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ふざけんな、なにが血だよ
「おい、自分が書いた作品を忘れたのか?」上田さんがいった。「ミリオンセラーになって世のなかを賑わしたんだぜ?」
「ああ、そうなのかぁ。そいつぁめでてぇなぁ」
上を向いてあごの下を掻いている様子からしても、まるで他人事のようだ。
「原稿はみーんな出版社にあげちまったしなぁ。過去に書いたもんなんざ、いちいち覚えちゃいねぇさぁ。おれにとっちゃぁ、ここで生きていけるだけの金が入ればそれでいいのさぁ。娑婆の仕事は、どうも肌に合わなくてなぁ。作品がおれの頭のなかから生まれて、人の手に渡ったなら、あとのことは知らねぇ、知らねぇ。賞も名誉も人間が自分勝手に決めたもんだぁ、なーんの意味もねぇ」
これが一般的な平均年収を大幅に上回っているであろう人間のセリフなのか。思考も生き方も世間から大きく離れている。むしろ世間とはなにか、その価値とはなにか——そんな考えまで頭をよぎる。
「与太話をしに来たわけじゃない」師匠が言う。「教えろ。誰だ」
「闇口実弥。いまそこで、飛びまわる女狐をキョロキョロと目で追っている娘っこの——ひいじいさんだ」
突然のことで、ふたりがなにをしゃべっているのか、皆目検討がつかない。ただ闇口という苗字が自分に深く関係しているのはわかる。こんな特殊な苗字がそこらじゅうにあるわけがないし。
そして堂々島さんはいま、言ったではないか。
ひいじいさん、と。
「わ、わたしの、ひいおじいちゃん、ですか?」
「会ったことねぇのかい? おじょうさん」
堂々島さんの顔が、とたんに真剣さを放った。キリリとしていて胸がえぐられるくらいのイケメンだ——やばい。
「えと……。母方の、ですよね」
「そうだなぁ。闇口なんて家はそうそうねぇからなぁ。おっかさんの旧姓が闇口なら、そうなるなぁ」
「ひいおじいちゃんはおろか、祖母や祖父にも会ったことがないです」
「そうさなぁ。おっかさんは、飢え激る霊能一家から、おめぇさんを守っていたんだなぁ」
堂々島さんは天井を見上げた。
ふう、と息が聞こえる。
ここで上田さんが、どうしたんだよ、なんなんだよ、とさわぎそうなものだが、妙に緊張した空気がそれを許さない。
「一〇年に一度——」堂々島さんは、言葉を大切に置くように言った。「なぜ一〇年に一度なのか。そんなに人を殺してぇなら、一〇年と言わずに、毎年でも、毎日でも、殺せばいいじゃあねぇかぁ、そう思うだろう。だが、一〇年に一度じゃなきゃならなかった。そして、一〇年に一度で十分だった——」
「ここからはおれが話す。不足があれば足してくれ、びっくり」師匠が言った。
「おう、おうよぉ。じゃぁちょっくら目をつむるわぁ」
「そぼろのひいじいさん。闇口実弥はまだ生きている」
「ひいじいさんって……」上田さんが考えこむ。「そぼろちゃん、ほんとうに知らねぇのか? 話を聞いたことも?」
わたしは首を横に振った。
「問題は、どうやって生きているのか、だ」師匠は顔をしかめて、「錫の契り……。そんなものをやってのけるのは、高位の霊能力者しかいない」
「すずの、ちぎり……」
はじめて聞いた単語だ。
「錫婚式——夫婦が一〇周年を祝うときに、錫という言葉が使われる。柔らかい銀色の金属が由来だ。上田も知っているだろ?」
「ああ。うちの死んだ母ちゃんが、よく結婚一〇周年の錫だなんだと言ってたな」
「霊能界隈では、錫の契りをすなわち、幽霊と人間が唯一結ぶことができる婚姻関係と考える。一〇年に一度、ふたりが決めた日に、かならずだれかひとりを殺す。その日は、ふたりにとっての結婚記念日だ」
「結婚記念日に、人を殺してお祝いかよ……」
「その日付っていうのは、かならずその日じゃなきゃいけないんですか?」
わたしが訊いた。
「おう、おうよぉ」堂々島さんはあくび混じりに、「一日でもずれたら、錫の契りは破綻するよなぁ、嘉次郎?」
「ええ、おそらく」嘉次郎さんが答えた。「実のところ、錫の契りというのはですね。善神の目を欺く約束の日でもあるのです。閻魔さまは、決められたその日だけ、契りを交わした当事者の所業を隠すと言われております。日にちが一日でもずれたら、閻魔さまは仕事をしないでしょう。なんだかんだ生真面目な部分がありますから」
まるで閻魔さまに会ったことがあるみたいだ……。
「とまぁ、そうは言っても、閻魔さまに会ったことはございませんので」
ないんかい。
「閻魔さまに関する話は、伝承——つまり、云い伝えでございます。けれど、大安や仏滅を信じるように、そういった部分をないがしろにしないほうが、お得でしょうな。もし、そぼろさまがだれかと錫の契りを交わす際には、日にちはしっかりとお決めになって、その日に無差別殺人をしたほうが無難でございましょう。ふぉ、ふぉ、ふぉ」
「そぼろちゃん……、錫の契りをやる気だったのか? だれと……」
このタイミングでチワワみたいな真顔をするなよ、上田。
「ないですそんな予定。上田さんのばか」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ」正座すがたで空中浮遊している嘉次郎さんが笑う。「片方が死んだとしても、それでも恋仲でいたい——そう思う瞬間が、そぼろさまにも来るやもしれません」
「来たとしても、人を殺してまで一緒にいたくないですよ……」
ちょっと待て、ちなみにだが……、と上田さんが申し出た。
「その実弥ってじいさんが、幽霊と結婚していたとしても、こうしてそぼろちゃんが生まれているってことはよ。現実世界でも結婚しているってことだろう? ちゃんと、家系は残っているわけだしよぉ……」
なんだかディープでえぐい話題がはじまった。
「不倫?」マリちゃんが刺した。みんなが頭で考えたことだ。
「おおうい、そうなるのか? じゅういち」
「現実で肉体のある女を股にかけていたら、不倫だろうな。だが霊界には日本の法律もモラルも届かない。幽霊との既婚を隠して、それが罪になるか?」
「それはまぁ……。たしかに……。なあんだか、頭がいてぇな」
後頭部をぼりぼり掻く上田さんの気持ちがすごくわかる。自分の家族の話だと思うと、さらに気分が優れない。なんだこの感じ。会ったこともないひいおじいちゃんが、《《謎に女ったらし》》だったと知った変な感じ。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。いいですなぁ」嘉次郎さんはゆったりと、「人間の肉体を保ったまま生きられるなんて、うらやましい。しかも幽霊の嫁まで……。わたくしめも、せっかくなら人間のまま生きていたかったですなぁ。幽霊になって以来、口に入れていない塩むすびの味が、最近どうも恋しいんですよ。ねぇ、先生」
「あ? 塩むすびくらい、いつでも供えてやらぁ」
堂々島さんは、面倒くさそうに片手をぱたぱたと振った。
一方の師匠は話すために、すぅと息を溜めた。
「殺意を持った幽霊。そいつがでたらめに何人も殺していけば、ついには祟り神になる。そうなると心魂共に自我というものは消え失せる。自然界に溶けこんで、山や水、大地、風や熱を乱すようになる。この世で起きている多くの災害は、実は悪霊が祟り神になった結果であることがままある」
死んでまで人を殺して、あげくには祟り神となり、自然災害まで起こす……。とても迷惑だ。まったく人のためにならない。
「なんだかすっげぇ話だが……。それが、そぼろちゃんのひいじいさんの件と、なにが関係しているんだ?」上田さんが言う。
「もう気づいていると思うが。闇口実弥とマキ。このふたりは錫の契りを交わしている」
さらに言葉を言う前に、師匠は呆れたような息をひとつ。自分の口で話すのも禍々しいといわんばかり。
「一〇年に一度だったら、祟り神になるほどの短期大量殺人とはいえない。幽霊の状態を保っていられる。マキは、本来なら、自分の母親とおなじような人間を何人も何人も殺してまわりたかった。自分の大切な妹を殺した母親への怨恨は、母親ひとりを殺したくらいでは晴れなかった。だが怨みのままに殺しまくっていれば、すぐにでも祟り神になっただろう」
マキは現在も幽霊として、この世にいる。
「錫の契りをもちかけたのが……、そぼろちゃんのひいおじいちゃん、実弥だった?」
上田さんが言うと、師匠は静かにうなずいた。
「もちろん本人に確認したわけではない。が、大方そんなところだろう。錫の契りなんてものを、一般人はまず知らない。知っているのは霊能家系くらいだ。実弥が吹きこんだ以外に考えられない」
「じゃぁ、実弥にとってのメリットはなんだ? 幽霊になった恋人といつまでも会話ができればいいって……、それだけか?」
「錫の契りにはもうひとつ、大きな特典がある」
師匠が言うと、堂々島さんの口角がすこし動いた。
話の流れが見えているようだ。
「一〇年に一度。幽霊であるほうが人を殺す。殺された者の寿命を、生きているほうが食べる。食命ともいう」
まさか——いやだ、最悪な予想が一気に頭を駆けた。
「実弥は、マキが殺した赤の他人の寿命を食うことで、自らを延命させている。いま、この瞬間も、他人の寿命を消化して生きている」




