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ここはどこ、あなたはだれよ
「あら、冬夜起きたのぉ?」シラツユさんは艶やかな声で、「まだ休んでいてもよかったのにぃ」
テーブルの脚を螺旋のように動いて、シラツユさんは床へ降りた。そしてなにを思ったか、ぬるりとヘビから人間の姿へ変身した。目の前に全裸の女性が現れた。なめらかで品のよい肌が白く輝く。桃のような尻がぷるんと揺れる。
「おおう!」上田さんは両手で目を覆った。「急に人間にもどらないでくれ! 目のやり場に困る!」
「いいじゃないのぉ、さっきまであたしの裸を見てたじゃない」
「それはヘビの全裸だろう!」
「まったくもぅ、人間の考えることは理解できないわぁ」
シラツユさんはモデルのように歩いて、床に落ちているキャミソールとエプロンを拾った。それらを身にまとったところで、肌の露出が多いことには変わりないわけだが。
「生き物なんて、本来服なんかいらないのよぉ。——人間だけよ? 服なんてものを着ているのは」
それは、たしかにそうだが。
「お腹空いてない?」シラツユさんが、キッチンカウンターにいる一十冬夜に声をかけた。
「早すぎる来客のせいで食欲はない」
一十冬夜は水切りラックに手を伸ばして、客が使ったグラスを掴んだ。やたら不機嫌そうで、顔は《《ぶすっと》》している。早すぎる来客とは、おそらくわたしのことだ。
「そのグラス、洗ったばっかりでまだ濡れてるでしょう? 新しいのにしたら?」とシラツユさんが気にかける。
「なんだっていい」
適当に答えながら、一十冬夜は水道の蛇口をひねった。あたかも雑な手つきでコップに水を溜める。それを一気に飲み干す。喉が波打つのが見えた。黒のタンクトップに、灰色のジャージは部屋着だろう。肩や二の腕の筋肉は逞しく、無駄がない。体脂肪率の低そうな体つきに見える。
そして彼は、こちらをぎろりと睨んだ。
「くるのが予想よりも早かったな」一語一句に圧のある声だ。
「はぅい」圧に負けて、変な声を出してしまった。肩もびくりと震えていたと思う。「あ、えと……」
「おいじゅういち」上田さんが割って入る。「女の子なんだから優しくしてやれって」
「有感に女も子供もない」一十冬夜は空のグラスを流し台に置いて、「おまえ、いつからだ」
「え……」わたしは戸惑った。「霊感があると自覚したのは、いつから……、ということでしょうか」
「それ以外になにがある」
相変わらず口調にトゲがある。
緊張が増して、心臓が速くなった。
「えと……」わたしは指を折って日にちをたどった。「おととい……、くらいから?」
「霊がはっきりと見えるようになったのが、おとといからだとしても。それ以前に霊感に関係する現象に遭遇していたはずだ。なにか心当たりがあるだろう」
「心当たり……」
「ポルターガイスト、不可解なラップ音、家電の異常、幽体離脱——霊感に関係する現象は、《《見える》》こと以外にも様々だ」
彼がならべた単語のなかで、ひとつだけひっかかるものがあった。わたしは顔を持ち上げて、その記憶がまちがっていないかを自問自答した。答えはすぐに出るとわかっていたけれど——
「幽体離脱……」
「自覚があるのか?」一十冬夜の瞳孔が開いた。
「たまに、ですけど……。自分のことがやけに客観的に見えるときがあるんです。視点はだいたい決まっていて……。自分の頭上、ななめうしろのあたりから、自分の姿をぼーっと眺めているんです」
「そいつぁ、あれか?」
上田さんが前のめりになった。
「その場にほかの人間がいても、か?」
「つい最近は、女友達と部屋で遊んでいたときもなりました……。ただの白昼夢だろうな、と思って、自分のなかでは片付けていたんですが……」
すると一十冬夜は、ほらみたか、という顔でひと呼吸。
「だれかの遺体を目撃したとか、親しい家族の葬式で精神が大きく崩れたとか、自分が死にかけたとか。その手のショックに起因して、霊感は突然覚醒する。生まれつき覚醒しているのでなければな。——最近そういった経験はあったか?」
「いえ……。最近は、そこまでのことはないです」
「最後に経験した葬式は? 死体を見た回数はどれくらいだ」
「おい」上田さんがたまらず声をあげた。「質問にも限度ってもんがあるだろう。死に目の話は慎重に踏みこむべき話題だろうに、おまえなぁ……」
「そうか」一十冬夜はあっけらかんと、「ならこの件はおれに関係ない。この女が霊感を扱えなくても構わない。闇口の末っ子がどうなろうが知ったこっちゃない」
「だぁっ……!」上田さんは顔をひきつらせた。「おまえはなんでもそう、淡々と極端によぉ……!」
「とうやぁ」シラツユさんもさすがにあきれて、「今回ばかりは失礼よ? そぼろちゃんに謝って」
「なぜだ?」
当人に申し訳ないという感情は、みじんもなさそうだ。
「医者は患者の病状をたずねるだろう。体のどこが痛い? いつから痛い? 熱はあるか、呼吸は苦しくないか、家族にもおなじ症状のやつはいるか——。それとおなじだ。霊感について教授するには、そいつが関与した《《死》》についてたずねる必要がある。こっちはいたって真剣だ。こいつだって、いままでに人を殺しているかもしれないだろう。それが霊感発症の起因になっていたらどうする」
「理屈はわかるがよ」上田さんは苦い顔で、「最後の心配は明らかに余計だ。いままでまじめに生きてきた女子高生が、実は人殺しだったかもなんて、言うだけ失礼だぜ。その邪推をしただけでも謝る必要があるな」
「とうやぁ……」
シラツユさんの口調が変わった。
どこか怨霊のような陰湿さがあった。
この声で、一枚、二枚、とお皿を数えられたら、さぞ背筋が凍るだろう。
「そぼろちゃんに謝りなさい。じゃないとぉ……」
首から下は人間のままなのに、シラツユさんの頭が真っ白なヘビに変化していく。それも、さっきのヘビ姿とは比べ物にならない、大きなサイズへと。ヘビ頭のシラツユさんは、人間を丸ごと飲みこんでしまいそうなほどの大口を開けて、先割れの舌を一十冬夜に伸ばした。二股の舌先が、彼の両目をいまにもくりぬきそうだ。
「食べちゃうわよ? もちろん、そのままの意味よ」
「——すまん」
一十冬夜は一瞬にして首を垂れた。
にわかに寝癖が残る彼の頭頂部が丸見えになった。
「少々、たずね方をまちがえたようだ」
「わかればいいのよ。わかれば」
シラツユさんは頭を人間の姿にもどし、うふふ……、と不敵な笑みを浮かべた。上田さんは、おおぅ、と唸る。そのちいさな唸り声には、筆舌に尽くしがたい恐怖心がたっぷりと含まれていた。
——なんだかんだとわたしが話す隙もなかったが、場の空気はどうにか落ちついてきた。
正直なところ、わたし自身は一十冬夜に憤りを感じていない。ずかずかと他人の傷心を抉っている感は、たしかにあるけれど。はっきりと抉ってもらったほうがむしろ心地がよかった。
下手に濁して、遠まわしに過去を探られるよりは、そのほうがいい。
「わたしが最後に参列した葬儀は、実父のものです。小学校三年生のときでした」
「幽体離脱を自覚したのはいつからだ?」一十冬夜が言った。
「すくなくとも、小学五年のころには……」
「そのころ、おかしな人間を見た記憶はないか? 水面の上に立っているとか。足が半透明になっているとか。うつろに立ち尽くしながら、片手で手招きしているやつとか」
残念ながら、その類を見た記憶はない。
「さすがに、それくらいの霊を見たら忘れないと思います」
だろうな、と一十冬夜は相槌をうち——次に上田さんを見た。
「上田」
「おう?」
「改めて訊くが、白夜とこいつはすでに会っているんだよな?」
「おう。会ったもなにも。昨日、白夜が人を殺しかけたところを助けに入ってくれた。それは署でおまえに話したとおりだ」
なにかを確認できた様子で、一十冬夜はうなずいた。
そしてわたしに視線をもどす。
「あいつのそばにいる霊は見えたか?」




