ー3ー
ふざけんな、なにが血だよ
「大丈夫?」わたしが声をかける。
「うん……」マリちゃんは弱く応えた。
黙々と鞠を裂き、師匠はハサミを置いた。まるで内臓をほじくるように、指を突っこむ。しばらくぐりぐりと探ってから、ゆっくりと指をもどす。鞠のなかから取り出されたのは——
「なんだぁ、それ」上田さんが前のめりになる。
「歯……、だな」師匠が言った。
永久歯にしては小ぶりな歯——おそらく自然と抜けた乳歯か。形は奥歯に見える。
「まさか歯とはな……」上田さんが言う。「それでも立派な遺骨だよ……、なぁ?」
「ああ、ちがいない」
唐突に師匠は頭を下げた。なにごとかと思った。
「すまない。切り離した指でも入っている……、などと邪推をした」
「いいんよ」マリちゃんはうすく笑った。「そう考えるのも仕方ないよね」
すると上田さんの携帯が鳴った。ここ一帯には電波が入らないと思っていたが……。わたしのスマホとは、キャリアがちがうのだろうか。初めて乗り換えたいと思った。
「お、ちょっと待っててくれ」
発信元を確認した上田さんはそそくさと外に出た。だれかと一分ほどしゃべってから、すぐにもどってきた。
「もうすぐ来るぞ。あと一〇分くらいだ」
「なにがです?」わたしが訊く。
「お、そうか。そぼろちゃんはまだ聞いてなかったか」
次に上田さんの口から出た言葉を、わたしの耳は疑った。なんでもこの湖畔に一台のヘリコプターが飛んでくるらしい。
さらに師匠が放ったセリフが追い討ちとなり、わたしの脳はエラーを起こして固まった。
「これから堂々島霹靂が住む山に向かう」
プロペラの風圧を肌で体験することになった。ドラマや映画でしか見たことがないシーンに自分が置かれている現実が信じられない。
パイロットと軽く敬礼をかわす上田さんを見て、この人はほんとうに刑事なんだと実感した——とても失礼だが——。
普段の上田さんを見ているかぎりは、とてもだれかの上司をやっているとは思えず。ビシッと敬礼を返すパイロットの背筋を見て、やっと上田さんの社会的地位を実感した次第だ。
師匠と上田さんは、何度か堂々島さんに会っているようだ。ふたりの会話を聞いているかぎり、どうもそうらしい。彼——と言っていたから堂々島さんは男で確定だろう。性別すら謎だったミリオンセラー作家が、こんなにも近くに住んでいることは……。
エンジンが段階的に音程を上げる。
機体の脚が地面から離れて、浮遊感が増していく。
下で、本谷さんが手を振っている。
心のなかでお礼を言った。
感じたことのない重力。
立体的に揺れる機体。
着けたことのないヘッドセット。
わたしは機内で裁縫をするのをあきらめた。
この状況でうつむいていたら、まちがいなく酔う。
となりに座るマリちゃんに話しかけようと思ったが、彼女はすでに寝ていた。本谷さんが運転する船の上でも寝ていたし、マリちゃんは乗り物が苦手なのかもしれない。
師匠も腕組みをして瞑想している。なんで鞠を縫っていないんだ、と怒ることもないだろう。地上に降りたら、ちゃんと裁縫するつもりだ。
移動中の機内でわたしは自分のスマホを確認した。やっと電波が入っている。ずっと水中にいて、ようやく呼吸ができる——そんな気分だ。スマホ依存とはこういうことか。
母から何件かの着信があり、メッセージも残っていた。
〈いつもどるの?〉
〈まだ? 大丈夫?〉
〈おかあさん こ〉
最後のメッセージが変だが母は機械オンチだから、なにかまちがえたのだと思う。
〈大丈夫? これから堂々島さんって人に会ってくる。それからどうなるかわからないけど、あしたの朝には家に帰れるかも たぶん〉と返した。
一葉からのメッセージもあった。
〈なんか病院に運ばれたって聞いたけど大丈夫!?〉
どこからその情報を仕入れたのだろう。
もしかして、病院関係者に知り合いがいるのだろうか。
一葉の人脈はすごいな、と改めて思う。
〈大丈夫! 黙って学校休んでごめん!〉
わたしが返すと、ピンポン玉みたいな速度で返信が来た。
〈わぁ! まじで心配した! どうしたの、病気!? けが!?〉
〈なんか寝ぼけて料理してたら、けがしちゃって もう退院してるしあさってくらいから学校行けると思う たぶん!〉
〈もぉ! 大丈夫なの!?〉
〈元気だよ! 包帯巻いているけどw〉
〈やっば! 中学の友達のお母さんが病院にいて、そぼろって名前の子が運ばれたって言ってたって! まさかと思ったけどマジだったんだ! 心配した! 早く顔みたい! ちゅーしてやる!〉
〈そうなんだ! 連絡できなくてほんとにごめん! ちゅーはいらないよw〉
〈!!!!!!!!!!!w〉
いつもどおりのやりとりに、とても癒された。
心のなかでありがとう、と何度も念を送った。
さらにもう一件、入っていたメッセージはあづきちゃんからだった。
〈先輩! もしよかったら、わたしが好きな堂々島さんの本、読んでみませんか? わたしので嫌じゃなかったら、お貸しします!〉
うさぎのキャラクターのかわいらしいスタンプも送られていた。すぐに返事ができなかったから、心配させてしまっただろう。既読も遅かった。あづきちゃん、ほんとうにごめん。
しかしこれから堂々島霹靂本人に会いに行く……、のかもしれない。あづきちゃんには、なんと言えばいいのだろう。
いまはほとんど実感がない。ほんとうに彼に会えたとしても、あづきちゃんにはなにも伝えずに黙っているのがいちばん平和かも、と思うけれど……。
〈返信遅れてごめんね! いいの!? ぜひぜひ、お借りしたいです!〉
あづきちゃんと話しているときは、妙な安堵感がある。同類だからなのか。いずれ一葉と三人で遊んだり……。いや、それは厳しいか。一葉がいるだけで、石みたいに固まってなにも話さないあづきちゃんが容易に想像できる。
わたしとふたりきりでいるだけでも、彼女にとっては相当な負担のはずなんだ。まずは、一対一の交流を深めることに集中すべきだ。もっと、気を遣わなくてもいい関係になれるように。
スマホから目を離したあとは、機内から生明町の夜景を見下ろすことができた。このヘリコプターは、日流山から東のほうへ飛んでいるらしい。
一〇〇万ドルとまではいかないが、まばらに光る住宅の明かりは綺麗だと思った。ときおり走っている車のライトが流れ星のように見える。田舎だが、この空気感はわたしに合っているのだろう。
しばらく飛ぶと、眼下の夜景はただの漆黒に染まった。町を離れて、郊外へきたようだ。さらに進んで、名も知らない山の上を飛ぶ。
「もうすぐ着くぞ」
ヘッドホンから上田さんの声が聞こえた。
ちなみに、マリちゃんと師匠は着けていない。
「えっと……、どこですか?」景色を見ながらたずねてみる。
「もうすぐ、ちっせぇ灯りが見えるはずだ」
三分もしないうちに、丸い山肌が見えた。山頂にほど近い場所だ。海抜でいうとかなりではないだろうか。寺なのか、家なのか、古そうな建物の屋根と、ぽつぽつと灯るオレンジの光が見える。上田さんが言う、ちっせぇ灯りとはあれのことだろう。
わたしは一度、操縦席のほうへ顔を伸ばした。
「こんな山奥で、着陸できるんですか?」
「おう」副操縦席に座る上田さんがこちらに振り向いて、「大丈夫だ、それくらいのスペースはある。トムクルーズみたいにハシゴから飛び降りる、なんてことはねぇから安心しろ」
それならよかった、とわたしは胸を撫でた。座席に背中をあずけて、ふたたび窓に目をやる。着陸するポジションを微調整しながら、ヘリコプターは垂直に降下していく。
立ちならぶ杉の梢を見上げるくらいの低高度になった。プロペラが木を噛んでしまうのではないかと心配になるくらい、あたりの景色はすでに木々しかない。
こんな山奥に住めるのは仙人くらいではないだろうか。本谷さんが住む湖畔のほうが、まだ人工物が多かった。
突然、窓がばん! と音を鳴らした。なにがどうしてそうなったのか年端も行かない少女が窓に張りついている。わたしはおどろいて姿勢を崩した。
「わ、なに!?」
「どうした?」上田さんの声がヘッドセットから。
「お、女の子が窓に張りついてる!」
「お、おおう、じゅういち、あの子だよなぁ?」
上田さんが声を投げると、師匠は窓を一瞥してからこくりとうなずいた。それがどうした、と言わんばかりの雰囲気で。
プロペラが大人しくなり、ヘリコプターを降りる。まず目に入ったのはぼんやりとした灯篭の光だ。優しい深森の雰囲気に、心地よさを感じる。
苔むした灯篭に照らされるのは石畳の一本道。その先に古い神社が見えた。あそこに住めと言われたら、わたしは即答で拒否する。それほどに朽ちている。あれがミリオンセラー作家の家だと言われたら……? わたしの脳は矛盾を処理できなくて停止するかも。
「堂々島霹靂ってのぁ、なんでもすっげぇ霊感を持っているらしい。生きている人間と暮らしているほうが疲れるんだそうだ。彼の家族はみんな幽霊なんだよ。おれぁもちろん、そのひとりも見たためしはねぇが……」
石畳を進みながら上田さんが言った。




