第一章:玲奈の午前、春馬の夜
主人格玲奈(Reina)女性 性的虐待の被害者、表向きの人格
加害人格春馬(Haruma)男性 殺人行為の主体(暴力の化身)
観察人格灯(Akari)女性 自閉傾向 内的世界を記録する唯一の視点者
駅のホームに吹く風は、なにかを切り裂くほどに冷たかった。
それでも玲奈は、コートの前を閉じずに立っていた。
寒さの感覚が曖昧なのか、無視しているのか、自分でも判断がつかない。
通勤ラッシュには少し早い時間。足音も少なく、電車の到着音だけが金属的に響く。
スマートフォンを覗くふりをして、目線を落とす。
人の目が怖いわけじゃない。
ただ、それを見ると、“思い出す”可能性があるからだ。
彼女の名は、三谷玲奈。
二十七歳。派遣事務所勤務。勤続五年。住所は都内の一Kマンション。
身元は明瞭。過去は不透明。
戸籍には何も書かれていないが、彼女の皮膚には、削除不能な記憶が染み込んでいる。
過去のことは話さない。誰にも、何にも。
身体の節々が疼いても、何かの音が脳の奥を突いても、それは他人に共有すべき事柄ではない。
——彼女はそう思っている。
そう教え込まれたからだ。
「覚えていても、黙っていれば、誰も傷つかない」
その言葉だけが、彼女の生き延び方の基礎構文だった。
事務所では、玲奈は正確だった。
失敗しない。ミスをしない。誰かにメモを取らせることもない。
その代わり、誰にも微笑みかけず、声を荒げず、影のように机に向かっている。
上司は彼女のことを「助かる存在」と言う。
同僚は「何考えてるか分からない」と言う。
誰も本当の意味で、玲奈の“中”を見ようとはしない。
彼女の中には、もうひとりの男がいた。
名を春馬と言う。
玲奈自身はその存在を知らない。
だが春馬は、確かにこの肉体のどこかに棲み、夜が来るのを待っている。
その夜、玲奈は風呂上がりに倒れこむようにして眠った。
目覚ましをセットする間もなく、身体は泥のように重かった。
そして静かに、交代が始まる。
彼——春馬が目を覚ましたのは、午前1時32分。
部屋は静まりかえり、都市の残響だけが遠くに鳴っていた。
春馬はゆっくりと起き上がり、洗面所に立つ。
鏡を見ても表情を変えない。
そこに映る顔が誰のものか、彼は知っている。
だがそれに感情はない。
怒りも、恐怖も、哀しみもない。ただ、目的だけがある。
ポケットに忍ばせたのは、キャンプ用の折り畳みナイフだった。
“道具”にすぎない。
殺意に意味はなく、理由もいらない。
必要なのは、「やるかどうか」だけだ。
ターゲットは、あらかじめ選ばれていた。
コンビニ裏の薄暗い路地。
毎夜同じ時間にタバコを吸いに出る男。
かつて玲奈の家に通っていた、“あの男”と同じ構造を持つ顔だった。
春馬は声をかけない。
ただ歩き、間合いを詰め、右手を伸ばした。
刃が光を掠めることもなく、皮膚に沈む。
血が跳ねた。
音は短く、やがて世界から消える。
男は抵抗しなかった。
彼の顔は、春馬の記憶に残る“誰か”と重なっていく。
——それが何を意味するのか、春馬は理解しようとしなかった。
僕はその一部始終を見ていた。
否、正確には、“記録していた”。
僕には止める術がなかった。
僕は人格ではない。感情も、意志もない。
ただ“観察”するだけのもの。
僕の名は、灯。
記録者。中間者。監視者。
誰にも知られず、誰にも話さない。
だけど、すべてを見ている。玲奈が傷つくことも、春馬が血を流すことも。
そして、知っている。
誰も彼女を護らなかったことを。
朝が来た。
玲奈が目を覚ます。
何も覚えていない。
手の震えが止まらないのに、それをおかしいと思わない。
鏡の中の目が赤く潤んでいるのは、シャンプーのせいだと決めつけた。
今日もまた、通勤電車に乗り、資料の束に埋もれるだろう。
そして、誰も、彼女が「昨日の夜、誰だったか」を知らない。
知っていても、信じられない。
信じたくない。
だから、彼女は今日も“護られなかった”。