顔を真っ青にする龍三。腰を抜かす署長。アタシは演壇に上がり、龍三の胸ぐらを掴んだ。


「お前らが踏みにじったのは、アタシのマブの思い出と、娘の未来だ。……マッポのツラ汚しが!ギロチン台で恥さらす気分はどうだ? 」


アタシは拳を固め、25年分の怒りを込めて、その肥え太った顔面をぶち抜いた。


「焼き入れ完了。……二度と、アタシの縄張りを汚すんじゃねぇぞ!」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


翌朝。キッチンには、味噌汁のいい匂いが漂っていた。


「菜々美、おいで。朝ごはん、できてるわよ」


昨夜の魔王の面影は、もうどこにもない。エプロンを締め、少し腰をさすりながら笑う、いつものお母さんだ。


ネット上では、一条親子の失脚と警察の不祥事で大騒ぎになっているが、そんなの知ったこっちゃない。


「……お母さん、昨日のこと、夢じゃないよね?」


元気を取り戻した菜々美が、おずおずと食卓につく。


「さあ、何のことかしら? それより、卵焼き、上手に焼けたから食べちゃいなさい」


アタシは窓の外を眺めた。雲一つない青空。


ポケットの中で、ミキが直してくれたシルバーリングが、朝日を浴びてキラリと輝いた。


「真希。……アタシ、今日も普通のお母さん、やるわ」


アタシは優しく微笑み、特売のチラシに目を落とした。


今日の卵は、198円だ。


(完)

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