ー10ー
あれよ、あれよ、イケメンよ
墨で描いた古い文字のようだった。すべての包帯が地面に落ちて、白ヘビの抜け殻のような体を見せたかと思ったら、その包帯はほんとうにヘビの姿に変わった。
「あーもう、冬夜、もうすこし優しく殴れないの?」
妖艶な女性の声を、ヘビは発した。
「まぁ、上田さんのイケメン顔が見れたから、よしとするわぁ」
そう言って白ヘビは先の割れた舌をしゅるしゅると出して見せた。
「だぁ、こっちくんなって」
上田さんは顔をひきつらせて、しりもちのまま後ろに退がった、まるで怪物に襲われたみたいに。
「あら、釣れないわねぇ。今度は別の姿になって、あなたを《《襲っても》》いいのよ」
白ヘビは首をくっ、と持ち上げて、ウィンクをした。
上田さんはゾッとした顔になった。
「おい、おまえ」
細身の男が言った。当てられたのは、おそらくわたしだ。
「わ、わたし……、ですか?」いちおう確認する。
「中途半端に霊感を持つからこうなるんだ。次、おなじことが起きたら自分の身は自分で守れ。わかったな」
「まぁまぁ、じゅういち。そぼろちゃんだって突然のことでなにがなんだかわかりゃしねぇって。ちゃんと事務所で説明するなり、してだなぁ……」
「うるさい」細身の男はさえぎって、「無感は黙っていろ」
無感、とは霊感を持っている人の対義語だろう。上田さんは奥歯を噛んで、あからさまに悔しい顔をした。
白いヘビはあきれ顔だ。この問答はいつものことよぉ、と鱗だらけの顔が言っている。母はわたしのそばで、真剣な顔をしている。その視線はすでにわたしから離れている。じゅういちという男をにらんで動かない。
じゅういちは、こちらにガツガツと進んできた。いままで背をむけていたから、その顔はよく見えなかったが、近くで見るとかなりいい顔だった。不意にドキッとした自分におどろいたくらい。
「闇口の末っ子」しかし突き放すような口調は最悪だ。「次、おなじことが起こる前にうちにこい」
インバネコートのポケットから、シワだらけの名刺を取りだして、それをわたしに投げた。そしてじゅういちは、その場から去ろうとする——。なんて冷たい態度なんだ、と文句を投げる隙すらなかった。
「ちょっとぉ、とうや、待ってよぉ」
白ヘビが言いながら彼の後を追った。しゅるしゅるとヘビらしい動きに、 わたしの肝がぞくっと震えた。そもそもあのヘビは、どうしてしゃべれるのか。
二者の姿は森のなかへと消えていった。わたしはあんなに鬱蒼とした木々のなかを歩いていたのか、と改めて確認した瞬間でもあった。普通の感覚だったら立ち入ったりはしないだろう。霊にたぶらかされて、頭が狂っていたのだろうか。かなり冷静さを失っていたらしい。
「そぼろちゃん、無事か?」上田さんがこちらに近づいて、心配そうに言った。「怒り心頭のお母さんが署に駆けつけてきてくれたんだが、そのときちょうど、じゅういちと一緒だったんだ。事情を知ったじゅういちが、いちばんに慌ててな。車をぶっ飛ばしてここに来たんだ。間一髪、間に合ってよかった」
そう言われても、なにがなんだかわからないという現状には変わりない。
「わたしは……、なにを……」
「そぼろ」母が真剣な眼差しをわたしに向ける。「見えているんでしょう?」
これ以上はぐらかすのは無理だ。
自分のためにも、正直に答えるべきだ。
「わたしたぶん、幽霊が見えている……。なんだったら接触もできるみたい……」
母はため息のひとつでもつくかと思った。が、もとより覚悟を決めていたような顔で、じっとわたしを見据えた。
「霊が見えるようになったら、その現実を受け入れて、抗える力を身につけないといけない。じゃないとまた命を弄ばれることになる、今回みたいに——」
「あいつは冷たいが、わるいやつじゃない」上田さんが言った。「お母さんが署に来たのも、じゅういちの居場所を訊くためだったんだ」
「幽霊さわぎが起きていたことを黙っていた警察に対する怒りもありましたけどね」
母はツンとした顔で言った。
「それは、ほんとうにわるいことをした。そぼろちゃんが霊感に目覚めているとは思わなかった。どうしても白夜のほうに気を取られちまうからな……」
ふたりの会話を聞きながら、わたしはさきほど投げつけられた名刺を見た。そこには一十冬夜と書かれていた。一十探偵事務所という文字と、携帯の番号も記載されていた。
「その名刺の主が、白夜の兄貴だ」上田さんが言った。
「上田さんがじゅういち、じゅういち、と呼ぶから混乱するじゃない」母がすこし怒った。
「だな」上田さんは朗らかに笑った。「ああ見えて、あいつはかなり心配しているはずだ。あしたにでも探偵事務所に行ったほうがいい。午前中におれが迎えにいくから、準備して、病室で待っててもらえるか? 外出できるように、病院にはこちらから言っておく」
これは断れる空気ではない。強制的な感はあるが、それくらいに非常事態なのだろう。わたしの命がかかっている、という意味で……。
「わかりました……」
わたしはひどく弱った声で答えた。
そして、男の霊がのたうちまわっていた場所を見た。
わたしを殺そうとした霊が、緑色の炎に焼かれて炭のひとつでも残っているかと思ったが、そこには炭どころか、炎が燃えていた形跡すらない。雑草は朝露を葉先にぶらさげ、地面にはショウリョウバッタが跳ねて、残り火の気配すら感じさせない。梅雨の景観が、ただただ見えるばかりだった。
母と上田さんとともに病院にもどった。玄関ホールに入るや否や、数名の看護婦に取り囲まれた。
あれよあれよとさわがしくなり、ケガはないか、体は無事かと、まるで高価な壺のように扱われた。
全身が土や雑草の汁で汚れている以外はなんの問題もないと判断されると、わたしは熱いタオルを一本渡され、いったん病室にもどった。適当に体を拭いた後に、院長室に案内される流れになった。院長が面会を希望しているらしい。
看護婦長に案内されて、病院の奥へと進んでいく。普段はスタッフ以外は訪れないエリアだ。そこに入るのはとても新鮮な気持ちだった。楽しい時間にも思えた。病院から勝手に居なくなり、裏山の立ち入り禁止区画に侵入してしまったわたしに対して、婦長がぐちぐちと小言を刺してきたこと以外は——。
院長室に入ると、ひとりの老年の男性がいた。威厳のある佇まいで窓際に立っていたが、こちらに気づくとすぐに振り向いて、にこりと笑った。わたしたちがくるのを、いまかいまかと待っていたようだ。
「おお、闇口さん。ご無事でしたか」
院長が腰を低くして言った。
胸元まで伸びている長い髭が三国志のだれかみたいだ。
「すみませんうちの子が。ご迷惑をおかけしました」
だれよりも早く、母が九〇度の角度でおじぎをした。
「いいんですよ。こちらの不備もありました。大切な患者さんを、立ち入り禁止区画に入れてしまったのは、こちらの責任でもあります。なにより無事でよかった——ささ、そこのソファにおかけください」
院長の柔らかい手の動きに導かれ、わたしたちはソファに腰をおろした。さっきまで冷たい態度だった婦長は、すぐに別室からお茶を持ってきてくれた。テーブルに湯呑みをならべるときの顔は、まるで天使のようだった。こちらの顔が本来の顔なのか、それとも《《ボス》》の前ではいい顔をしているだけなのか——おそらく後者が正解だと思われる。
「腕のほうは、どうですか?」
院長がわたしの片腕を凝視した。
「あ……。まだ痛みます」わたしは弱々しく答えた。
「そうでしょう。失血で意識が飛ぶほどの傷です。当院で適切な処置はできたので、退院してもいいとは思うのですが……。大事をとって、もう一日、入院なさったほうがいい。なに、入院費用は一日分で構いませんから」
「え、そんな……」母がおどろいた顔で、「だめですよ。ほかの患者さんに申し訳ありません」
すると院長はニヒルな笑みを浮かべた。なにか企みがありそうだ。
「その代わりと言ってはなんですが……」
院長は長い髭を片手で握った。逆さにしたトウモロコシの髭のようなそれを、愛でるように撫ではじめた。なんともいやらしい手つきだ。
「そぼろさんが見たもの、体験した事象の内容を、どうかお教え願えませんでしょうか?」




