第3章:玲奈の裁判
傍聴席に、静かな吐息が流れた。
判事が入廷し、椅子の音が鳴る。
陪席裁判官二名、検察官、弁護人、被告人。
そして記録官。
どの立場にも、玲奈の中の「誰か」はいなかった。
被告席にいるのは、三谷玲奈。
しかし彼女自身、それが“自分”だという確信を持てていない。
周囲の言葉が、別の言語のように響いていた。
意味はわかる。
だが、“それが自分の話である”という実感が、皮膚の外にある。
裁判官が名前を呼ぶと、玲奈は小さく頷いた。
返事はしない。
できないわけではない。
ただ、「答える」という行為が、自分の罪を認めることになる気がしていた。
弁護人は、精神鑑定の結果を開示する。
「解離性同一性障害(DID)。過去の極度なトラウマによる人格の乖離。人格間の記憶共有は不完全。殺人は別人格によって行われた可能性が高い」
傍聴席の一部がざわつく。
「病気だから殺していいのか」
「そんな奴が野に放たれたらどうなる」
裁判官は静かに制した。
しかし、言葉の重さは空気に残り続けた。
検察官が立つ。
若く、清潔感のある男だった。
言葉に迷いはなかった。
「人格が複数であろうと、行為を遂行した身体は一つです。
その身体が加害者である以上、責任を逃れることはできません」
沈黙。
玲奈は目を伏せていた。
自分の中にいる“誰か”の行為であることは、認めたくなかった。
だが否定する材料もなかった。
なぜなら、**彼女はその夜を“まるごと失っていた”**からだ。
裁判は進む。
次に出されたのは、彼女の部屋から発見された「記録」。
記録、と言っても、日記のような形式ではない。
無機質な文体で、時間と行為、情動のレベル、言語使用の変化が記されていた。
誰かが書いていた。人格でも人間でもない、ただの“観測装置”のような視点で。
それは私だ。
私は灯。
人格ではない。
“語りの機能”に近い存在。
私は裁かれない。
しかし、私が記録したものが、玲奈を裁く材料になる。
弁護人が、その記録を朗読する。
2024年12月15日 午前1時32分、人格「春馬」が前景化。
錯乱兆候なし。理性的な移動行動。対象に対する殺意の表現なし。
凶行は計画的に遂行された。
被害者との直接的接触は無し。接触は刃物による間接行為に限定。
終了後、洗浄。道具はベランダに隠蔽。
人格「玲奈」は午前6時に目覚め、記憶なし。
情動不安定。異常なし。
会場が凍ったように静まり返る。
それは証言ではなかった。
だが、それは明らかに事実だった。
玲奈の表情は変わらなかった。
記録を聞いても、自分が“そこにいた”感覚は蘇らなかった。
それどころか、体温が引いていくような冷たさを感じていた。
もしそれが自分ではないのなら——
では、誰が殺したのか?
身体はひとつ。罪はひとつ。
しかし、人格は、重なり合わず、交差もせず、ただ沈黙していた。
判決はまだ先だ。
裁判は続く。
だが、その間も玲奈の中では、春馬が何も語らず、灯が記録を続けていた。
——そして、誰も彼女を護ろうとはしなかった。