第3章 小さな取引
中庭の小部屋。窓は高く、小さな噴水の音だけが入ってくる。
「条件は一つ」セラが椅子を引く。「危ない場面では、私の指示を優先。いいですね」
「命令口調」
「お願いです」
「……任せて」
カイトが壁にもたれて腕を組む。
「取引の中身を」
「リラの“声”を半分だけ私に寄せる。私が受け皿になる。代わりに、保護と庇護、そして帳面処理を私が持つ」
「帳面、って」
「因果の帳簿。あなたの“怖さ”が積もる前に、分ける」
『分けっこ、いいね』白い囁きが笑った。
「やっぱり聞こえる」
「今は私だけ。――始めます」
セラは掌を差し出した。白い紙片に小さな※が並ぶ。
「※三、“支援術の連帯”。二人以上で共有した場合、その負担は按分される。――簡易式なら二語でいい」
「二語?」
「あなたが言う。私が受ける。タイミングは、今」
私は息をそろえる。胸の印が熱を帯びる。
「――共聴」
「――分担」
空気が柔らかく震え、耳の奥の白いノイズが少しだけ遠のいた。
『あ、分けられた。賢い』
「……聞こえる?」私はセラを見る。
「聞こえる。輪郭が曖昧。人じゃない、でも君に似てる」
「似てる?」
「後で言語化します。今は――質問していい?」
「どうぞ」
「“共援”って、どこで習った?」
「知らない。口が先に動く」
「なら、あなたの印は“逆流型”。内に集めてから外へ配る。支援術師に稀にいる。……けど、出力が高すぎる」
「高すぎる?」
「普通は痛む量。あなたは痛くない。例外に触れてる」
扉が小さく叩かれた。修道士が顔を出す。
「セラ、上が動きました。査問官ヴァルグが来ます。聴聞室の準備を」
「時間がない」セラが立つ。「移動しながら話しましょう」
私たちは廊下へ出る。冷たい石。遠くで鐘の余韻。
「ヴァルグ、怖い?」
「強い」カイトが短く答える。
「敵?」
「敵とも味方とも言わない。――間合い、詰めるのが上手い人だ」
「私と同じ?」
「お前より、厳しい」
曲がり角。黒外套ではない、灰の外套が立っていた。若い侍祭。
「通行証を」
「聴聞に向かいます」セラが札を見せる。
「その札、古い」
「昨日の版です」
「今日の版しか通さない」
侍祭の手が袖に潜る。見慣れない小型の印章器。
「嫌な匂い」カイトが呟く。
「なにが?」
「印章器じゃない。拘束具だ」
侍祭の口元が歪む。「未契約者、確保」
彼が詠唱する。「束縛」
「任せて。――偏向」
透明な輪が角で滑り、壁に食い込んだ。
「バレたか」侍祭が舌打ちする。「なら、こっち」
「沈黙」
音が半歩だけ遠のく。私の声さえ布で包まれたみたいに小さくなる。
「魔法が――」
「通りづらい。けど、通る」セラが囁く。「リラ、二語。短く重ねて」
「任せて。――強化、保護」
身体が軽く、皮膚が厚くなる感覚。
「カイト」
「わかってる。間合い、詰める」
彼は半歩出て、刃を寝かせる。侍祭の手首へ触れるだけの一撃。
金属音。印章器が弾け、床を転がる。
「黙ってれば通れたのに」
「脚注を読まないからだよ」私は息を整える。
「※二、救護の通行は妨げられない」セラが淡々と言う。
「“救護じゃない”だろ」侍祭が反論する。
「“救護です”。あなたが今、術で私の聴力を奪ったから」
侍祭が詰まる。「屁理屈」
「条文は言い方で決まる、と何度も」
彼は歯噛みして道を開けた。
「内通?」カイトが小声で聞く。
「たぶん。印章器も規格外。……上が荒れてる」
聴聞室の前。扉の上に古い紋。
「ここ?」
「ここ。ヴァルグは待たない」
『待たない人、好き』白い囁きが甘える。
「うるさい」
「声、まだ強い?」セラが覗き込む。
「半分になった。ありがとう」
「なら守れる。――ただ、ひとつだけ忠告」
「なに」
「ヴァルグは“正義の言い方”が上手い。言葉で負けないで」
「得意じゃない」
「私が横で支える。合図はこの指」
セラが親指を軽く立てて見せる。
「わかった」
扉に手をかけた瞬間、床がかすかに震えた。塔の奥で、何かが開閉する重い音。
「地の底?」
「いや、帳面の棚だ」セラが顔色を変える。「なにか、大きい借りが動いた」
『帳面、めくれた。君のページ、きれい』
「どういう意味」
『借りが少ない。返し方が上手い』
私は掌を握る。震えはない。声も半分。
「行ける?」カイトが問う。
「行く。任せて」
「剣は使わないで済むといいが」
「話す。短く」
扉が内へ開く。冷たい空気。円卓。香の匂い。
黒外套の影。高い背。灰色の瞳。
「入れ」
低い声が落ちる。
「――ヴァルグ査問官」セラが礼を取る。
「聞く。転移者、お前の名」
「リラ」
「刻印はどこだ」
「胸」
「見せろ」
私は襟を少しだけ下げる。逆向きの矢印が、弱く光る。
ヴァルグの瞳が細くなる。
「逆流型。珍しい」
「捕まえる?」私は訊く。
「捕まえない。――理由があれば」
「理由、ね」
「条文※二、※三は理解している」ヴァルグは指で卓を、とん、と叩く。「では問う。声は、聞こえるか」
心臓が一度だけ強く跳ねた。
「……聞こえる」
「どんな声だ」
「白い。人じゃない。でも、私に似てる」
セラが小さく頷く。
「よろしい」ヴァルグが椅子を引く音。「交渉だ。私がお前を守る。代わりに、お前は私に一度だけ借りを作れ」
「借り?」
「帳面に、私の名で」
白い囁きが、耳の奥で笑う。
『やっと面白くなってきた』
「どういう意図」カイトが低く問う。
「塔都が揺れる。借りの出どころを追う必要がある。――転移者、お前は鍵だ」
「鍵?」
「鍵なら、扉をひらく。だが、鍵は折れる。守る義務が生じる」
言い方が上手い。セラが親指を立てる。私は息を整えた。
「私の条件」
「言え」
「誰も灰にしない。私の目の前で」
ヴァルグは短く笑った。
「難しい。だが、試みる。――交渉成立だ、今のところは」
その瞬間、窓の外を白い羽が一枚、静かに横切った。
胸の印が、ありえない色で一度だけ跳ねた。