第5章 支援だけど前へ
宿の食堂は朝の匂いでいっぱいだった。焼いたパン、薄いスープ、やさしい音。
「仕事、受ける?」セラが木札を並べる。
「受ける。借りは作らない」
「同意。じゃあこれ」セラが指した札には〈市場通り・魔獣騒ぎ〉とある。
「昨日の灰鼠と同系?」
「違う匂い。移植刻印の疑い」
「移植?」
「本来の印じゃないやつを縫い付ける。禁忌ぎりぎり。――※二“救護”、※三“連帯”で臨時の**警邏**扱いにする。合法で動ける」
「言い方、便利」
「言い方は武器」セラが微笑む。
カイトが腰の鞘を叩いた。「間合い、俺が詰める。お前は視線を切れ」
「任せて」
市場通りは、色と声が渦を巻いていた。布、薬草、錆びた鐘。人が割れる。悲鳴。
「どこ」
「右手の路地」カイトが顎で示す。「血の匂いじゃない。油だ」
路地の奥、荷車が横たわり、その影に革縫い狼が三匹。肩口に、粗い縫い目の革片。そこだけが不自然に光る。
「縫ってある」
「印が外付け」セラが目を細める。「工房の手だ」
「工房?」
「後で。今は人を下げて」
私は人混みに向かって手を挙げる。
「後ろへ。下がって。――共援」
空気が澄み、声がやさしく遠くまで届く。人の足が自然に二歩下がった。
「行く。任せて。――強化」
体が軽い。カイトの足が半拍速くなる。
「保護」
薄い膜が皮膚に貼りつく。
「セラ、合図で切り替える」
「了解。指一本“止まれ”、二本“通れ”。詠唱は二語で」
「二語」
狼が低く唸る。縫い目の革から、薄い火線が漏れる。
「火、出る」
「偽の火印だ」セラの声が早い。「偏りが強い。右肩、壊せば沈む」
「右肩」
「任せて。――偏向」
火線の軌道がわずかにずれて壁に焦げ跡。
「今」
「今」カイトが踏み込み、刃の背で右肩の革縫いを叩く。糸が切れ、光が瞬く。
「一匹、落ちた」
「二匹目、左へ回る」
「見る。――冷却」
熱が引き、狼の呼気が白く揺れる。動きが鈍る。
「詰める」
「詰める」
カイトの足が石畳を滑り、刃が触れるだけで角度を奪う。狼は吠え、逃げ腰になる。
『いいね。借りが軽い』白い囁きが耳の奥で笑う。
「黙って」
「声、強い?」セラが横目で訊く。
「大丈夫。半分、あなたが持ってる」
「持てる。もう少しでもいい」
「あとで」
三匹目が荷車の下に潜る。布の陰。見えない。
「どうする」
「見せない敵は、言葉で動かす」セラが指を二本。
「通れ」
「――共聴」
胸の熱が耳に回り、軋む音が手触りになる。
「奥、右。舌打ちみたいな音。――保護」
飛び出した影が私の膝を掠める前に、薄膜が弾く。
「ここ」
「ここ」カイトの刃が斜めに落ち、革縫いを裂く。光が消える。
路地に静けさが戻る。狼は息だけが残り、やがて動かなくなった。
「縫い目、見せて」セラがしゃがむ。
肩口の革をめくると、粗い矢羽の刻み。
「この刻み、知ってる?」カイトが眉を寄せる。
「……工房ラチェット。辺境で印の修理を請け負う私設屋。――教会に登録がない」
「登録がないって」
「禁忌の外。でも、町の日常には必要。だから灰色」
「灰色」
「灰色は、言い方で白にも黒にもなる」セラが立ち上がる。「証拠は一つで足りる。――届ける」
「届ける?」
「ギルドに。報酬の理由を“救護”じゃなくて“予防”に変える。帳面の勘定科目をずらす」
「ずらし、得意だね」
「言い方は武器」
そこへ、店主らしい若い女が駆け寄ってきた。
「助かりました。これ、少しですが」
手のひらに小さな銅貨。
「受け取る?」私はセラを見る。
「受け取る。借りの形を整えるために」
私は銅貨を一枚だけ受け取って言った。
「ありがとう。大丈夫、私たちがやったのは“支援だけ”。みんなで助かった」
「支援“だけ”が一番、強かったよ」女は笑った。「またお願いね」
胸が少し温かくなる。
遺骸の片付けを手伝っていると、路地の角で黒外套が立ち止まった。さっきの査問官より階級が低そうだ。
「状況確認。――その遺骸、持ち帰る」
「救護案件の付随物。※二により一時保全」セラは即答する。
「屁理屈」
「条文の言い方です」
黒外套は舌打ちし、メモを置いた。「午後に回収する。逃がすな」
「逃げないよ」私は笑う。「もう動かないから」
黒外套は顔をしかめて去った。
「ギルドへ?」
「行く。報告は早いほど、借りが薄い」セラが歩き出す。
私は狼の肩の矢羽をもう一度見た。縫い目が雑。糸が焦げている。
「誰が縫ったの」
「熟練じゃない。実地の見よう見まね」カイトが言う。「採算度外視の手だ」
「採算、度外視?」
「儲けより急ぎ。――急ぎで印をつける理由は一つ」
「何?」
「数合わせだ」セラが代わりに答える。「帳面の数字を、どこかが無理に揃えようとしている」
『帳面、きれいが好き。揃えるの、もっと好き』白い囁きが嬉しそうに跳ねた。
「やめて」
「声、強くなった?」
「少し。近くに徴収者がいるかも」
通りの向こう、風がひと口だけ冷たくなる。誰かが肩を抱いて振り返った。
「夜じゃないのに」
「昼でも寄ることはある。――急ごう」
ギルドは市場の奥、楕円の屋根。壁に依頼札。人の熱。
「報告、お願いします」受付の男が笑顔だけど目は計算している。
「市場路地の魔獣、革縫い狼三。肩口に移植印。証拠はこれ」セラが矢羽の革片を出す。
「ふむ。印刻み……ラチェットか」
「知ってる?」
「噂。最近、辺境から手が伸びてる。――予防扱い、通します。報酬は銀一、小銅十。内訳は“危険抑止”」
「抑止、いい言葉」
「でしょう?」男が笑う。
私は銀貨を見た。重い。
「重いね」
「重いほど、借りが小さくなる」セラが小声で言う。「使い道、決めよう」
「宿代と、ごはんと、資料」
「資料?」カイトが首を傾げる。
「移植印のこと、知りたい。禁忌の脚注も」
「なら、午後は書庫だな」セラが頷いた。「――禁書庫は無理でも、公開書庫で版下は見られる」
ギルドを出ると、石畳に細い影。白い羽が落ちていた。
『拾う? 拾わない?』
「拾わない」
『正解。でも――見たね。記録する』
「記録、勝手にしないで」
『君の後で、前だから』
やっぱり、言い方がいやらしい。
宿へ戻る途中、鐘が一度だけ。低く、長く。
「何の合図?」
「聴聞の開始」セラが顔を上げる。「ヴァルグの番だ」
「私たち、呼ばれる?」
「まだ。呼ばれる前に、知っておく」
「知る」
「知って、言い方を選ぶ」
私は銀貨を握り直す。重さが安心に変わっていく。
「支援しか、ないけど」
「“しか”が一番強い」カイトが笑う。
「じゃあ、前へ。任せて」
「任せた」
――午後、塔の書庫で“矢羽”の印を見た瞬間、私の胸の刻印が見たことのない色で跳ねた。
――頁の隅に、小さな※印。そこだけ、紙が新しく継がれていた。