第9章 黒外套の追跡者
塔へ向かう道は白く乾いて、朝の匂いがした。人の影が伸びるたび、胸の札のVがかすかに温かい。
「尾がついてる」カイトが言った。
「どこ」
「屋根。間合いの取り方が教会じゃない」
「自由結社?」
「断定はしない」セラが視線だけ上に滑らせる。「でも、歩幅が“狩り”のそれ」
市場の角で私は足を緩めた。行列の陰、干した布の影。
「寄せる?」
「寄せる。――“追跡者は護衛です”と言い換えて、狭い場所へ誘う」
「言い方」
「任せて」私は布に手をかける。「届け物です。通して」
人の流れが細くなり、路地に風が入る。
瓦がコトンと鳴り、黒外套が地面に落ちた。背丈は私と同じくらい。顔は影。胸章なし。
「おはよう」声は若い。「君、連帯の糸がきれいに見える」
「見える?」
「見える。君は供給源。私たちの数合わせに必要だ」
「どこの“私たち”」セラが前へ出る。
「名前は捨てた。――けど、刻みは見せる」
黒外套は手の甲を返し、矢羽の印を見せた。
「ラチェットの人間」カイトの声が低くなる。
「“人間”かどうかは曖昧だよ。数の方が先」
「数?」
「帳面が空く。埋めないと、夜が荒れる」
『埋めるの、好き』白い囁きが肩で笑う。
「黙って」
「拉致はしない。提案だ」黒外套は1歩だけ近づく。間合いを測っている。「塔の聴聞、君は負ける。ヴァルグに言葉で。だから、先に借りを作る。うちで」
「言い方が雑」セラが肩をすくめた。「“守る”から言いなさい」
「守るよ。全部。ただし帳面が優先」
「優先順位で、命が落ちる」カイトが半歩出る。「間合い、広げろ」
「広げない」黒外套は笑って、袖の内側から薄い鎖を出した。小さな印が等間隔に打ってある。
「剥離印の鎖。膜を剥がす」
「任せて。――保護」
薄膜が立つ。鎖が触れ、金属音が柔らかく散った。膜の表面に白い線が走る。
「剥がれる前にずらす」セラが指二本。「通れ」
「――偏向」
鎖の角度が半歩だけ逸れて、柱に巻きつく。
「君、上手い」黒外套の声が楽しそうになる。「じゃあ――静音」
音が床に落ち、世界が綿の中に入る。詠唱が通りづらくなる。
「任せて。――共聴」
胸の熱が耳に回る。細い摩擦音が布越しに触れる。“右、二歩”。
「カイト、右」
「右」
彼の足が影に踏みこみ、柄が触れるだけで鎖の起点を弾く。
「一度だけ忠告」セラが黒外套を見据える。「“救護”の場を荒らすなら、条文で縛る」
「条文は穴だらけ」
「穴は、言い方で塞げる」
黒外套は肩をすくめ、指で印を弾いた。鎖の刻みが反転し、膜の内側に潜ろうとする。
「内へ来る」
「なら内で止める」私は息を切る。「――止結」
膜と鎖の触れ点が一拍だけ凍り、進行が止まる。
「そこ」
「そこ」カイトの刃(今日は木剣じゃない)が金具をはじき、鎖が地面に落ちた。
「負けを認める?」私は問う。
「やだ」黒外套は笑い、左手をこちらへ見せた。掌の中心に、細い点。
「点火」
火が、付かなかった。
「……あれ?」
「詠唱は二語」私は首を傾げる。「一語は練習?」
「練習。うん。――なら二語。点火、拡散」
空気が熱を孕み、路地の奥が燃えそうに見えた瞬間、私は短く切った。
「冷却」
白い息。熱が沈む。
「君、可愛いね」黒外套は肩で笑う。「“しか”が強い。支援しかない」
「しか、で全部やる」
「じゃあ、最後の提案。今夜、橋へ来い。供給の契約を見せる」
「取引?」
「取引。命が減らないやつ」
「命の減らない取引は言い方だけ」セラが冷たく返す。「契約は何かを食う。帳面が正直」
「正直は、時々つまらない」黒外套は踵を返す。屋根を見上げ、軽く膝を曲げた。
「逃がす?」私はカイトを見る。
「追わない。聴聞に遅れる」
「正しい」
黒外套は瓦に跳ね上がり、影に消えた。風だけが残る。
『今の、似てる』白い囁きが耳の内側で転がる。
「なにが」
『言い方。君が覚える前の、君の言い方』
「前?」
『うん。“後で、前”』
嫌な鳥肌が立った。
「セラ、今の剥離印、記録に残せる?」
「残す。刻みの周期も。――鎖は工房の試作だ。精度が粗い」
「粗いのに効き目がある」
「粗いから、広い。怖いのは精度じゃなく普及」
「普及」
「数が揃う、ということ」
塔の影が手前へ伸びてきた。鐘の音が一つ。呼び出しの札が胸の上で震える。
「間に合う?」
「間に合わせる」カイトが笑う。「任せた」
「任せて。――強化」
足が軽くなる。
「保護」
皮膚に薄膜。
「共援」
呼吸が揃い、歩幅が同じになる。
階段を駆け上がる途中で、私はふと立ち止まった。石の手すりに、白い羽が一枚、静かに貼りついている。
『拾う?』
「拾わない」
『賢い。――でも、記録した』
「勝手に」
『君の帳面はきれい。見るのが楽しい』
「見るなら、責任を持って」
『持つ。半分は私が持ってる』
聴聞の扉が前にある。空気が冷たい。
「怖い?」セラが小さく聞く。
「少し」
「怖さは半分」セラは私の手を握った。「“しか”は、全部」
「全部。任せて」
「短く話せ」カイトが顎で扉を示す。「間合い、詰めすぎるな」
――扉の隙間から、灰色の瞳が一瞬だけこちらを見た。
――ヴァルグの声が落ちる直前、階下の路地で黒外套が二人に増えた音が、確かにした。