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山だの刃女だのよ
「あぁ……。たしかになんかぶつぶつ聞こえるな。だれかいるのか?」
「野生のクマと散歩ができる人間なんぞこの世におらんわ」
本谷は誠子をゆっくりと寝かせた。肩に背負っていた猟銃を慣れた手つきで構える。四方八方を索敵するたび、かちゃ、かちゃ、と銃がわずかな音を立てる。
銃口が見つめるのはいずれも白い霧と、そのなかに立ちならぶぼやけた針葉樹ばかり。上田も拳銃を握りしめて、本谷が狙っているのとは別の空間に銃口を向ける。たがいの背を守り合う構図が自然と完成した。
「やつらは低い姿勢でくる。地面を狙うくらいの気でおれよ」と本谷。
「あ、ああ……」
上田は人型の的を撃つ訓練しかしていない。そのため、銃を構えると自然と腕が持ち上がってしまう。本谷はそのクセをすぐに見抜いた。
「このままじゃ動きようがない……」上田が言った。
「じっとせい。いまは目より耳を信じろ」
「……声がしない。さっきまではっきりと聞こえていたのに」
「息じゃ。息の音がするはずじゃ。それに集中しろ、しゃべっとられんぞ……」
しんとした空気が流れ——
それからまた唸り声が聞こえはじめた。
地面を這うような低い声は一定のリズムでおなじ言葉を連呼している。声の主は霧のなかに隠れていて未だに見えない。
「経か?」上田が言った。
「まさか」本谷は鼻で笑う。
ふたりは耳を澄ました。
「ほら、ナムナントカ、ってずっとおなじ言葉を言ってないか?」
その声はすくなくとも二方向から聞こえている。
「たしかに……、経に聞こえるわ」
「クマが経を唱えるってぇのかよ」
「よぉわからんくなってきたのぉ……」本谷は銃を構え直した。
がさ、がさ——
茂みが音を鳴らした。
ふたりはそちらを見た。
数秒を待たずにさわがしい音が鳴った。茂みから勢いよく現れたカラスがあー、あー、と無神経な声を散らかして飛び去っていく。
「カラス……」上田は構えを解いた。「経を唱えたのもあいつだったんじゃないか?」
しかし本谷はなにかを察して銃口を別にむけた。獣らしい鼻息が聞こえたときには、クマはあと数歩で上田に襲いかかる位置にいた。
「そこじゃ!」本谷は撃った。広い森に銃声が吸いこまれる。上田もとっさに銃を向けたが、クマはそのまま突進してきた。押し倒されて、視界が毛皮で埋め尽くされる。生臭い息と飛沫する唾液が顔にかかる。叫んでいる余裕はない。上田は至近距離で何発か撃った。すぐに本谷も撃つ。猟銃の弾がクマの頸椎を抉って、数一〇キロの体重が上田にのしかかった。
「ぐっ……、くそ!」上田はもがいた。
「しっかりせい!」本谷はクマの死体を思いきり蹴って、上田を解放した。
「すまねぇ」
「ケガは?」
「だ、大丈夫だ」
クマはまだ息をしていた。完全には死んでいない。そして不気味なことに、瀕死の獣口はぶつぶつと経を唱えつづけていた。
「こいつが経を……?」上田が言う。
「まさか。ありえん」
本谷は銃口を下にむけて、さらに一発撃った。
クマの眉間に風穴が空いたのと同時に、経は鳴り止んだ。
「どうなってんだ」上田は唖然としている。
「取り憑かれとったんか?」本谷が言った。「安心するな、まだ経が聞こえとる」
「他にもいるってのか?」
「しー……」
ふたりは耳を澄ました。視界がわるいため、聴覚に頼るしかない。
「なにも聞こえないな……」上田が静かに言う。
「油断するな」
本谷は銃を構えたまま、足で地面を舐めるように移動した。倒れた誠子のそばに寄る。
「おい、刑事、この娘を背負えるか?」
「あ、ああ……」
上田はひとまず銃をしまった。倒れるマリちゃんに近づき、姿勢を低くして、耳を口元に近づける。
「息はあるな……」
生死を確認した上田は、マリちゃんの片腕を自分の肩にまわして担ぎ上げた。関節が棒のように固まっているせいで、おんぶのかたちを作るのが難しかったが、どうにか背負った。
「で、どうするんだ?」上田が言う。
「そうさな……」本谷やすこし悩んで、「まずあのふたりと合流せんことには……」
そのとき本谷は背後に気配を感じた。
それは人間の気配。
よく知っている人の気配——
「まさか」本谷は自分の目を疑った。
「どうした?」上田にはなにも見えない。
答えるでもなく、本谷は鼻で笑った。どこか嬉しそうな顔で。
「なんだ、どうしたんだよ」
「なぁに、わしはあんたよりも見える、ってだけの話じゃわ」
「霊感あったのか?」
「どうかの。こいつは霊感というよりは……」
行くべき方角がわかっている様子で、本谷は迷いなく歩きだす。上田は慌てながらそのあとを追った。
「なんだよ、霊感じゃなきゃ、なんだってんだよ」
そんなこともわからんから、あんたは無感なんじゃわ——と本谷は思った。が、それは言わずに別の言葉を投げた。
「愛ってもんじゃろう。それくらいわかれ、青二才」
・…………………………・
わたしは自分のしたことを理解できずにいた。この最悪な、死体だらけの和室で殺されかけて、とっさの抵抗をしたらしい。
襲ってきた狂気の女がわたしの腕力くらいで、たじろぐわけがないと思う。けれど目の前の女は紫の炎に焼かれていて、畳を焦がしながら、のたうちまわっている。どこからその色の炎が生まれたのかと、炎の原因を探したが、可能性はひとつだけだった。
片手で顔の半分を覆いながら、女の片目がわたしをにらむ。正確には、わたしの左手をにらんでいる。
紫色の炎がわたしの手をまるごと包んでいた。手首まで隠すほどの炎。熱さはまったく感じない。むしろ心地よい冷たさが左手を包んでいた。この炎はわたしの皮膚の熱を冷ましているのか。あるいは、熱を奪っているのか。
女が叫んだ。
言葉にならない、歪んだ悲鳴。
黒板を掻いたあれに近い音。
耳が裂けそうなほどの声を散らしながら、女はその場から逃げようとする。その顔から片手が離れたとき、顔の半分が爛れているのが見えた。
障子を突き破って、ふらふらの足腰を無様に暴れさせながら女は廊下へ消えていく。追跡する理由もないが、放っておくのも気味がわるい。
ひとまずわたしは、左手に纏う紫炎を消せないかと考えた。適当に腕や手を振ってみたが、炎が消える気配はない。
「なんなのこれ……」
自分のことながら気持ちがわるい。身を守ってくれたことは嬉しいが、いつまでも左手が燃えていたら、生活に困りそうだ。
困惑していると、別のほうから足音が近づいてきた。どたどたと慌ただしい。
「そぼろ、いるか!」
その声が聞こえた瞬間、全身の緊張が和らいだのを感じた。安心した。ひとりではなくなった。——ふと違和感を覚え、わたしは自分の左手を見た。めらめらと燃えていた紫炎がすっかり消えてしまっている。
「ここか!」
師匠は倒された障子を踏み、入口から部屋を一見すると、言葉を詰まらせた。
「師匠!」
畳を埋め尽くす死体を避けて歩き、どうにか師匠のそばまで着く。わたしの顔は自然と逞しい胸にうずくまった。




