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なにこれ、おかしいよ
うちのリビングは狭いほうだ。しかし、ふたり暮らしのせいかずいぶんと広く感じる。ダイニングテーブルも四人用の大きさだ。
トースターから飛びだしたパンをあちちといいながら指でつまみ、皿にのせて母は席についた。いちごジャムの瓶にスプーンが当たる音がした。テーブルにはふた皿のサラダも置いてある。が、わたしが食べるサラダに入っているトマトが軽く潰れていて、どろりと汁が溢れていた。
わたしはマグカップにミルクティーを注いで、ハチミツを足した。いつもなら母みたいにジャムパンをかじっているところだが、きょうは食欲がわかなかった。甘いミルクティーとサラダで十分だ。
眠いわけではないが、思考がすっきりしない。頭に鉢巻きを力強く巻かれたような、締めつけられる感覚を拭えずにいる。この最悪なコインディションで学校に行くのだと思うだけで、ノドの奥に胃液を感じた。
ぼんやりとした視線をテレビにぶつけているわたしの顔は、目の前で手のひらを振ってやりたくなるほどマヌケにちがいない。
どれもこれも今朝方に見た悪夢のせいということにして、嫌な思考を振り払って——ミルクティーの温もりをくちびるに求めた。
「あんた、生きてる?」母がたずねてきた。
「うん」
「生理前?」
「ちがう。まだ二週間はある」
「そう——」
「ゴミ出しのときさ。近所のだれかと、すれちがったんだよね」
「散歩のおじいさん?」
「ううん。どこかの奥さんかな。おばあちゃんではない」
「へぇ。だれだろ。だれでもいいけどねぇ」
興味がなさそうに母はいう。しゃべるために開けた口をそのままに、赤いジャムが塗られた食パンを頬張った。
それがわたしには、血が塗られたパンをかじっているように見えてしまった。今朝方の夢がまだ脳裏に色濃く残っているせいだ。
スプラッタ系のホラー映画なんて見た日には、むこう一週間はひきずるだろう。赤い液体を見ただけで血だなんだとさわいでいるにちがいない。潰れたトマトなんてもってのほかだ。
「ご近所さんだと思うんだけど……」
「へぇ。小杉さん?」
母は適当に返す。ほんとうに興味がないみたい。
「たぶん、ちがう」
「犬は?」
「加藤さんではない」その人はいつも柴犬の散歩をしている。
「どんな格好してた?」
そう言われると、姿かたちがボヤっとしている。
「なんか、ボヤっとしてた」
「なによそれ」母は鼻で笑って、「その人もパジャマだったんじゃないの?」
「パジャマ……」
そうだ、あの服は上下おなじ柄のパジャマだった。
靴も履いていなかった気がする。
「チェック柄のパジャマで、靴も履いてなかったような……」
「まさか。見まちがいじゃないの? 肌色のサンダルでも履いてたのよ」
見まちがいなら、それでいい。が、すれちがう時に感じたあのわずらわしさは、気のせいだったか? そんなはずはない。もしあれが幻覚なら、わたしの脳はそうとうおかしくなってる。
「どんな髪型してた? 年齢はどのくらい?」
「ええと……、パーマっぽい黒髪で、年齢は五〇代くらいかな」
「パーマっぽい……」
食パンの咀嚼がぴたりと止まった。
心あたりがあったのだろうか。
「このへんでパーマっぽい黒髪の人、江角さんしかいないわね」
わたしにはだれだかわからない。
「母さん、知ってるの?」
「知ってるもなにも。このあいだ香典を持って行ったばかりよ」
四日前だったか。
母は夜、礼服を着て外出していた。
「心臓病らしくてね。自宅の寝室で急死なさったのよ。江角さんの幽霊でも見たんじゃないの?」
「霊感なんかないよ」
「そうね、あんたにかぎってね」
意にも介していない感じで、食パンの咀嚼が再開された。これはこれで少々イラッとくるあつかいだが、まぁ、霊感がなさそうなのは、自他ともに認めるところ。
「けっきょく、だれだったんだろ……」
「あんたもわたしも知らない、どっかのご近所さんよ。それかそのうち、思い立ってパーマを当てたのよぉ、なんていう人が現れるわよ」
気にしない、気にしない、と母はいう。
話しているとお腹が空いてきた。パンを食べるつもりはなかったが、やはり食べようと思って、わたしは席を立った。いままでに感じたことのない違和感を拭えないまま、六枚切りの食パンをオーブントースターに入れる。ジジ……、とタイマーをひねると、時限爆弾でも置いた気分になった。
私服で通える高校は、そう多くはない。わたしの通っている高校のとなりにも高校があって、そこも私服だ。しかし偏差値にはひどい差がある。
一本道の通学路で、最初の高校に曲がるとばか、次の高校に曲がるとエリート、などと揶揄されるのが通例となっている。
わたしは最初の高校に曲がる人間だ。だから、おとなりの高校生からはばかだと思われている。
この高校からだって、有名大学に進学している人はたくさんいる。だから、ばかばっかりではない、と反論したいところだが。
125ccの改造バイクにまたがり、ぶらおん、ぶらおん、と謎のエンジン音をかき鳴らしながら登校してくる暴走族まがいの生徒が大勢いるので、あの定時制高校は狂っているといわれても仕方ない。
教員免許取りたての女教師が、この高校に配属された折。校内に入ってくるバイクの連中を初見し、まずは発狂——。
そしてさらに、自分が副担任として受け持つクラスに彼らがいると知り、卒倒した、というエピソードは有名だ。
「ねぇそぼろ。昨日の動画観た?」
教室に入り、席に着くと、前の席に座る女友達——片桐一葉が話しかけてきた。わたしが来るのを、いまかいまかと待ち侘びていたのか、嬉々とした表情だ。茶髪のおかっぱ。愛くるしい童顔の持ち主。男子生徒からの人気もある。小柄で、抱きしめたくなる体型をしている。全体的にぷりっとしている、というか。むきたてのえびみたい、とだれかが言っていた。その表現は的確なように思える。
「動画? なんの?」
「有名なユーチューバーが生配信してたんだけど、部屋のなかで心霊現象が起きたって大さわぎになったの。変に炎上しちゃって、ヤフーニュースにもなってた」
「へぇ……、知らない」
「ああ、そぼろ、生とか興味ないもんね」
一葉の言葉に教室内の数人——主に男子——が反応した。ニヤついた視線がわたしに集まってくる。すごくいやらしい目つきだ。
「ちょっと、語彙に気をつけてよ……」
「え? うち、なんか言った?」
この娘は少々、天然なところがある。
「なんでもない。男子が見てきたから、やだったの」
「あ、そぼろ、モテ期到来?」
「ちがうから……」
スマホを取りだして、適当に画面をいじって、謎の恥ずかしさを堪えることにした。
「検索してみてよ。サカキン、心霊——って」
授業のチャイムがなるまでの暇つぶしにはなるか……、と思いつつ、言われたとおりに検索した。動画はすぐに見つかった。
生配信自体は一時間以上あったが、切り取り動画のおかげで、問題のシーンにすぐアクセスすることができた。
高級ワインを一本ずつ開封し、最後にはそれらを目隠しで飲む。そして銘柄をいい当てる、というのが動画の主旨だった。
ソファの真んなかに座っているサカキンの背後。背もたれに隠れるようにして、男の子がひょこひょこと頭を出したり、ひっこめたりしている。とてもわかりやすい心霊現象だ。これが本物なら世のなかがさわぐのもわかる。
目隠しが終わり、コメントで異変に気づいたサカキンは、何度もうしろを振り返った。企画を一時中断し、席を立ってソファの真後ろを確認した。
なんもいないよ、こわいからやめてよ、と視聴者に訴えるも今度は仕込みではないかと疑われてしまう。ちなみにわたしはいま、切り取り動画のテロップを見ただけで音声はまだ聞いていない。実際に声を聞いたら、臨場感がちがうはず。
それならばと、サカキンはウェブカメラでソファの裏を撮影してみせた。たしかに子供ひとりくらいなら、通れそうな隙間があった。が、少年はいない。綿ぼこりが転がっているだけだ。
部屋全体。なんならクローゼットのなかまで視聴者に確認してもらったが、当然のようにだれもいない。
部屋にはサカキンひとりだ。