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なにこれ、おかしいよ
「大丈夫?」
「あ、ごめんなさい……」
「いいんだよ、がんばって話してくれたんだよね」
「あ、えと、先輩との会話がしんどかったとか、そういうわけではなくて……」
まじまじと見なくても、あづきちゃんの目頭が熱くなっているのがわかった。声が震えていた。彼女は缶飲料を両手でぐっ、と握っている。一般的な感覚であれば、どうしてここで泣いてしまうの? と言いたくもなるだろうけれど、そうではない。
饒舌にしゃべっているように見えて、実は全力疾走をしていたんだ。本来の自分からかけ離れた自分を演じようと必死だった。ただ、目の前の相手に、退屈だと思ってほしくない一心で。ほんのわずかでも、楽しい時間だったと思ってもらいたい一心で。
他人に対して気を遣いすぎて、顔色を窺いすぎるがために、どうしようもなく疲れ果ててしまう。相手に嫌な思いをさせていないか、不安不安で仕方ないから必要以上に言葉をならべる。言葉の物量がどうしても増えてしまう。
そして、そんなばかみたいにしゃべる自分が、あとあとで嫌になってしまう。
あづきちゃんはいま、燃料が切れてしまったんだ。
彼女は確実にわたしよりも繊細なタイプだと、会ってすぐにわかった。だから、こちらは妙にリラックスしてしまって、あまり話せなかった。お化け屋敷などで、自分より怖がっている人がいると、冷静になる感覚。それと似ているかも。
「ごめんなさい……」あづきちゃんはテーブルに涙を落とした。
「どうして、謝らないで」わたしはポケットティッシュを差しだす。
「ずいまぜん」
二枚のティッシュを手にとって、あづきちゃんはぶーっと派手にかました。その拍子にメガネがくいっと傾いた。やはり手が鼻の近くにいくと、メガネは角度を変えてしまうようだ。
「わたし、こんなだからどぼだぢがいだいんでず」
「それは、あづきちゃんの立派な個性なんだから。HSPは、うまく活かせば利点ばっかりなんだよ? 人にはできないことができるんだから。自信を持っていいんだよ」
まんま精神科医の受け売りでごめん。
「あでぃがどうございばず」
「そうだ、LINE教えて? またここで話そうよ」
「いいんでずが? ばだじなんがどどもだぢに——」
呂律が濁ったあづきちゃんをさえぎるように、わたしはQRコードを提示した。互いにメッセージを送り合って、友達が増えたことを確認した。
「——おっけ、ありがと! これからよろしくね!」
「ごぢらごぞでず」
「ところで……、あづきちゃんの名前って、《《す》》にてんてんじゃなくて、《《つ》》にてんてんなのね?」
「あ、ぞうなんでず」
もう一度ぶーっとかまして、あづきちゃんは声を整えた。
「ばたしの名前を決めたのは、おじいちゃんだったらしいです。本当は白亜の亜に、月と書いて亜月になるはずだったのですが……。なんだか角張った字になって、かたっ苦しいからと。お母さんがひらがなに直して提出したんです、勝手に」
「あら、そんな逸話が……」
「そうなんです。我が母ながら、思い切ったことしますよね。おじいちゃんは、なんでひらがなにしたんだ! って怒ったんです。その瞬間に、血管がぷっつんと切れて死んでしまったんですが」
「え、ほんとう!?」
それはおどろきだ。
「そうなんです。でも、おじいちゃん、死ぬときはぷっつんで死にたいって言っていたらしいので。きっと望み通りだったかも。わたしは、おじいちゃんに会えなかったから、ちょっと寂しいですけど……。名前を考えてくれたお礼くらい、直接言いたかったなぁ」
ふと、ほんの一瞬だけ、話すあづきちゃんの真後ろに、ものすごく優しそうな顔の老人が立っていたような……。半透明よりも透明に近い、蜃気楼のようなすがたが——。
いや。
気のせいか。
気のせいだ。
「そっかぁ……。何年も寝たきりになるよりは、ぷっつんのがいいって人も多いよね」
「わたしも、何年何ヶ月と苦しんで死んでしまうよりは、そっちのがいいです」
あづきちゃんは懐かしい目をした。
「おじいちゃんがくれたこの名前、わたしは好きなんです。よく、あんこの原材料だと言われますが、おはぎも赤飯も、甘納豆も関係ないです。まったくもって」
ふたり分の笑い声がカビとホコリ、そしてちょっぴりカフェっぽい香りを漂わせる図書室にやわらかく響いた。
午後の授業が終わるころには、あづきちゃんからのLINEが入っていた。
——ほんとうに、楽しかったです! またお話ししましょう〜!——
アニメのキャラクターのかわいいスタンプも送られていた。わたしはすぐに返事をして、こちらもなるべくかわいいスタンプを返した。そろそろ、スタンプに課金するのもいいかも、と思った。
校門から出ようとすると男子がひとり、わたしに近づいてきた。
「あ、の……。きみ、片桐一葉さんの友達?」
答えるまでもない。
ここから派生する会話の内容など知れている。
一葉を紹介してくれない? とか。
SNSのIDを教えてくれない? とか。
どうせその類だ。
「彼女。いま彼氏いらないみたいですよ」
「そうなの?」
ほら、残念そうな顔してる。
「根回しのためにわたしを頼ってないで、直接声をかけたらどうですか?」
「うーん……」男子は悩んでから、「あまりにも可愛くてさ。声かけにくいっていうか……」
わたしがあまりにも可愛くないみたいな言い方だな、おい。
「帰りますんで」
さようなら。ヤサオトコ。
「ちょっと待って」
うわ、肩を掴んできた。最悪の展開……。
「なんですか!?」
思いっきり腕を振って払ってやった。ちょっと痛かったかもしれないが、女の肩を急に掴むなんて……。
「きみ……、よく見ると案外可愛いね……」
「は!?」
「もうすこし垢抜けたら、全然合格ラインかも」
こいつ……!
勝手に妥協してやがって……!
「おまえ、なにしてんの? ナンパ?」
別の男の声がした。
普通に帰りたいだけなのに、次から次へと……。
「え?」
ナンパ野郎はうしろを振り返った。その瞬間、もうひとりの男がなにかをした。なにをしたかはわからない。わからないけれど……。
「うっ、わっ、だぁっ!」ナンパ野郎は空中で一回転をして地面とキスをした。これは比喩の表現ではない。ほんとうにキスをした。そのさまは、鉄棒の逆上がりに失敗したかのようだった。
アヤツリ人形が糸でからめ回されたみたいな動きにも見えた。なんの予兆もなく、ナンパ野郎は目の前で一回転した。
「イッテェ……」
そりゃ痛いでしょう、見てるこっちも痛い。ナンパ野郎は両手をついて起き上がり、体じゅうについた砂利を払った。そして、もうひとりの男に対し、苦し紛れのがんを飛ばす。鼻から血を垂らしながら。
「おまえ、なにしやがった……!」
「《《ぼくは》》、なーんにも」
「ざっけんな……」
ああ、やばい、喧嘩になりそう。
「おい! おまえらなにしてるか!」
体育会系の教師がこちらに気づいて、駆け寄ってきた。
「授業が済んだなら、さっさと帰れぇ!」
「先生! こいつが……」
情けなく腰を曲げて、ナンパ野郎は助けを求めた。
「まぁたおまえか! 女子生徒をナンパしているって、校内で噂になっとるぞぉ! 興奮して鼻血まで垂れ流して、なにをやっとるか!」
「こ、この鼻血は、こいつに殴られて……」
「こいつのうしろ姿、わしは見とったわ。ずぅっとポッケに手を突っこんどった。どうやったら殴れるんじゃ! おまえが殴りかかろうとして転んだんじゃろ? あ!?」
「う……」
ナンパ野郎は反論に困った。
「くそ……、これだから定時制はくそなんだよ」
もう二度と、この学校にもどってこないのでは……。そう思えるほどの嫌悪感をまき散らし、地面に唾を吐いて、ナンパ野郎は去っていく。
「あいつ、ほんにめんどいやっちゃのう。となりの高校から転入してきたっちゅって、威張っとるんだわ。ここの女生徒がみんなばかじゃと思っとるし、自分がモテると勘違い湧かしとる。前の学校でもじゃ。女子生徒がらみの問題を起こして、おられんくなったっちゅうに……」
先生はあきれて、ため息を漏らした。
「あんたも、友達も。ああいうのにはよう気をつけな」
わたしにそれだけを言ってから、先生はきれいなフォームで走り去った。
「えと……」
目の前にいる男子に、なにを言ったらいいか困った。しかし彼はあくびをしながら、わたしの横を抜けて帰ろうとする。両手はポケットにしまったままだ。
「た、助けてくれて、ありがとう」
振り返り、声を投げた。
彼は、ぴたりと立ち止まった。
「《《ぼくは》》、なにもしていない」