第6章 禁忌の条文
塔の書庫は冷たくて、紙の匂いがした。窓は高い。光は薄い。
「公開書庫はここまで。奥は禁書庫」セラが指で線を引く。「今日は版下室だけ使う」
「禁書庫は入れない?」
「条文の言い方次第だけど、今は危ない」
受付台の老書記が顔を上げた。
「修道魔導士セラ。目的を」
「予防のための照合。移植印“矢羽”の出典」
「予防、ね。なら閲覧可」老書記は札を二枚出す。「声の大きい詠唱は禁止」
「短く囁く」私は頷く。
「囁きでも、帳面は聞いている」老書記は笑った。
版下室。薄い石机に、刷り見本が並ぶ。セラが素早く指で追う。
「ここ。“禁忌条文”」
紙の隅に小さな※印。そこだけ紙が新しい。
「貼り替え?」
「更新だ。――見て、リラ」
未契約印は灰化。ただし救護目的は除く。※三:支援術の連帯は契約とみなす。※四:剥離印の応急処置は救護に準ず。
「重なってる」
「うん。灰化条項に救護と連帯と応急が重なると、灰化が止まる。法律の自己衝突」
「誰が直したの」
「署名……“査問局監”。個別担当――“V”」
「ヴァルグ?」
「たぶん」
カイトが腕を組む。
「教会が全部悪なら、直さない。これは“必要悪”の匂いがする」
「言い方、上手い」私は小声で笑う。
「笑ってる場合じゃない。――“矢羽”の方を見よう」セラが頁をめくる。
矢羽型補助刻:分配式。供給者一、被供給者多。禁止――登録外の工房製
「登録外は、ラチェット」
「うん。なのに、ここに暫定許容の貼り紙。日付が新しい」
「許容?」
「“辺境に限り、救護と予防のため暫定運用を許す”。言い方一つで灰でも白でもない灰色にする」
『灰色、好き。混ざると、おいしい』
「黙って」私は耳を押さえる。
「声?」
「まだ半分。大丈夫」
石の床が、かすかに鳴った。
「今の音」
「紙守」セラが顔を上げる。「閲覧の動きに反応する見張り。争うのは避けたい」
「避けられないなら?」
「短く終わらせる」
回廊から、薄い影。紙を束ねた人型が滑ってくる。墨の目。
「閲覧許可証を」
「ここ」セラが札を見せる。
「詠唱禁止」
「囁きは許されてる」
「判定中」紙守の指が震え、墨の糸が伸びる。
糸が私の手首に触れる前に、私は息を短く切った。
「――保護」
薄い膜がはじけ、糸が逸れる。
「判定、継続」
「長い」カイトが低く言う。「間合い、狭い」
「押す?」
「押す」
「任せて。――強化」
足が軽い。カイトは一歩だけ出て、刃の背で紙守の手首を触れるだけ叩く。
墨がはじけ、糸が解けた。
「暴力、厳禁」紙守の声が平板に低くなる。
「暴力じゃない。整えてるだけ」セラが即答する。「※二“救護”、※四“応急”。糸が私の聴力を奪った。救護中だ」
「言い方、適合」紙守は一拍沈黙し、下がった。
呼吸が落ち着く。私は頁に指を戻す。
「“連帯”の注釈、もう一枚ある。……共同監査?」
「どこ」
「ここ。“支援術の連帯は二人以上でよい。ただし監査人を一名置く”」
「監査人」カイトが眉をしかめる。「見張り役、必要ってことか」
「誰を置く?」
「……私がやる」セラが言った。「声の半分は既に、私が受けてる。連帯の条件、満たせる」
「危ないよ」
「危ないけど、言い方で安全を作れる。――“私が”ではなく“私たちが”。“守る”ではなく“整える”。言葉は、帳面の路を変える」
「整える。わかった」
老書記が背後に現れた。いつの間に。
「熱心だな」
「条文の読み替えを確認していました」セラが礼をする。
「読み替えは、時に救い、時に穴になる」老書記は版下の継ぎ目を撫でる。「この貼り紙は、急ごしらえだ。書いた手が震えている」
「誰が?」
「知らない方がいい時もある」
「知りたい」私は言った。
「知ったら、言い方の責任が増える」老書記は淡く笑う。「君はやさしい。責任は重くなる」
『やさしさ、強く。借りは軽く』
「……黙ってて」
版下室の奥、鍵のかかった扉。
「禁書庫の方で、めくれ音がする」セラが眉を寄せる。
「帳面の棚?」
「うん。誰かが大きな“借り”を動かしてる。――今日、二度目」
「ヴァルグ?」
「断定はしない。けど、彼は見張りの仕事をする人だ」
扉の前で、若い侍祭が鍵を持って立ちはだかった。あの路地の男だ。
「ここから先、立入禁止」
「知ってる」
「なら、戻れ」
「聞きたいことがあるだけ」セラが柔らかく言う。「“矢羽”の暫定許容、あなたの担当?」
「違う」
「では、誰の」
「――言えない」
「“言えない”は、言ってるのと同じ」カイトが低く笑う。
「押し通るなら、拘束する」侍祭が詠唱する。「束縛」
「任せて。――偏向」
糸が壁の金具に滑り、鍵がカランと落ちた。
「やめて」セラが手を上げる。「ここで戦うのは読み替えの負け」
「負け?」
「言い方で勝ってるのに、行動で負けるのは愚か」
侍祭は歯噛みして鍵を拾い、「本当に“救護”なのか」と呟いた。
「救護だ」私は言った。「“私たちの耳”がまだ少し痛い」
侍祭は目を伏せ、脇へどいた。
外へ出る前に、私はもう一度版下に触れた。紙の端が、体温で柔らかくなる。
「“支援しか、ない”」
「“しか”が一番強い」セラが笑う。
「じゃあ、連帯を正式に」
「正式に――明朝、聴聞の前に署名しよう」
書庫を出ると、塔の影が長く伸びていた。風が一口冷たい。
『借りる? 返す? まだ足りない』
「足りないのは、私の覚悟。……任せて。明日、言う」
「言え」カイトが頷く。「短く」
「短く」
――塔上から白い羽が落ち、私の通行札に静かに止まった。
――羽の下に隠れていた小さなVの印を見た瞬間、胸の刻印が見たことのない色で跳ねた。