ー11ー
あれよ、あれよ、イケメンよ
つまりこれは幽霊の話題だ。院長は入院費を免除する代わりに、わたしの心霊体験を聞かせてくれ、と言っている。
「あんたなぁ……」いままで黙ってソファに座っていた上田さんが、口を開いた。「憔悴しているであろう患者を自室に呼びこんだと思ったら……。自分の欲を満たすことしか、考えてなかったってのか」
「そんな、めっそうもない」
院長は胸の前で両手のひらを振ってみせた。
「これは由々しき事態であるがゆえに、わたしは知っておかねばならんのです。昨夜そぼろさんが寝泊まりした病室は、いわくつきの心霊部屋でして……」
「はぁ!?」
母と上田さんがおなじタイミングで唸った。ふたりの表情は対抗組織と鉢合わせたヤクザみたいな、おどろおどろしい顔だ。眉間のシワが尋常でない。
「勝手にテレビが点いたり、老人たちの話し声が聞こえたり、まぁいろんなことが起こる部屋なんです」
「そんな部屋に娘を寝かせてたっていうんですか!? わたしも昨夜は娘のそばで寝ていたんですよ! どうりであの部屋、寒いと思った……」
なるほど。母は昨夜、わたしのそばで添い寝をしてくれていたんだ。朝、目が覚めたときには病室にいなかったから、気づかなかった。枕が変わると寝られないという母にとっては、心労の絶えない夜だったろう。
「ほかに部屋が空いてなかったんです」院長は申し訳なさそうに顔を歪めた。「ここのところ、やたらと骨折などのケガ人が多くてねぇ……」
「それならホールか待合室で寝たほうがよかったです!」母が怒鳴った。
「は、はぁ……」
院長はたじたじだ。
「それでは、入院の件はどうしますか?」院長は、営業的な口調に切り替えた。「怪我の具合を考慮して……。もう一日、病室で様子を見たほうがいいかと思うのですが」
「それって、あんたがもう一日分の心霊体験をそぼろちゃんにさせたいってことだろう? そんで、いまみたいに、どんな心霊現象に遭遇したのかをそぼろちゃんにたずねて、ウハウハしたいんだろう?」
上田さんの発言が的を射ていたのか、院長はぎくりとした顔になった。
「めっそうもない……。わたしはただ、患者の容体が心配なだけですよ……」
困った顔の院長。そのそばに立っている婦長の顔は、ドン引きをとおり越している。
「みなさん、どうしてわたしがオカルトマニアだとお思いなんですか?」
院長が言うと、全員の顔がぴたりと固まった。凍った、ともいえる。
「だってよ」上田さんは訝しげに腕を組んで、「あんたの真後ろにある本棚。そこにならんでる本の背表紙を見れば一発じゃねぇか」
——怪奇! 病院で本当にあった心霊事録!
——摩訶不思議! 廃病院にこだまする謎の悲鳴!
——ナースセンターが目撃した、監視カメラの怪映像!
——上半期心霊大特集! 限定付録DVDつき!
などなど心霊現象に関する本や雑誌ばかりがならんでいる。
「あ……」今度は院長の顔も凍った。「しまった」
「いま、しまった、と言いましたよね?」母がすかさず刺した。
「あ、あれはですね……」あきらかに、見られてはいけないものを見られた顔だ。「ええとですね……」
壁の本棚はスライド式のものだった。いつもは医療書がならぶ本棚が前面にあり、それしか見えなかったはず。
しかし院長はミスを犯した。二連スライド式本棚の二列目を隠し忘れた。
つまり一列目の本棚を元の位置にもどし忘れた状態で、わたしたちを部屋に招き入れてしまった。
「そのスライド式本棚、普段は一列目しか見えない状態にしているんだろう?」
問い詰める上田さん。
院長は、うっ、とちいさくうなる。
「だが、闇口という苗字の患者が入院したことで、あんたのオカルトオタクが炸裂した。そぼろちゃんを心霊病室につっこんでいるあいだも、胸がさわいで落ち着かなかった。心霊雑誌を読まずにはいられなかった——そういうこったろ?」
上田さんの口調はもはや、取り調べをする刑事そのものだった。
「院長、昨日家に帰らなかったの、そういうことだったんですね……」婦長がドン引きしたままの顔で、「夜勤のナースたちが不思議がっていたんですよ。院長、普段は仕事あんまりしないのに、きょうにかぎって仕事があるから病院に残る、とか……」
「それよりあんたは、おどろかないのか?」上田さんは、婦長に視線を投げて、「あんな気味のわるい本棚を見たのは、きょうが初めてだろう?」
「まぁ……、そうなんですけどね……」婦長はあきれた様子で、「院長、若いナースに声をかけるんですよ。今度ホラー映画の上映があるんだけど、一緒に行かない? って。ナースのあいだではけっこう問題になってて。——この際だから、言っておきますわ。院長。若い子をホラー映画に誘うのはやめてください」
むぐっ、と院長は変な声を漏らした。
「わかりましたね?」婦長は念を押した。「今度なにかあったら、ナース全員、この病院を辞めますから。実は転勤を受け入れてくれる病院を何件か、おさえてあるんです。理事会にも問題定義します」
「り、理事会だけは……」
震える片手を伸ばして、院長は命乞いをする——。
このやりとりの最中、わたしはだんだんと気分がわるくなっていた。胸焼けがひどく、頭が重い。目の奥がズキンズキンと傷みだし、三半規管が狂った感覚に襲われ、いくら呼吸をしても酸素が足りない。息苦しくてしかたない。高山病になるとこうなのか、と想像するほどの体調だ。
——音を聞いた。ごつん、という鈍い音。
自分のこめかみが、ソファの肘掛けに当たり、脳みそが揺れた。景色が真横になり、まぶたが閉じられるよりも早く、わたしの視界は真っ暗になった。ものすごく遠くのほうで、わたしの名を呼ぶ声が何度も聞こえた。
トラバーチン模様の天井が、目やにのせいで白く濁って見える。またあの病室にもどったらしい。ベッドの上で首を真横に向ける——母がなにかをしているのが見えた。
「お母さん?」
「あ、そぼろ起きたの?」
あまり心配していないのか、淡白な返事に聞こえた。どうやら母は、ボストンバッグに服やなにかを突っこんで、荷造りをしているようだ。
「また……、倒れたの? わたし……」
「そうよ。貧血と極度の肉体疲労だって。あと心労も。昨日の夜からまともなご飯、食べてないでしょう? 倒れたってしかたないわよ」
「院長は……?」
わたしが言うと忙しない母の手が一瞬止まった。
「あの人の話はしないで。もう関係ないんだから」
「関係ない……?」
「この病院から出るわよ」
「そうなの?」
わたしは自分の左腕を見た。ちくり、と痛みを感じたからだ。その原因は点滴の針だった。まだ処置をされているのに、母の様子からして五分後にはここを発つような雰囲気が充満している。
「上田さんは?」
「いま、外で電話してる。わたし、軽に乗って、午後から仕事に行くから。あとのことは全部、上田さんに任せてある。
「あとのこと……?」
この病院から出る、ということは、別の病院に移るのだろうか。それとも自宅療養になるのか。いずれにせよ、きょうは学校に行けそうにない。昨夜からスマホを見ていないが、たぶん、一葉からの連絡通知で待ち受けがいっぱいになっているだろう。
「ねぇ、あとのこと、って……?」
わたしがもう一度問うと、母はバッグに服を突っこむ手をぴたりと止めた。
「一十さんの探偵事務所に行くの。あんたと、上田さんで」
そう言って母は荷造りを再開した。わたしは上体を起こそうとして、腹筋に力を入れたが、まだ体はいうことを聞いてくれなかった。できればこのまま寝ていたいけれど、この病院に留まるのもいい気はしない。ここから離れることには大賛成だ。
「よし、荷造りは終わった……」母はボストンバッグを抱えて、病室の入口まで歩いた。「行く前に、売店でなにか買ってくるけど?」
「あ、うん……」
わたしの返事は上の空だった。なぜなら、入り口のドアに手をかけて立っている母の背後から、ひょこっと白い顔の少年が顔を出して、こちらを覗きこんでいた。まるで電信柱に隠れているみたいに。
見た瞬間に幽霊だとわかったから、わたしも多少は成長しているらしい。まったく嬉しくない成長だが。
「どうしたの?」母の声はすこし苛立っていた。
「ううん……。なんでもない」
少年から目を背けるように、わたしは天井を見た。このトラバーチンを見るのも、これで最後になるといいけれど。
「なにか買ってくる?」今度の母の声は優しめだった。
「……炭酸のきつい、きっつい飲み物。お願い」
てっきりパトカーに乗せられるのかと思ったが、わたしが乗ったのは上田さんの自家用車だった。
「この車って、サイレンとかついているんですか?」
運転席に座る上田さんに向かって、わたしは助手席からたずねた。
「いちおう、ついてるぜ。ただ運転してたって、なにがあるかわかんねぇからな。なんだったら、いま鳴らしたっていいぞぉ。サイレンが鳴ってるってだけで、前を走る車がみんな路肩に止まるからよ。そりゃあ気持ちがいいぞぉ」
「いや……、遠慮しておきます」
「おう、そうか」
だはは、と上田さんは明るく笑った。
「腕のほうは痛むか?」
「そうですね……。いまは腕の切り傷よりも、喉のほうが苦しいかな……」
「そうか」
上田さんは顔を曇らせながら、ハンドルをぐわりと回した。車内に流れるレトロな音楽と、静かなエンジン音。それと心地よい横Gが全身を包んできた。
普段、母が運転する——少々乱暴なアクセルワークとハンドルさばきの——古い軽自動車しか乗らないわたしにとっては、この車内は特別な空間だ。車種と運転手がちがうだけで、こんなにも乗り心地が変わるものなのか。
「おれなんてぇのは、まったく見えねぇからよ……。あの崖っぷちでおれが見たもんは、そぼろちゃんが自殺しようとしている風景だった」
「自殺だなんて、とんでもない……。わたしは男の幽霊に殺されかけてました」
「ああ……。それ自体は信じてるさ。——崖のほうに背をむけて、苦しそうに喉を両手でおさえて自殺するやつはいない。だがな……、その場にそぼろちゃん以外いなかった以上、こちとら自殺で片付けなけりゃならねぇ」
わたしを殺そうとした男の霊。
それを殴った一十冬夜という人。彼の手に包帯のように巻きついていた、しゃべる白ヘビ……。
そして殴られた男の霊は、緑の炎に焼かれて消えた。
「この仕事をするまで、幽霊の存在なんて気にしたこともなかったけどよ……。じゅういちや白夜と関わるようになって、その存在を信じなくちゃならなくなった。いまだに信じられねぇけどよ」
上田さんは冗談っぽく笑った。
わたしの目には、はっきりと見えている霊が、上田さんにはまったく見えていなかった——それはそれで、こっちにとっても信じられないことだ。
「お母さんも、霊感がなかったんだよな?」
「それについて、ちゃんと話したことはないんですが……。母は霊感ないと思います」
根拠はないが、霊感を持っている母をどうしても想像できない。
「やっぱり今朝、母が警察に行った理由って……」
「一十のひとを呼んでください! と、そればかりだった。たまたまじゅういちが居合わせてくれて、助かったよ」
「母さんは、一十さんのことを知っていたんですか?」
「じゅういちとの直接的な面識はなかった。だが、警察と一十家のはねっかえりが繋がっている、という情報だけは、どうやら知っていたみたいだな」
——なにがともあれ……、一十冬夜に会えば多少の疑問は晴れるだろうと思った。それ以上の質問は呑むことにした。
「のちのち、わかってくることだから先に伝えておく」上田さんは神妙な口調で、「闇口家と、一十家——そのふたつは霊能力一族としてかなり古い家系なんだ。浅かぬ因縁がある」
瞬間、一十冬夜の言葉がフラッシュバックした。
「——闇口の末っ子……」
「じゅういち自身は闇口家のことをよく知っている。だから、そぼろちゃんを闇口家の人間として見ている。多少、乱暴な口調になったりもするだろうが、それはおれが宥めて、辞めさせるからよ……。嫌な気持ちになることもあるだろう」
しかし、しかし、というところ——
「いま頼れるのはあいつしかいねぇ。関係が落ち着くまでは、我慢してほしいんだ……」
霊能力の家系に生まれた実感なんていままでなかった。いきなり古い家どうしの因縁をぶつけられても困るところだが……。どうやら、暴言に耐える心構えが必要らしい。
「母がひとことでも、家系のことを言ってくれたらよかったのに……」
わたしが言うと上田さんはすこし沈黙した。
返す言葉を慎重に選んでいる風だ。
「お母さんはなんらかの理由があって、闇口家と霊感それ自体と距離を置いている——置いていた、というべきか」
「わたしが霊感を発症したせいで……」
母は、闇口家と霊感について、ふたたび考えなくてはならなくなった。
「そんな、病気みたいに言うなって……」上田さんは苦く笑った。「いまは霊感に目覚めたばかりで、戸惑うことが多いだろう。だが、ほとんどの人間が持っていない能力を得たんだ。得ようと思っても得られない、希少な能力だ。そいつぁ、かなり特別なことだぞ」
気づくとわたしは、ため息で返事をしていた。上田さんを不快にさせるつもりはなかったけど……。霊感のおかげで二度ほど死にかけているいまは、どうしても喜べなかった。特別な不幸を得たようにしか思えない。
「あ……」ふと、たずねようと思っていたことを思い出した。「あの崖で、上田さんにも、母にも、男の霊は見えなかった。けれど、しゃべる白ヘビは見えていたんですよね?」
「おう、それは見えるんだよな。というか、あの人は幽霊じゃないからな。正直、《《見えないもの》》よりも、よっぽど不可思議な存在だよ」




