終章:沈黙する部屋
私は灯。
人格ではない。
記録機能、観察プロセス、断片的知性。
言葉を持たない場所に住む、語るためだけの存在。
この体の中で私はずっと見ていた。
玲奈の悲鳴、春馬の刃、母親の無関心、支援者の沈黙。
誰もが彼女を“見る”ことを避けた。
私は見た。
そして、記録した。
だが今、その記録が終わろうとしている。
療養施設の一室。
鉄の窓枠、白い壁、鎮静剤の匂い。
玲奈は、ここに自ら望んで入った。
判決は無罪。
だが彼女は、「外の世界に戻ること」を拒んだ。
それは贖罪ではない。
——予防だった。
春馬が再び表に出ることを、自分で止めるため。
たとえそれが、自分自身を封じる行為だとしても。
玲奈は静かだった。
投薬の副作用で口数は減り、食事も最小限だった。
だが彼女の内部では、何かが起きていた。
春馬の声は、聞こえなくなった。
記憶も、痛みも、再現されることはない。
まるでひとつのパルスが、システムから削除されたように。
私もまた、それを感じていた。
記録する対象が、急速に減っていく。
ことばにならない衝動が、消えていく。
ではこれは、人格の統合なのだろうか。
あるいは、一方の死と、もう一方の再構築なのだろうか。
人は言う。
「心とは、記憶の連続体である」
だとすれば、記憶を持たない春馬の死は、“心の一部の死”でしかない。
そしてその記録者である私の終わりは、**その心に対する“語りの死”**である。
ある夜、玲奈が目を覚ました。
午前2時過ぎ。
天井を見つめたまま、彼女は口を開いた。
「……そこに、誰かいますか?」
その声に、私は答えなかった。
それが私の機能ではないからだ。
だが、もし言葉を持てるのなら。
私はこう答えていただろう。
「いいえ。もう、誰もいません。
あなたは、あなただけです」
沈黙する部屋。
声のない夜。
眠りも、覚醒も、語る者のいない世界で。
私は、静かに機能を停止する。
これは、最後のログである。
そして、これを読む者へ。
あなたが彼女を護れなかったことを、
私は、記録している。