2.「ステータスオープン!」が効かない世界
頭がバッファローの群れに踏みつけられたようにズキズキして、目が覚めた。
「うぅ……」
ゆっくりと目を開けると、最初に見えたのは――木製の天井だった。
硬いベッド。
変な匂い。
見慣れない服。
そして――
「うそでしょ!?夢じゃないの!?」
まるで墓から蘇ったゾンビみたいに、一気に起き上がる。
息が荒くなって、目を見開いた。
「これって現実!?本当に!?」
突然、ギィ…と木の扉が開き、エプロンとちょっと魔女っぽいナース服を着た若い女性が入ってきた。
彼女は小さな瓶がたくさん乗ったトレイを持っていて、しかも…ヤバいくらい優しそうな笑顔を浮かべていた。
「おはようございます。体調はいかがですか?とてもお疲れのようでしたが…。あ、それとこの箱…あなたのですか?」
彼女が指差したのは、部屋の隅に置かれた黒いスーツケース。
あれは…私の…スーツケース!?
親友に再会したかのような勢いで見つめながら、思わず口が勝手に動いた。
「う、うん!それ、私の!私のスーツケース!」
「よかったです。では、ビタミン剤をどうぞ。今はゆっくり休んでください。午後にまた様子を見に来ますね」
優しい笑顔を浮かべたまま、彼女は部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間――
私は頭を抱えた。
「なにこれ!?どうなってんの!?」
いやもう、宇宙からのドッキリとしか思えない。
だって私、ただ飛行機で寝ただけなんだよ!?本当にそれだけ!!
乱気流もなし。爆発もなし。隕石も落ちてこない。
目を覚ましたら…ハイどうぞ~異世界ですってか!
異世界漫画も、アニメも、ゲームもやってきたけどさ――
普通はトラックに轢かれるとか、怪しい儀式とか、超アホな死に方で転生するでしょ!?
でも今回のこれはなに!?寝ただけ!?
「落ち着け、落ち着け、アリア……」
たしか、ゲームやアニメではステータス画面って出せるよね?
希望を胸に、試してみる。
「ステータス・オープン!」
……
「プロフィール!」
……
「メニュー!インベントリ!システムコマンド!」
…………
「なんで!?なんで何も出てこないのよおおおお!?」
枕でも投げたかったけど、ナースさんに「精神不安定」とか思われるのが怖くて我慢した。
「つまり…社畜から王族の奴隷にジョブチェンジってこと?」
最高だね。9時から5時までが、今度は死ぬまでってわけか。
次の日の朝、またナースさんがやって来た。
手には温かい水と、どう見てもマイクラの粥っぽいものが。
「具合はどうですか?」
彼女は私のおでこに手を当てながら尋ねてきた。
私は弱々しく頷いた。
でも気になることがあって、つい聞いてしまった。
「あの…この世界には、その、スキルとか…魔法とかって…ありますか?」
彼女は小さく首をかしげた。
「スキル…?スキルって何ですか?聞いたことないですね…。でも魔法なら、もちろん。誰でも少しは使えるんじゃないですか?」
私は固まった。
魔法…あるの!?マジで!?
脳みそがフリーズした。
明晰夢?違う。
シミュレーション?まさか。
VR?解像度高すぎ。
夢?こんなに体が痛くなる夢なんてあるわけない!!
ナースさんは静かに立ち上がり、扉を閉めた。
「午後にまた来ますので、ゆっくり休んでくださいね」
そして私は――
一人、異世界の部屋の中で座り込んだ。
スーツケースと共に。
そして、まったく見えない未来を抱えて。
ただ一つだけ確信したことがある。
コーヒーが…飲みたい。
夕方になり、扉が再びノックされた。
またナースさんが現れた。落ち着いた笑顔は、私の心の嵐と正反対だった。
「その後、体調はいかがですか?明日の朝から活動開始になりますので」
分厚い紙に何かを書きながら、そう告げられた。
え、えっ?
「明日の朝!?活動開始!?」
昨日のフラッシュバックが脳内再生された。
列に並ばされて、怒鳴られて、罵られて、追いかけられて、NPCみたいに倒れて――
そして明日、またやるの!?
……でも、抗えない。
「…わかりました、ナースさん。ありがとうございます」
その後、彼女は私の部屋に案内してくれた。
古びた木の扉。サビた取っ手。
そして優しく一言、
「たぶん…ここがあなたのお部屋です」
扉を見ただけでわかった。
悪い物件ばかり引いてきた社畜の本能が反応する。
うん、ガタガタの扉=硬いベッド。
硬いベッド=体バキバキ。
体バキバキ=病欠。でもここには保険なんてない。
私はナースさんに半笑いでお礼を言い、部屋に入った。
そして、案の定――
硬いベッド。
冷たい壁。
歩くたびに「ギィィ…」って鳴る床。
さすが、これが中世クオリティ。
スーツケースを隅に置き、中を開ける。
唯一、自分がまだ現代人だと感じられるもの。
中身:
―『日本格安旅行ガイド』
―カジュアルな服数着
―トイレタリー一式
―ミニ香水
―完全に無意味になったモバイルバッテリー
焦ってさらに探る。
「財布は!?スマホは!?」
……ない。
どこにも、ない。
「まさか…まだ馬小屋に?」
明日、あそこに戻らないといけないかも。
干し草の中に刺さってる可能性にかけるしかない。
仕方なく「I ❤️ Tokyo」の観光客Tシャツに着替え、コンクリートのようなベッドにバフッと倒れ込む。
「異世界かぁ……」
この世界には魔法はあるけど、Wi-Fiもスタバも祝日も、ない。
目を閉じると、寝る前に一つだけ思った。
「今度から、飛行機で寝ないことにしよう」