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ここはどこ、あなたはだれよ
師匠の怒号が効いたのか、マリちゃんは急に悲鳴を止めて、座る屍のように意気を消沈させた。殺虫剤をかけられた虫のように大人しくなった。荒い呼吸で上下する肩の動きだけがわかる。唇が数ミリだけ動いてちいさな声を発したが、一度では聞き取れなかった。
「おい、いまなんか言ったよな?」
気づくと上田さんの片腕が師匠の胸をおさえていた。よもやマリちゃんに殴りかかるのではないかと思ったのだろう。それくらい、師匠に勢いがあった。
「……、り……」
「り?」篠田さんが心配そうに見つめる。
「まり……、鞠がない……。鞠はどこ……。うちらがない」
篠田さんが言っていたのはこれだ。
このセリフを繰り返している、と。
実際に耳にすると、その声色の深みに心の底が震える感覚がした。重くて、黒くて、深くて、哀愁と強い怒りがある、そんな声だ。
「鞠なら目の前にあるじゃないか」篠田さんは困った顔だ。
「ちがう。これじゃない——これじゃない!」
いままでとは一線を画すような低い声でマリちゃんが叫んだ。同時に鞠を掴み上げて床に叩きつけた。跳ね返った鞠が上田さんの右耳をかすった。
「うちの誕生日に、おとうが買ってくれた、緑と黄色の鞠——」
すっ、と息を素早く吸ってから、マリちゃんは顔を上げた。獲物を見つけた殺人鬼のような目で師匠をにらみつける。空気が止まった。
「あんたが鞠を見つけてくれるん? 見つけてくれたら、うち——この人の体から離れてもいいよ」
その言葉を聞いた師匠の表情がゆるんだ。
ほらな、という気の抜けた顔をしている。
「子供のくせに、ましな演技をしやがる。何年ものあいだ、とっかえひっかえ色んな人間に取り憑いて、大人の喋りかたのひとつくらい覚えたんだろう」
しばしの沈黙。マリちゃんは凍りついたような顔をするも、すぐニカリと笑った。無邪気で、嬉しそうで、禍々しさをふくんだ笑顔。
「なぁんだ、ばれとったんね……。たいがい《《この感じ》》で騙せるのに。取り憑いた人のまわりに使えない人しかいないとわかったら、いつも出ていくことにしとるけど。お兄さんたちは使える人間みたいだから、しばらく利用させてもらうね。さっきはおどろかしてごめんね」
さっきまでとは口調の早さがまるでちがう。幼稚園児から中学生になったくらいの差はある。頭を抱えて狂乱していたさまも、演技だったというのか。こちらを試すための——。
「それって……、しばらく放っておいたら誠子を返してくれたってことなのか!?」篠田さんが言った。
「いつもそうしていたもん。昭和の時代は、適当な小娘に取り憑いて、鞠を探して、と頼んでいた。でも、だれも取り合ってくれなかった。子供が子供みたいなことを言ったって、あまりおかしくないよね」
マリちゃんは残念そうにした。
「だから大人に取り憑く練習をしたん。何年も、何年も、ね。取り憑いても体から吐きだされることが多かった。大人の魂は思ったよりも汚れていた。だから、憑いているこっちが気分わるくなった。一時間も憑いていればいいほうだった。 けれど何度も繰り返しているうちに、慣れてしまったよ。いまでは長いこと取り憑いていられる」
あいだに鼻で笑いを軽く飛ばす。
「昨日まで普通にしていた大人が、急に子供みたいになってもどらなければ、やっぱりまわりの人間は慌てるんよ。あんたみたいにね」
そう言って篠田さんをアゴで指す。
「なんで誠子に……。ほかのだれかにしてくれよ!」
篠田さんの心の悲鳴が漏れる。
「いやだよ? だって、このお姉さん憑きやすいんだもん」
マリちゃんは目尻を溶かして、不気味に微笑む。
「なぁ、なんだって成仏しねぇで、この世界に留まっているんだ?」
上田さんの疑問はもっともだ。
マリちゃんは顔を沈めて遠い目をした。
「……うちは、おっかぁに殺された。うちはマキ——妹よりもできがわるかったから。勉強ができなかったから。生まれつき膝が弱くて、走るのも遅かったから。口減らしのために殺されたん。殺されるときは苦しかった。おっかぁに頭を強くおさえられて、川の水をいっぱい飲んだ。肺がごぼごぼ鳴っていた。暴れたら余計に苦しくなった」
光景を想像するだけで、喉が詰まる感じがする。
「鼻のなかだけじゃなくて、頭のなかが水でいっぱいになったら楽になった。気づいたときには、おっかぁに頭をおさえられているうちの格好を、すこし上の、ななめ上のほうから眺めていた。まるで、いじめられている別のだれかを見ているみたいだった。自分のことだってわかるのに、自分が幽霊になったとわかるのに、時間がかかったよ」
淡々とマリちゃんはつづける。
「それでね、あんなにお腹が空いていたのに。あんなに頭も痒かったのに。すこし走るだけで膝も震えていたのに……。なにもなくなった」
悲しんでいる風でもない。きのうの天気は雨でした、と語るくらいのテンションだ。最低限の口の動きで、マリちゃんは言葉を流しならべる。
「あの子を止めなければならないん。あの子が成仏せんと、うちも成仏できん。あの子、おっかぁくらいの年代の人を殺して歩いている。なんでかようわからんけれど、一〇年に一回だけね」
ぴくり、と反応したのは上田さんだった。
「最近ではないんだが、一〇年に一度の間隔で謎の怪死事件が、たしかに起きている。警察界隈では有名な話だ。河川敷で適当な石を見つけては、自分の頭を殴って自害する。いままでに八人の犠牲者が正式に確認されているが、その共通点は——」
すべて四〇代前後の女性によるものだ、と上田さんははっきり言った。
「あまりに不可解な死因で、愉快犯や模倣犯が出るかもしれないから、いままで警察は公にしていない。だが、都市伝説を好む一塊には知られている。そういえば、このあいだもネットのニュースになっていたな……」
そのネットニュースなら、わたしも見た。
たしか霊感を自覚したその朝に。
「警察の情報隠蔽力など、たかが知れているわけだ」師匠が言う。
「まだ都市伝説程度の情報に留まっているんだから、いいほうだぜ……」
答えて、上田さんは腕時計を見た。すこしあせっている様子。
「きょうは六月五日……。なぁマリちゃん? マリちゃん自身が死んでしまった日は覚えているか? つまり……、おっかぁに川で頭をおさえられた日だ」
「うん。忘れんよ。うち、六月の六日に死んだよ。おっかぁがね、六がならぶ日は悪魔がお迎えにくる日だから、って言ってた。川に逃げましょうね、楽になるわよ、って」
なにを思いついたのか、上田さんはそそくさと部屋を出て、だれかに電話をかけた。二分ほど経ってからすぐにもどったが、その顔には、うっすらと汗がにじんでいた。
「待たせた」上田さんは軽く息を切らしながら早口で、「署内に《《歩く資料室》》と言われる男がひとりいるんだが、いまそいつに電話した。河川敷で自害した女性——いちばん最近の事例では、ちょうど一〇年前の六月六日に起きているらしい」
「つまり……」師匠は眉をしかめた。「一〇年おきに例の事件が発生するとみるなら、あした、だれかが河川敷の石で頭を殴って死ぬ。ということか」
「といっても……、だれがどこの河川敷で自害をするかわからないですよね?」
わたしもつい口を挟みたくなった。おかしな高揚感を覚えてしまい、会話に入らずにいられなかった。
自分たちの判断や行動によって、人がひとり死ぬか生きるかという瀬戸際に立っているという現実。これが探偵をしている、という感覚なのだろうか。
次に納得のいかない顔をした師匠が、マリちゃんを見据えてひとつ問うた。
「あす、おまえの妹がだれかを殺すのだとして。おまえが鞠を探す理由はなんだ。その結びつきがわからない。こちらにとっては鞠よりも人命のほうが大切だ」
問われたマリちゃんは顔を伏せて、しばしの沈黙——それからゆっくりと視線を上げるも、見つめるのやはりカーペット。その焦点もまったく合っていない。
「忘れてほしいん。マキはきっとうちのためにおっかぁを殺した。そのときの恨みとか、悲しさとか。そういうものを忘れるために、もう一度うちと、あの鞠で遊んで……。それで忘れてほしいん」
事態を把握したのか、師匠はすべてを呑みこんだ顔をした。あごに指を当てて、なにかに納得している。
「それが成仏への鍵か……」
すると篠田さんが前のめりになって、口を開いた。
「ぼくも一緒に行きます……。妻が心配で、家で待ってなんかいられません」
「だめだ」師匠が言った。「あんたみたいに心霊現象で気が弱っているやつがいると足手まといだ。下手に悪霊に憑依でもされたら面倒が増える。捜査の手伝いをしたいと思うなら、ここでじっとしていろ。こちらにとってはそれがいちばん助かる」
篠田さんはすぐに納得しなかった。こつこつと時計の針音が聞こえるくらいの間が数秒流れた。
「ほんとうに、妻を任せて大丈夫でしょうか……」
「おれなんかは物理的にしか守れないけどよ……。もしなにか襲ってきても、そいつが《《触れるもの》》だったら、なんとかするぜ。これでも腕っぷしは自信あるからな」
上田さんは袖をまくった。体毛がやたらと目についた。
「心霊に関することなら、もちろんおれが対処する」師匠が言った。「どうにか理解してくれないか。あんたがいると困るんだ。あんたのためにも待っていてくれないか」
ぐっ、と篠田さんが奥歯を噛んだのがわかった。
「——わかりました。幽霊が妻の体から離れてくれると約束してくれるなら、ぼくは我慢します。ただ、お願いだから、誠子が元通りにならない、なんてことはないように……。ただそれだけは……。それだけはどうかお願いします」




