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ここはどこ、あなたはだれよ
「わたしを探偵事務所で雇えないか、と?」
「そうだ。雇わないまでも、面倒を見てくれねぇかって。——だがよ。それをこっちから懇願する前に、あいつから言ってきたんだ。そりゃあもう断られること必然だと思ってたぜ」
上田さんは胸を撫で下ろす声で言う。
「あいつが、どうしてそぼろちゃんを雇う気になったのか、よくわからねぇ。ただ言えるのは……、あいつはああ見えて純情で、熱血で、ほんとうは人の笑顔が大好きなやつなんだ」
つまり路傍で困っている子犬を放っておけない人だ、ということだろうか。
そうこう話しているうちに、師匠がトイレから出てきた。ガラス越しにこちらを見て、ムッとした顔だ。まるで動物園で飼われている蛇みたいに、こちらを睨んでいる。
「おっと、話しこんじまったな」上田さんはドアノブに手をかけて、「先払い報酬のプロテインバーはどこだ、なにをしている、と言われる前に買い物を済ませちまおうぜ」
そそくさと降車する上田さんにつづいて、わたしも車を降りた。国道沿いのどんよりとした空気が肺に満ちる。排気ガスのにおいがないだけで、あの竹林とは雲泥の差があると実感した。人がせかせかと移動せんがために、汚い空気が地球に溜まって、それはけっきょく人間の肺に溜まる——。
いまは肺に溜まっているだけだからいい。が、目に見える障りになったとき、人はどうするのだろう。科学のことはよくわからないけれど、科学では《《すべて》》を証明できない。まだ、できない。
わたしや師匠が、コンビニ店員の真後ろに顔の半分が潰れた男が立っていると言っても、どうせだれも信じやしない。
なんとなく炭酸が飲みたくなった。けれど、車内でげっぷするのが嫌だったので麦茶にした。上田さんの奢りによる買いものを済ませて、コンビニの外に出る。
ふと歩道の縁石の近くに、朽ちた花瓶が置いてあるのに気づいた。交通事故を弔った花瓶ということは、すぐにわかった。たぶんその被害者は、いまレジに立っている全身半透明の男だ。こちらを見て、花瓶を指差し、なにが面白いのか知らないけれど、ニタニタと不気味に微笑んでいる。
こちらの世界にようこそ——
たしかに、いままとはちがう日常を過ごすことになりそうだけど。わたしはまだ、死んじゃいない。死後が見えるようになっただけだ。
「あのね、きょうはね、まち子ちゃんとコマで遊んだの。そうしたらむかいのきよしくんがアイスキャンデー売りが来たぞぉって大さわぎしながら走ってきたの」
「うん、そうだね」
篠田さんがあいずちをうつ。
その表情は憂いに満ちている。
自分の娘を眺めるような目だ。
「ねぇおっとう? いとうひろふみって偉い人?」
「そうだね。偉い人だよ」
「あのね、学校の先生が言ってたんよ。今度いとうひろふみさんのこくそうをやるから、みんなで校庭で黙祷するんだって」
そうだね、そうなんだ、と篠田さんはひたすらうなずくばかり。二〇畳ほどのリビングの一角には、コマや幾何学模様の鞠、けん玉やブリキのおもちゃが散乱している。
篠田さんの奥さん——誠子さんにとっては、この散乱具合が心地よいのだろう。女の子座りをする彼女は、散らかったおもちゃたちに囲まれている。とても嬉しそうな表情だ。目を閉じてその言動だけを聞いていたなら、五歳ほどの少女がそこにいると思える。
しかし目を開けたなら、そこにいるのは三〇代の女性だ。髪はロングのストレート。髪色は黒と濃い茶色が半々。普段は茶色く染めているが、髪が伸びたせいで二色に分かれてしまったのだろう。プリンになった、と俗にいう。
「コマひとつ、ブリキはふたつ。二丁目の幸子ちゃんにけん玉を貸したから、けん玉ひとつ」
古くささのあるリズムで、誠子さんは歌をくちずさむ。ここまでの演技ができるなら、一般人でいるのがもったいないほどだ。しかし彼女は女優ではない。
「おっとう? そこのひとたちはだあれ?」
ブリキのおもちゃを膝に置いて、誠子さんはたずねる。
「この人たちはね、おっとうのお友達だよ」
篠田さんは、わたしを含めた三人を紹介した。
「おっきい人は、だあれ?」
「お、おれか? おれは上田ってんだ。警官をやってる。あんたは……」
「マリだよ。うちの名前はマリ」
「おう、マリちゃんか」
上田さんはあせりをにじませつつ、しゃがんで視線を合わせた。
「マリちゃんはいくつになったんだ?」
「うち? うちは……」
マリちゃんは片手の指を広げて、大きなパーを作った。もう一方の手でよいしょ、よいしょ、と指を折り、数を数える。見た目は三〇代の女性だから、《《ちゃん》》づけで呼ぶには違和感があるが……。
「えとね……、うちは五つになったよ」
「そ、そうか」上田さんは困った声で答えた。「ずいぶんと、大人らしい五歳だなぁははは……」
そして彼はパッと立ち上がり、こちらを振り向いた、まるでマリちゃんを拒絶するように。
「だめだ」上田さんは二、三歩でこちらにもどってくると、ちいさな声で言った。「どうしても見た目と中身のギャップに慣れねぇ。慣れる気がしねぇ。どうしたらいい。どう接したらいい。なにもわからねぇぞ……っ!」
「そりゃあんたは無感だからな。いろんな意味で」師匠が冷たく返す。
「無感は霊感のことだけだろうがぁ……っ!」
上田さんは大人気なく地団駄を踏んだ。人さまの自宅だから、足音が鳴らない程度の地団駄だったが、やりきれなさは十分に伝わる。
「ねぇおっとう? そこのお姉さんはだあれ?」
きた、今度はわたしの番かっ!
てか、お姉さんって……!
呼ばれたことないぞ生まれてこのかた……。
「お姉さんはね、そぼろちゃんっていうんだよ」篠田さんが答えた。
「そぼろ? ——たまに、おっかあが作ってくれるの。卵と鶏肉が買えたときにだけ。あと、しょうゆとお砂糖が安く買えないと作れないんだって。最後に食べたのは、うちの誕生日だった。でも、あれは鳥の肉じゃなくて、犬の肉だったよ、って、おとなりのばっちゃが言ってた。うち、それはうそだと思うん」
マリちゃんは楽しそうな顔をして、つづける。
「そぼろちゃんは、毎日そぼろが食べられるね。だって、お名前がそぼろだもん。いいなぁ、うちもそぼろが食べたい」
「それくらいなら、きょうにも作ってあげるよ」
「ううん」マリちゃんは首を横に振った。「おっかあ、このごろ機嫌がわるいん。だから卵も鶏肉も、ずっと買ってもらえないよ。おっとうが布団から起きても、機嫌のわるいおっかあとはお話しができないんよ」
すると、今度は師匠がマリちゃんに近づいた。上田さんを肩でどかすような勢いがあった。事態が大きく動く気配がした。
「おまえはだれに殺された?」
コンビニでたむろする不良のようにしゃがみながら、師匠はいきなりの直球を投げた。マリちゃんはおもちゃをかまう手をぴたりと止めた。凍ったような眼球は、カーペットの一点を見つめてまばたきをしない。
「うち死んどらんよ」
「そうだな。死んではいない。魂はな。だか肉体は死んでいる。死んでいるから、まったく知らない他人の体を借りて話しているんだろう?」
「そうなん? うちは、ちがうの?」
すると師匠はインバネコートの胸ポケットから真四角の手鏡を取りだした。折りたためる、コンパクトなものだ。蓋を開き、包帯を巻いた右手で鏡を持って、マリちゃんに突きつけた。
「これはおまえか?」
「うち……」
マリちゃんは鏡をじっと見つめた。その表情は次第に歪んでいく。現実を受け入れられない、という顔に変化していく。
「これはうちじゃない。うちじゃないのに、うちがしゃべってる、どうして、どうして、どうして!」
頭を抱えて、髪を掻きむしり、大声で叫び錯乱するマリちゃんを篠田さんがとっさにおさえた。金切りの悲鳴がひたすらに耳を突く。どうしたらいいのか、こちらまで混乱を禁じ得ない。
「お、おいじゅういち、なにやってんだよ!」焦った上田さんが声をあげる。
「誠子! 落ち着いて大丈夫だから!」
篠田さんは奥さんの背中をさすった。
「鏡で自分のすがたを見せるのは霊媒の初歩だ」師匠は冷静に言う。そして語調を強めていく。「その体に憑いた理由を思い出せ! おまえはなんだ! 真実を話せ!」
これじゃまるでホラー映画の除霊シーンみたいだ。これで聖水か十字架でもあれば完璧だろう。これが心霊の現場、というやつなのか。
「おまえには心残りがある、だから成仏できない、想い残したことはなんだ! やり残したこと、探しているもの、伝えられなかった言葉、おまえをこの世に縛りつけているものはなんだ! ——言え!」




