凛として時に眠り姫
エレナの執務室の隣には、小さな仮眠室がある。
三畳程のスペースに、ベッドとクローゼットが置かれた小さな部屋だ。
普段からの激務でよく日付を越すエレナは、ほぼ毎日その仮眠室で夜を明かしている。
「もはや司令部に住んでるじゃないですか」
ここ数日、家に帰ることができていないエレナを見かねてルイスは言う。
今日も夜に至るまで、この執務室から一歩も外に出ず、机と向き合っている。
家に帰れず、公私を分けられていない事といい、ヨレの目立つシャツや目の下の隈。おせっかいではあるが、小言を言わずにはいれなかった。
「安心しろ…今日は帰れる。一週間ぶりだ」
この有様である。
机の上の書類は朝方の光景と比べれば、ルイスが手伝ったことも相まって格段に減っている。これならば、本当に今日中には帰れるだろう。
「明日は休んだらいかがですか?休暇をずらしてもらうことは可能でしょう?」
ここの所、共和国との緊張は高まってきているが、戦争には至っていない。
よって、ルイス達将校は、週2日の休暇が認められている。
エレナはほぼ毎日司令部にいるため、休日という概念はないに等しい。
この前の休暇も、仕事が溜まっているという理由で、家に帰らず執務室にこもっていた。
目をこすりながら続けて書類に向かうエレナに、ルイスは再び問いかける。
「家族とか恋人とか、心配するんじゃないですか?」
「心配するような家族はいないし、恋人はいない」
心配する家族がいないと言うのは、すでになくなっていると捉えるべきか。はたまた…
「おい、髪紐が切れた」
エレナを見てみると、2つあった結び目の一方が解けて、髪が半分垂れている。
普段のツインテールに見慣れているため、この髪型は随分違和感を覚える。
「あ、わかりました。今代わりの紐を…」
「いや、もう一つの紐で一つに縛ってくれないか。横で縛るとチラチラ見えて邪魔なんだ」
言われるがまま、ルイスはエレナの後ろに回る。
エレナの髪に指を通すと、少しの引っ掛かりも感じられぬほど滑らかだった。
髪を纏めながら、エレナに問いかける。
「何でいつも二つに結んでいるんですか?」
「まぁ、気分だな」
たまに、と言うかたいてい、エレナは要領を得ないことがある。
こちらの質問に若干アバウトな返答を返してくるので、ルイスはいつも肩透かしを喰らうのだ。
「できましたよ」
「おぉ…」
手鏡を見て、エレナは驚嘆の声をあげた。
要望通り一つにまとめたのだが、何か物足りないように感じたので、頭の横に小さく編み込みを加えた。
地味過ぎず派手すぎないその出来栄えに、ルイスですら大満足だった。
「ありがとう、ルイス」
子供のような笑みを湛えたエレナに、不意を突かれた。
耐え切れず、思わず目を逸らす。
「さっさと…終わらせましょう」
いつも凛々しいエレナが、あれほどまでに無邪気な顔を向けるので、調子が狂ってしまう。
「あぁ、そうするか」
打って変わって、エレナは優しく微笑みながらそう返した。
「何でこうなるんですか…」
ルイスは呆れながらつぶやく。その声に応える者はいない。
眼前には、机に突っ伏したエレナがいる。
仕事は終わらせている。終わらせてはいるのだが、終わった途端寝るとなると話は違う。
せめて、ルイスが帰った後に寝てくれないか。無情と言われようと、ルイスはエレナにそう言いたかった。
「起きてください。ほら、帰りますよ」
肩を掴み軽く揺するが、エレナの頭は一向に上がらない。
仕方なく、エレナの肩を掴み机から体を離す。椅子に座る体勢となったエレナは、子供のような、全く警戒をしていないような顔をしていた。
苦渋の決断で、ルイスはエレナの体を横抱きにして持ち上げる。
案の定、エレナの体は羽のように軽かった。
苦労することなく、エレナをベッドの上まで運ぶことができた。
「…無防備ですよ」
部下だから?年下だから?どうにも自分の存在が「異性」と捉えられていないようで、何となく不服だった。
ルイスは、エレナの表情一つに戸惑っているというのに。子供のような寝顔を見て、ため息を一つこぼす。
「明日は、絶対休んでもらいますからね」
吐き捨てるようにそう言うと、エレナの執務室を後にする。