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闇口そぼろと幽々しき奇録  作者: 燈海 空
山だの、刃女だのよ
35/56

ー5ー

山だの刃女だのよ

 

「水が汚くて髪も肌もぼろぼろになった。硬い食べ物ばかりで顎が痛かった。魚のにおいが鼻から離れなくて寝られない夜もあった。蚊の羽音や、謎の動物の鳴き声に起こされたことは一度や二度じゃない。けれど、なにもかもが新鮮で、豪快で、奔放で、楽しかった。死のうとしていた自分にとって、これほどに生きていることを実感できる環境はなかった——」

「そんなら、そんなら——」


 突然だった。小屋の男は足元にあった切り株の椅子を蹴飛ばした。飛んだ椅子は壁をぶん殴って、床を転がって、凄まじい物音を鳴らした。わたしはびくりと怯んだ。


「なんで死んだんじゃあっ! あんな、この湖ともなんの関係もない河川敷で自分の頭を、自分で殴って……、石で何度も殴って、なんで死んじまったんじゃ! 桂子っ……、桂子ぉ……」


 小屋の男は両膝をついて、拳を床に叩きつけた。すすり泣く声。丸まった背中には、さっきまでの威厳はまったく感じられない。


 そんな小屋の男に気を取られていると、桂子さんの霊は「うちのをおねがいします」と言った。


 わたしは、小屋の男から視線を移した。

 桂子さんの霊を見た。

 その顔を見た。


 頭の片方から赤黒い血を流している彼女の顔はひどく歪んでいて、キレイでやわらかい表情は、いまに幻となり、なにが起きたのかと、わたしは青い顔で師匠を一瞥したが、師匠はとくに慌てるでもなく、動じるでもなく、静かな呼吸を繰り返していた。


 わたしはもう一度桂子さんの霊に視線をもどした。ものの数秒のうちに桂子さんの霊は消えていた。さっきの崩れた顔を思い出すだけで、鼓動は勝手に早くなった。



「すまんの」小屋の男は切り株の椅子を定位置にもどしながら、「取り乱した。我ながら恥じゃわ」

「あんた、一〇年怪死事件を知っているのか? 一〇年に一度、六月六日。河川敷で中年の女性が自害するっていう……」


 横から水を流すように上田さんが言うと、小屋の男は全身をぴたりと静止させた。なにか心当たりがあるような顔だ。


「知っとる。いやっちゅうほどな。あしたは桂子の命日じゃ」

「何年前のはなしだ?」師匠が訊いた。

「二〇年。二〇年前じゃ。忘れもせん」

「それならまだ新しいほうだな……」上田さんは考える顔で顎ひげを触った。「署内の記録にもしっかりと残っているはずだ」

「昔のことなんぞ……、どうでもいいわ」吐き捨てるように言って、小屋の男は立ち上がった。「ほれ、あんたら山に行くんじゃろう」


 さてこれから仕事じゃ、と彼は背中で語り、壁にかけていた上着を手にとった。その次には散弾銃の方へ向かった。銃が必要になることは、ここにいる全員がわかっていた。それくらいに危ない山奥に向かうのだから。いまは幽霊よりもクマのほうが危険だと思える。


「あと四時間もすれば陽が沈む。山で失くしたくない貴重なもんがあるなら、ここに置いていくことじゃな。一度土に落ちたもんは、二度と拾えんと思っとけ。それと——わしん名前は本谷じゃ。上が本谷、下が元助がんすけ


 そう言って本谷さんは湿った木箱のなかをがさごそと漁り、紙製のちいさな箱を取りだした。オオカミの絵がプリントされたその箱は、いかにも子供が好きそうなおもちゃのパッケージに見えた。


 箱のなかで金属どうしが当たる音がした。その音から察して、あれには猟銃の弾薬が入っている。おもちゃと呼ぶにはいささか失礼が過ぎるだろう。


 本谷さんは何発かの銃弾を手にとって、着ているハンティングジャケットの胸ポケットにしまった。それからふと、マリちゃんのほうを見て怪訝な顔を浮かべた。


「あんた……。さっきからなにもしゃべっとらんが。どこかで会ったことあるか?」

「ううん。ないよ」マリちゃんは普通に返答を返す。

「この人は依頼人だ」師匠が口をはさんだ。

「あんたが……」本谷さんは猟銃をぱかりとふたつに割って状態を確認した。「場所の目星はついとるんか。あてもなく彷徨えるほど、あの山はあもうない。まして時間がないときた。なにを探しとる。それを知らんことには歩きようがない」


 問われたマリちゃんは目をつむり、考えをめぐらした。すると、にわかに冷たい空気が漂った。窓が開いているのでは、と思ったわたしは一度そちらを見た。動物の皮に覆い隠された窓は、当たり前のように閉まっている。風が吹くはずもない。わたしが視線をもどすと、マリちゃんの肩に青白い片手が乗っていた。


 それは幽霊である桂子さんの手だった。さきほどは血まみれになっていた桂子さんの霊体だが、いまは普通の見た目にもどっている。すくなくとも頭の半分は潰れていない。


 しばらくして、マリちゃんは本谷さんをにらみつけるように顔を上げた。


「二合目の山道。ふたつに分かれた道を右に進む。切り株がふたつならんでいるところを目印に、道を外れて北東に向かう。幹に赤い布が巻かれている針葉樹が数本あって、それを辿って進む……。すると頭の折れた鳥居がひとつ。それをくぐって、さらに北へ……」


 つらりつらり、マリちゃんは道筋を話した。それはわたしたちがいままで知るよしもなかったことだ。


「その道は……」本谷さんはまふたつに折れた猟銃の銃身をかしゃり、ともどした。《《よほどの山好き》》でないと、知らん道じゃ」


 そしてなにを思ったか本谷さんは銃口をマリちゃんに向けた。

 またか、と思った。

 室内に殺気が充満する。


「おいあんた、やめろって」


 上田さんは立ち上がって臨戦体制をとった。

 師匠はあぐらのまま、ため息。

 わたしは顔面緊張の硬直状態。

 マリちゃんはそしらぬ顔だ。


「なぜ知っとる」

「なぜって……」マリちゃんはうすく笑った。「たったいま教えてもらったんよ。あなたの死んだお嫁さんに」


 本谷さんは師匠をにらんだ。

 銃口はマリちゃんの顔面を捉えたまま。


「こいつも霊能なんか?」


 その質問は、師匠にとっては最高のギャグだったようだ。なにせ、マリちゃん自体が幽霊なのだから。


「まぁそんなところだ」くすりと笑ってから師匠は言った。「おれが保証する」


 それを聞いた本谷さんは銃口を下ろした。


「あんたなぁ……」上田さんは束の間の安心を噛みしめるように、「銃口を向けただけでも立派な犯罪だぜ? おれ、いちおう刑事だからな?」

「そうなんか? あんまりにみすぼらしい男じゃけ、刑事に見えんわ」

「それにはおれも同意だ」師匠が加える。

「はぁ……、筋肉でもつけるかぁ……」


 上田さんはがくりとうなだれた。が、ここで警察手帳なり拳銃なりをすぐにひけらかさないあたり、かっこいいな、と思った。


「乗りかかった船じゃ」本谷さんはあきらめた口調で、「霊だの霊視だの、この際信じちゃる。じゃが、何度も言うが山は甘うない。陽が暮れたら最後。あんたが言ったその道なら、往復で三時間あれば行って帰ってこられる。《《なにもなければ》》じゃがな」


 このとき、わたしは一抹の不安に襲われていた。道筋がわかったからといって、そこに行けばかならずマリちゃんの言う鞠があるのだろうか、と。


「その〈道〉ってのは、なんかこう、特別なのか?」上田さんがたずねた。

「すくなくとも、わしがここに住む前から〈道〉はあった。ふたつの切り株も、そのさきにある赤い布が巻かれた針葉樹も、わしや桂子がこさえたもんじゃあない。何十年も前からあったんじゃろう。どうにも神聖というか、気味のわるさみたいなもんがあったら、触ったことはない。触ろうと思ったこともな」

「その道の最後には、なにがあるんだ?」上田さんが訊いた。

「なんじゃったかの……」


 本谷さんは険しい顔で、何十年も前の記憶を辿る。


「あれは石の……。地蔵ではない。下が真四角の土台で、その上に小判形の石が載っておった……」

「墓か?」師匠が言った。

「そうじゃ墓に見えた。土地を祀る石碑にも見えたが、あれは墓じゃったと思った記憶があるわ……」


 うーむ、と本谷さんはさらに記憶を探った。

 しかし、一向にはっきりとした答えが見えてこない。

 険しい顔がさらに険しくなるばかり。


 山奥で石を発見したとき、なぜそれを墓だと思ったのか——その詳しい理由は知るには、やはり実物を見るしかないようだった。


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