ー10ー
山だの刃女だのよ
寝かされている少女——おそらくマリちゃん——のかたわらには例の女が立っている。彼女は目線を落とした。一度少女を見下すと、氷のような無表情をこちらに向ける。左手を真横にひと振りして、ビデオカメラを放り投げた。
硬い土に落ちた衝撃で三インチのモニターが破損し、本体から外れた。まるで腕を引きちぎられた死体だ。赤や黄色の繊維みたいなコードが露出し、やけに生々しい。
「ここは狭界。霊の意志により創られる世界。その者の記憶、怨念、後悔、あるいは願望。それらが世界そのものになる。ここから出る方法はふたつ。その者の願いを叶えるか——」
シラツユさんは師匠の肩から降りた。
その背中は明らかに戦闘体制だった。
「ぶん殴って成仏させる」師匠の右手が緑の炎を燻らす。
「願いを、願いを叶えてあげたらいいのでは?」
わたしは震える声で言った。
「どうだろうな。あいつの顔を見てみろ。なにを考えていると思う?」
そんなのさっぱりだ。殺意しか感じない。
「な、なにが欲しいんでしょう? おさしみ、とか……、はは……」わたしはひきつった笑顔を浮かべた。
師匠は念じるように目を閉じる。それを見た女が、ふへらと笑った。不気味な笑顔。口って、あんなに裂けるものだろうか。
ふたりはなにか、テレパシーのようなもので会話をした……。
そんな風に見えた。
「あいつの願い——聞きたいか」
かっ、と目を開いて師匠が言う。
「か、叶えられるのですか」
「さあな、無理だろうな。こちらが拒否するからな」
「きょ、拒否……?」
「あいつの願いは——」
〈ずっと、何人も何人も、殺していたい。できればあなたたちも——〉
師匠の声と、女の声が重なる。
同時に頭を裂くような耳鳴りに襲われ、わたしは顔をしかめた。
ふと、横にいたシラツユさんの姿が変わっていることに気づいた。さっきまではマムシ一匹ほどのサイズだったが、いまは人間の姿だ。それも全裸。こぼれんばかりの胸や尻の美しい丸みに目を奪われた。自分も女なのに。
シラツユさんは両足を揃えて膝をついた。足の皮膚が、白く、鱗状に変化していく。爬虫類の皮膚がお腹の部分まで届き、ラミア(半人半蛇の見た目をした西洋の怪物)の姿になると、その体はむくむくと肥大化していった。
ついには腕がなくなり、頭部が変化した。見上げるほどの大蛇の姿になるまで、わずか一五秒ほど。
いままでに見たどのシラツユさんよりも大きい。最大サイズだ。人間の面影は皆無。師匠の肩に乗っていたペットのようなサイズが、かわいらしいと思える。
周囲の様子も変わりはじめた。暗い木々のあいだに、いくつもの灯りが揺れる。それは提灯や松明の灯りだった。現れたのは五十人近くの人間たち。
人間?
いや幽霊だ。
みな青白く、わずかに透けている。
各々、鍬や鎌、スコップなどを手にもっている。
それらをいま道具と言わないだろう。
凶器だ。
彼らの目が、殺意の目が、そう言っている。
よくよく見ると彼らの姿には見覚えがあった。日流湖の駐車場、船着場、本山の山道——ここへ辿り着くまでの道中、そこかしこで佇んでいた霊たちじゃないか。文字どおり死んだような目で、わたしたちをじっ、と監視していたのだろうか。
「忙しくなりそうだ」師匠が構える。
「あ、あの人たちは?」
「死んだ日流村の人間たちだ。どういうわけか、あの女ではなく、こっちに敵意をむけている。おれたちが村荒らしにでも見えているのか」
「なら、あの女性は村の人たちにとって……」
「《《大事ななにか》》、かね」
呆れたような師匠の口ぶり。
「村人はあたしに任せて」シラツユさんは頭を低くして、周囲を威嚇する。「冬夜は女に集中して」
「そぼろ」
「は、はい」
「静かになるまで、とにかく逃げろ。だれにも近寄るな」
「わ、わかりました」
ずん、ずん、とおなじリズムの足鳴りが大地を揺らす。村人たちがにじりよる。なにか——、民謡のようなものを歌いながら。
不気味に、太く、雑に重なる歌声に、女の笑い声が重なる。天を仰いで笑う。甲高い声がけたけたと、うるさい、——うるさい、——うるさい。
「い、いやぁっ!」
わたしは頭を抱えて、しゃがみこんだ。音で頭が狂いそうだ。心臓が耳の裏で大暴れし、呼吸が詰まるのに肺が伸縮を繰り返す。まぶたがけいれんして、涙が止まらない。いま自分の目を見たらひどいだろう。ひん剥いて充血に染まった目、それこそ化け物だ。
村人が一斉に襲いかかる声。
吠える大蛇の響きが腹に溜まる。
村人は悲鳴をあげ。
なにかがちぎれる音がした。
女の笑い声が近くまできて——
「そぼろ、走れ!」
師匠が叫ぶ。
逃げろ。
どこへ?
わからない。
方向を気にする余裕はない。
「あっ、そっちはだめ!」
シラツユさんの声。
普段より太い声だ。
気づくとわたしは、三人の村人に囲まれていた。
右は鎌、左は鍬、正面は三叉の槍のようなもの。
わたしはしりもちをついた。
こわかった。腰が抜けた。
正面の男が突っこんでくる。
金属の尖端が迫る。
とっさにできた反応は、手元にあった小石を投げることのみ。
だが、それが功を成した。
投げた小石は紫色の炎を纏っていた。襲いくる村人の顔面にそれが当たる。例のごとく相手は紫の炎に包まれ悶え、焦げていく。人型に焚き燃える紫炎に恐れをなしたのか、あとのふたりはなにかを喚いて逃げた。
他の村人たちは、シラツユさんの牙で次々に食いちぎられていく。血飛沫こそ跳ねないが、青白い人間たちが上下半身を分裂させ、食われていくさまはトラウマになりそうだ。
喧騒のなか、わたしは師匠を探した。
緑色の炎はすぐに見つけられた。すごく綺麗で、はっきりと煌っていた。
ちょうど女の短刀が振り下ろされた瞬間だった。
師匠は左腕を女の手首に当て、攻撃を止めた。
なにか、見たこともない色の閃光が光った。
師匠の右手は、より一層の炎を燻らせる。
互いの目が殺気をぶつけ合う。
ならばと女は両手を使う。
刃をぐいと押しつける。
「人殺しほどの悪趣味はないな!」
師匠が思い切り拳を振り上げる。
拳を受けた女の腹は、大砲に撃たれたように捩り凹んだ。
そのまま真上の宙に浮く。
手から離れた短刀が落ちてからりと音が鳴る。
女の全身は緑炎に覆われ、燃えて、黒い花びらのように散って、どこからか吹いた風に煽られて、煙のように消え失せて——
ひどい悲鳴——
ひどい悲鳴——
悲鳴——
耳が裂けそうなほど——
女の姿はないのに、金切り声は鳴り続ける——
「冬夜!」いつの間にかマムシサイズになったシラツユさんが叫ぶ。「あの子を……、あたし、ごめん、力を使いすぎたみたい」
「——そぼろ! シラツユを運べ!」
わたしはすぐにシラツユさんを両手に持った。師匠は寝ているマリちゃんを抱きかかえて、こちらに走ってくる。慌ただしいお姫さま抱っこだ。
「ばか、突っ立ってる場合か!」
「あ、は、はぃ!?」
「うしろよ……、走って! 狭界が消える!」手元のシラツユさんが急かす。
慌てて振り返る。数メートル先に、太い木としめ縄の〈門〉があった。
門のむこうは穏やかな森林だ。まるで切り取られた絵ような別世界。そこには猟銃を構える老人と、刑事ドラマのような人影が——
「う、上田さん!?」
「いいから走れ! 門をくぐれ! 現世に帰れなくなる!」師匠が叫ぶ。
主を失った世界は空にヒビを作った。
次に地割れが起きて、地面が崖のように崩れて、足場が減っていく。
胃袋が揺れる感覚。船の上みたいだ。
下手に走ったら転んでしまう。
慎重にならないと。
周囲の木々は根っこから崩れて、そこらじゅうからバキバキと乾いた音がする。割れた地面のあいだから、真っ赤な水が湧いてきた。ものすごい水量だ。まるで洪水。赤い海。水中にはうごめく人の腕が何本も見えた。あれは落ちたものを掴んで、水底まで引きずりこむのだろうか。絶対に落ちてはならない、と本能が訴える。
さらに非現実的な事象が起きた。ヒビ割れ、ついには砕けた空が、巨大なガラス片となって降り注ぐ。巨人の剣が何本も降ってくるかのよう。赤い海に突き刺さる度、轟音と水飛沫が上がる。衝撃によって波が発生し、足場がぐわりと揺れる。砕けて、離れて、赤い海に浮いて、どうにか、どうにか、足場を跳んで、跳んで、門まで、門まで——
「わっ!」
足がぐらついた。足元が土ではなく、氷だったら滑って落ちていただろう。
「そぼろちゃん……、大丈夫? ごめんね……」シラツユさんはぐったりしている。
「な、なんとか!」
人生において、ここまで体幹を酷使した経験はない。——わたしはどうにか門まで着いた。シラツユさんを門のむこうに下ろす。
「お、おい、そぼろちゃんか!?」
急に現れた私を見て、上田さんがおどろく。
「なんじゃ、どうなっとる! その白蛇はなんじゃ!」
本谷さんは《《がなった》》。
「し、師匠がまだ……!」
おじさんふたりとの再会を喜びたいが、それどころではない。わたしはすぐに振り返った。師匠を探す。赤い海に残る足場は、あと三つ。マリちゃんを抱えた師匠が跳ぶ。一回。二回。あと一回跳べばこちらに届く。轟音が響く。波が立つ。
「師匠!」
「くっそ!」
師匠が跳んだ。しかし、足場がぐわついたせいで、しっかりと踏み切れなかった。ジャンプが浅くなった。
門がある足場の淵に、師匠の片足がかかる。
わたしはとっさに手を伸ばした。が、とても届く距離じゃない。
師匠の体はバランスを失った。
うしろに倒れて——
赤い海に、落ちる——
水中の腕がわらわらと集まる——
「だめ!」
わたしは気絶した。
いや意識はあった。
だが肉体は気を失った。
自分の魂——霊体だけが飛び出して、
師匠の背後にまわりこみ背中を支えた。
そのまま両手で力一杯、突き飛ばす。
師匠は前に転がり、門をくぐった。
気絶したわたしの肉体は、いま上田さんに抱えられた。それが見えた。優しく持ち上げてもらって申し訳ないな、と思った。まるで他人事みたいに。
四つん這いの師匠が、こっちに叫んでいる。
頬に土をつけたイケメンがなにかを言っている。
ばかやろう?
ああ——
わたしは幽体離脱をしたんだ。
このまま門をくぐれなかったら、魂は狭界と一緒に消えてしまう?
どうしよう。
幽体の扱いかたなんてわからない。
火事場の勢いで動けただけだ。
ここからどうしたいいのか、まったく。
浮いているだけで精一杯だ。
なんだ。
わたしは死ぬのか。
なんて突発的であっけない。
実感すらうすい。
こんなことなら、もっと美味しいもの食べておけばよかった。
手を伸ばす師匠が、血相を変えて叫んでいる。
ごめんなさい。
せっかく霊能力のことを教えてもらったのに。
せっかく探偵助手にしてもらったのに。
体だけを置いて逝っちゃうみたい。
ほんとうに、ばかみたいだ、わたし。
なにもかもが中途半端。
ひとつのことをしっかりとやり遂げたためしがない。
自分のしょうもなさに、くすりと微笑んだ。
視界は真っ赤に染まって、真っ黒になった。
一瞬だけ見えたのは——
びっくりするほど大きな、先割れの舌だった。




