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闇口そぼろと幽々しき奇録  作者: 燈海 空
なにこれ、おかしいよ
3/34

ー3ー

なにこれ、おかしいよ


「過去には遺族が世間をさわがせたケースもあった。記者会見で、故人の夫が必死に訴えた。動悸がなにも思い当たらない、自殺なわけがない、だれかに殺された、絶対に犯人がいる——」


 それでも警察はただの自殺として処理してきた。

 頑固としてその結論を変えなかった。

 いや、あまりにも他殺の証拠が不十分だったから、変えられなかったのか。


「一〇年に一度……。まぁ、住んでるところで起きたとしても、あんまり関係ないか。記者会見があったのも、わたしが生まれる前だし……」


 トイレの水が流れる音とともにスマホの側面ボタンを押して画面をオフにする。手を洗い、濡れた手をタオルで拭いたころには画面に表示されていたものも、すっかり忘れていた。



 ・…………………………・

【もっとも最近の殺人現場にて】



 昇りきらぬ朝日は青白く、穏やかな川面に光を焚べている。パジャマ姿の中年女性の肌は、今朝も乾燥していた。顔から粉を吹いているのではないかと、彼女はいつも気にしている。


 サンダルも履かず、素足のままコンクリートを歩いたから親指の爪が欠けてしまった。普段ならささいな赤切れでも骨折したみたいに大さわぎする。それほどに神経質な彼女だ。が、ケガを気にする様子はない。


 顔はまっしろ。

 肌の色はもとより、感情が消えてしまっている。

 魂が抜けたように歩く彼女の両腕はひどく脱力している。

 骨そのものがまるごと、ひっこ抜かれたみたいに。


 鳥のさえずりが鳴いたほうへ顔を向けると、穏やかな川が見えた。岸辺は砂利だらけで、裸足で歩くには辛そうだ。爪が欠けるよりひどいケガをしても文句は言えない。靴を履かなかったのがわるいのだ。


 力の抜けた全身で土手の坂を降りたのは明らかな失敗だった。数メートルむこうにある階段は粗いコンクリートだが、そっちを一歩ずつ確実に降りたほうがマシだった。


 すくなくとも、舞台俳優さながらに全身を強打しながら転げ落ちる、という事態にはならなかったはず。


 肩の脱臼、左腕の関節の損傷、砂利に投げだされた瞬間に負った頬の裂傷、

 いつそうなったのかわからない右手の突き指、脇腹の痛みと、内臓の違和感。


 ——それら種々のケガなどどうでもよかった。


「あなたはきょう死ぬの。おめでとう」


 彼女は自分に言った。

 あるいは自分が乗っ取り、操っている他人に対して言った。


 使える関節と筋肉をどうにか動かして、彼女は起きた。そぞろ、そぞろと歩いて、適当な、手のひらくらいの石を見つけて拾う。


 また小鳥が鳴いた。

 今度はうるさいと思った。

 これから大事な《《作業に入る》》のに、静かにしてほしいと《《彼女》》は思った。


 角ばったところがない、丸みを帯びた石ころでも人を殺すには十分だ。何度も何度も頭のおなじ部分を叩けばいずれ息が止まる。叩けば叩くほど心臓が速くなって肺も暴走するが、束の間のことだと《《彼女》》は知っていた。何度かおなじ経験をしていて、それによって得られる快楽を覚えているから。


 額から流れる血液で視界の半分が赤く濡れる。

 ばたり、と自分《あるいは他人》が倒れる音がした。

 《《彼女》》は傍観した。

 自分が殺した者を、ななめ上の宙から見た。

 実体のうすい足は地面から三〇センチは浮いている。


 ふたたび小鳥が鳴いた。

 今度は激しい鳴き声だった。

 朝日の色合いが変わり、遺体がはっきりと照らされた。


 安物の洗濯機に捻られたように関節が折れ曲がっているその姿。死因は頭部の連続殴打であることは明確だ。


 遺体となった彼女以外の人間が、そこにいた形跡などない。

 どこを見ても。調べても。

 彼女が自害したという事実以外に考えられることはない。

 超常的な現象が起きたわけでもないかぎりは——


 ・……………………・



 玄関に積まれていた資源ごみを両手に持って外に出た。梅雨の時期らしい、湿った空気が肌に触れた。肌の乾燥とは程遠いこの時期の気候は好きだ。けれど冬に向かっていく時期は、あまり好きではない。雪が積もると除雪が面倒で仕方ないから、単純にそれが原因だ。


 冬はとくに母子家庭の大変さを痛感する。男のひとりでも家にいてくれたら、と思わない冬はない。


 ゴミを出すまでは、けっきょくだれにも会わなかった。収集庫の蓋を閉めて手ぶらになった開放感を味わう。まだ登校時間までは余裕がある。このまま近所を散歩してもいいくらいだ。パジャマ姿のいまは、さすがに帰るしかないけれど。


「最近、運動不足かなぁ」


 曇った空に向かって、両手を思いきり伸ばした。

 目を閉じて深呼吸。

 全身の空気が入れ替わった感覚が心地よい。


 ふと、今朝の夢を思い出した。

 鞠をほしがる少女。

 少女を連れて帰ろうとする母親。

 足元に置かれた鞄のなかに入っていたものは、血塗れの女の頭部。


 ——見るも無惨な光景を思い出してしまった。ふう、と息をついて動悸を落ち着かせる。


「母親を殺したくなるって、どんな感覚なんだろう……。ありえない。断じて想像できないわ……」


 雑念を振り払うように、わたしは踵を返した。家路を急ぐ。が、人影がひとつ、視界に入ったことでふたたび心臓が急ぎはじめた。


 見通しのよい田舎道。奥からだれか歩いてくる。中年の女性だ。

 こちらに迂回する道はない。車道の幅も狭い。


 すれちがうときに無視できそうにもない。

 これは、ごあいさつ必須案件だ。


「うう、めんどくさ……」


 ——ちょっとあんた着替えもしないで。ご近所さんに会ったらどうするのよ——


 母の声が脳裏に再生される。この際仕方ない。すれちがったら、ちゃんと頭を下げよう。ああもう、ほんとうに嫌だ。別の道があったら逃げたいくらいだ。


 何メートルも先から互いの存在に気づいているからこそ、どのタイミングで頭を下げたらいいのか。変に気を遣ってしまう。

 女性が近づいてくる。

 雑念を振り切るように、こちらも歩を進める。

 むこうは手ぶらで歩いているから、きっとゴミ出しに来たわけではない。

 ただの散歩だろうか。


 ——いよいよすれちがう、というところ……。


「おはようございます……」


 言えたぞ、ちゃんと頭も下げた。これは自分を褒めたい。黙ってすれちがいたい気持ちを押し殺して、声をだせたのだから。


 ——無視された。

 そのまま女性とすれちがった。


「もう……、わたしより歳上なんだからあいさつくらい返してよ……」


 つい小声で愚痴ってしまった。

 朝から気分がわるい。

 心臓の早鐘に合わせるように歩調も速くなる。


「《《あらごめんなさいね》》」


 女性の声が耳元すぐのところで聞こえた。互いの体が重なっているんじゃないかってくらい近くで聞こえた。びくりと肩が震えてしまい、わたしは短い悲鳴をあげた。血相を変えて振り返るも、だれもいない。歩いているはずの女性は見当たらない。


「うそ……、なんで……?」


 女性が道を外れたとしたら、左の田んぼに入るか、右の雑木林に入るかしかない。けれど、そのどちらも考えられない。この短時間で姿を消そうとすれば、それなりの激しい音——速い足音や草木をかき分ける音——が鳴っているはずだ。田んぼに入ったとしてもぬかるんでいて、うまく歩けるわけがない。


 そもそも耳元で聞こえた声からして、声の主はすぐ近くに立っていた。


「なんで……?」


 ばかの一つ覚えみたいに、おなじ言葉しか出てこない。それくらいに思考が凍り固まっていた。今朝方に見た夢のなかで感じたような、乾いた空気が一瞬だけ肌に触れた——気がした。


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