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闇口そぼろと幽々しき奇録  作者: 燈海 空
山だの、刃女だのよ
36/56

ー6ー

山だの刃女だのよ

 

 小屋の外に出ると風の冷たさを頬に感じた。ここへ到着したときとはちがう空気に変わっている。陽が沈みかけているというのもあるだろう。しかし空気が冷え切ったもっともな原因は、霊の数が増えていることだと思った。


 視界を動かさずに数えただけでも五体の霊が見える。肌が腐っているような、苔に汚れているような——どの霊も濡れてどろりとした風体だ。


 これからボートで湖を渡って、さらに鬱蒼とした山道に踏みこむとなると、相当な覚悟が必要だと思った。わたし自身、まだ霊感を使いこなせているわけではない。


 自分がなんでここにいるのかわからない。いったい自分はなにをしているんだろう、と不思議でたまらなくなる。


 事件を追う大人たちの勢いに流されて、混乱という濁流のなかで、どうにか丸太《師匠》につかまっていて、自分ではなにもできないのに事態は確実に進んでいて——


 すいません

 やっぱり、帰りたいです


 そんなセリフを言う隙も与えられないまま、わたしはフィッシングボートに足を乗せていた。


 ぐらりぐらりと揺れる船体の上。なみなみとグラスを満たしていくワインみたいに、胸の不安は増していく。


「大丈夫か?」となりに座った師匠が言った。「おそれるな……、といってもいまは無理だろうが。死にはしない。心配するな」

「もうすでに死んでいるような心地ですよ」

「おい」本谷さんの声が飛んでくる。「船に穴でも空いとらんか?」

「大丈夫だ」師匠が答えた。

「もしなんかあったら、どんな細かいことでも言え」f


 丸いハンドルの前に立つ本谷さんはなにかのボタンを押した。船舶のエンジンが怪物の喉みたいな音を鳴らし、それからは一定で安定した振動が下半身をつついてきた。


 つづけて本谷さんは、計器かなにかのチェックをはじめた。燃料とか、そのあたりを念入りにチェックしている。そのとなりにいる上田さんも興味津々の様子で船のメーターを見ていて、これは何年式だとか、メーカーはどこだとか、いくつかの質問を本谷さんに投げていた。


 わたしの正面に座るマリちゃんは、いまにも寝てしまいそうだ。さっきから首をこくり、こくり、と一定間隔でかたむけている。船の上が落ち着くのだろうか。


「速度を出すつもりはないが、落とされんようにな」本谷さんが言った。


 エンジン音がさらに大きくなった。船はほどよく加速して、上半身を支える腹筋に力が入る。喜んでいるのは上田さんだけだ。まるで新しいおもちゃを買ってもらった子供のように、はしゃいでいる。


「これが大海原なら、どんだけ気持ちいだろうなぁ」などと平和なことを言っているのも彼だけだ。


 安定したエンジン音に体を運ばれていると、雲のなかを進んでいる感覚がした。中学生のとき、修学旅行で乗った飛行機のなかを思い出した。あのときは天気がわるくて、機長がなにかアナウンスをしていた記憶がある。——雨雲のなかを進むので、予期せぬ揺れがあるかもしれない、とかいうもの。


 こんなにも空気が湿っているのに、雨の一粒も降る気配がない。湖の波は、海のそれとは違って幾ばくか穏やかだ。


 日流山に近づくと霧は深さを増した。

 深い、深い霧。


 岸辺には桟橋があった。水面に穿たれた円柱形の橋脚は鉄製で、赤一色に染められている。橋けたのほうは青い金属と木製の足場で構成されていた。いずれも俯瞰して見ればサビと苔の装飾がびしりをこびりついていて、古臭さは禁じ得ない。


 本谷さんに腕を掴まれ、体を支えられるようにして、わたしたちは桟橋を踏んだ。揺れる船体から降りるときは体幹を使うもので、乗るときよりもいくぶん緊張感があった。


 船を縄で固定する本谷さんを背に、わたしたちは一足早く陸地に降りた。


 景色を見渡したとき、目の前に森の壁がそびえたような印象があった。山のふもととは、こういうものなのだろうか。


 字の細かい木製の看板には簡素な地図が描かれていて、それを横目につづく肌色の道だけが人工的な景観といえた。あとは視界を埋め尽くさんばかりの大自然だ。


 昼下がりの日光は次第に頼りなくなっていて、上田さんが腕時計を見る回数が朝よりも増えている気がした。


「こんなに冷えているとは思わなかったな」上田さんは寒そうにして、「おいじゅういち、おれの背中になんか憑いてるんじゃないか?」

「安心しろ」師匠は言った。「普段から酒を大量に飲むやつは、アルコールが切れると手や体が震えるらしい。離脱症状というやつだ」

「さすがにアルコール依存症ではないと思うぜ、おれ」

「どうだか」師匠は肩をすくめた。


 男ふたりはいつもの調子なので、わたしはマリちゃんに話しかけることにした。


「マリちゃん、大丈夫?」

「うん。そぼろちゃんは?」

「結構きてるかも」

「疲れたん?」

「状況を呑みこめていない、って感じかな」

「うちのせいだよね」マリちゃんは顔を沈めた。「うちが、こんな山奥に来たいってわがままを言ったから」

「あしたにでも、だれかが死んでしまう……。それをみんなで防ごうとしているんだから。マリちゃんはわるくないんだよ」

「うちがうそをついている、とは思わないん?」


 ここへ来て、そんなことを言われると不安になりそうなものだが……。その類の感覚はない。


「なんだろう。マリちゃんなら信じられる、ってみんな思っているんじゃないかな」

「そんな考えはよくないよ。人間は常に疑ったほうがいいよ」


 それに関しての答えを思いついたわたしの口角は、ゆるまずにいられなかった。


「マリちゃんは幽霊でしょう?」

「あら……」マリちゃんはくすりと笑った。「そうだった。うちは幽霊。あまりにもこの体がしっくりくるから、自分が死んでいること忘れていたよ」


 やはりこの子の受け答えは、大人そのものだな、と感じてしまう。見た目がそうだから、なおさらか。


 船の作業が終わった本谷さんがこちらに来た。その手には猟銃が握られている。なにかをたしかめて、かちゃり、と銃を鳴らした。


「おいあんた。エセ刑事」本谷さんが言った。

「あ?」

「銃は持っとるんじゃろう?」

「拳銃のことか?」

「そうじゃ。この先、ないよりはましじゃ。弾、たしかめておけ」


 言われた上田さんは腰から拳銃をとって、リボルバーの弾を確認した。そして呆気とした顔を本谷さんにむけた。


「使うとしたら、なにに使うんだ?」

「獣じゃ。クマ、イノシシ、気が立ったシカ。なんでもありじゃ」

「使うことにならなきゃいいな……」上田さんは苦い顔をして、「じゅういち、このへんはもう幽霊がいるのか?」


 問われた師匠は肩こりを逃す仕草をした。それから深いため息。右手の包帯がしっかりと巻かれているかをたしかめた。 


「ひとことで言うと——《さいあく》だ」



 霧に染まった山道を歩いているあいだ。木々の間でぼうっと立ち尽くしている幽霊の数を数えてみた。両手でカウントできる数はあっというまに超えてしまったので、あとは頭のなかで暗算した。その数字も三〇か四〇を数えたあたりでどうでもよくなってきて、ついにわたしは数えるのをあきらめた。


「ここにいる幽霊たちって、湖で自害した人たちなんでしょうか?」


 横を歩く師匠に言った。


「一概には言えん。他の場所で死んでから、この湖に引き寄せられてここにいるだけとも思える。いずれにしても無視することだ。おれたちには関係がない。触らぬ霊に祟りなしだ」


 そういうものか、と思う以外にない。


「おい、ここじゃ」


 先頭を歩く本谷さんが立ち止まった。目の前には分かれ道があった。わたしたちはちょうどY字路の中心に立っている。


「ここを右に行くんだよな?」上田さんが言う。

「そうじゃ。はぐれんなよ」本谷さんは銃を握り直した。


 一歩一歩踏みしめるたびに、土と砂利が混ざった足音が鳴った。常に耳鳴りが鳴っているような空気感のなか、一行は着実に歩を進める。


 切り株が目に入った。例のふたつの切り株だ。切断された断面には複雑な文字が彫られていた。


「なにか書いてあんぞ?」上田さんが文字を読もうとする。


 切り株に書かれていた文字は、古いカタカナだった。


 カノタマシイ ヤスラカニ


「そっちの切り株にも書いてあるのか?」


 読み終えた上田さんが、こちらを見て言った。わたしはもうひとつの切り株を確認する——まったくおなじ言葉が彫られていた。


「何十年も前からこのかたちのままじゃ」本谷さんが答えた。「最初は不気味に思ったがの。何度も見とると慣れるもんじゃ。もとより、こういうもんじゃと思っとるわ」


 ふと、わたしはマリちゃんの異変に気づいた。切り株と切り株のあいだをぼんやりと見つめている。霞の先に動物でもいるのかと思った。


「マリちゃん? なにかいるの?」


 問うと、マリちゃんは表情のひとつも変えず、「おっとう」


「え? お父さん?」


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