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闇口そぼろと幽々しき奇録  作者: 燈海 空
あれよ、 あれよ、 イケメンよ
19/44

ー9ー

あれよ、あれよ、イケメンよ


「じゃあ、すぐにもどってきます……」


 言い残してわたしは走った。かなり慌ただしい感じだったろうけれど、看護婦の反応を気にしている場合ではない。


「廊下はゆっくり歩いてね!」


 投げられた看護婦の声が背中に届いたが、わたしは気にもとめず、とにかく父を追って走った。


 角を曲がった先の廊下は人が多くて、父のすがたは確認できない。ずいぶんと長い廊下を慌てながら走るわたしの姿は、さぞ《《浮いていた》》だろう。内科や耳鼻科の待合で暇をしている患者にとっては、ちょっとした余興になったはずだ。


 廊下を抜けるとホールにたどり着いた。

 正面玄関を出ていく父の背中を確認した。


 慌てるように玄関の自動ドアをくぐった。外に出て、ここがどこの病院なのかわかった。小高い山に建てられた、わりと新しい病院だ。完成したのは三年ほど前だったか。


 父は道のないほうへ向かっていく。駐車場から、木々がならぶ山道へ。わたしはあとを追って土と砂利の道に踏み入った。


 さらに奥へと進んでいくと、立ち入り禁止の看板が貼りつけられた金網フェンスが立ちはだかった。どういうわけか、父はフェンスのむこう側にいる。相変わらず手招きをして微笑んでいる。か


「そぼろ。おいで」


 父は声を発した。


「お父さん……?」


 違和感ばかりが全身を撫でる。鳥肌が両腕の皮膚に走った。このまま父を追っていいのか?


 父は踵を返した。その背中が見えたのと同時に、片開きの金網ドアが開いた。ちょうど立ち入り禁止の看板が貼られていた部分だ。


「そぼろ。こないのかい。お父さん、ひとりは寂しいよ」


 まわりの環境音がこもって聞こえる。父の声だけがひどく澄み切った音で、耳に届いた。気づくとわたしはフェンスを抜けていた。耳鳴りがする。


 それからしばらく獣道らしい路を進んだ。低木の枝葉が足に当たって、ちくちくと痛みを感じたけれど、これほどに気にもしない自分もめずらしい。


 澄んだ冷たい風が顔面に当たると同時に、太陽の光を感じた。見上げた空には雲のひとつもない。顔にぶつかる風には力があった。爽快で、浴びる空気のすべてが心地よかった。脳が冴えて、目の奥が楽になって、脈が落ち着いていくのがわかった。


「やっと。仲間になってくれるのかな」


 父の声が真後ろから聞こえた。暖かい声だ。しかしなぜか、躰がびくりと動かなくなった。金縛りにでもあったのか? こんなに意識ははっきりしているのに。それと——背中にひどい寒気。


「仲間……? 家族でしょう?」

「ひとりは寂しいんだよ。おまえもよく知っているだろう?」


 おまえ……?

 父は、わたしのことをおまえとは言わない。

 そぼろ、そぼろ、とかならず名前を呼んでくれていた。


「この病院で死んでから。ずっとひとりだったんだ。霊感のない人間ばっかりだったから。霊安室に行って友達を作ろうとしたけれど、みんなすぐに成仏しちまうんだ。仏さんみたいな顔をしてさぁ。話しかける隙すらなかった」


 この病院で死んだ……? そんなはずはない。父が死んだあとに建てられた病院で、どうして父が死ぬのだろう。そもそもなぜいま、父と話していられる? もうこの世にいないのだと、あれほど実感したはずだ。枯れて枯れても足りないくらいに涙を流したはずなのに。


「ナースセンターの監視カメラに写ろうと努力をしたこともあった。けれど、ただの白い光の塊にしか見えなかったみたいだ。おれはこんなに寂しいのに。ああ、寂しい。寂しい。せめてひとりでも道連れにできれば、気が晴れるのかなぁ。仲間が増えれば、寂しくないのかなぁ」


 なんてことだろう。

 この期に及んで、わたしは霊に騙されていると気づいた。


「あんたが寝ているあいだに、あんたの記憶をぜーんぶ見させてもらった。幽霊が長くなるとなぁ。いろんなことができるようになるんだ。生きている人間の記憶をまさぐることも、自分の姿をまあったく別の人間に変えることもできるようになった。ただひとつ、残念なのがなぁ」



    だぁれも、気づいてくれないんだぁ



 それはすでに父の声ではなかった。聞いたことがない声だった。血に濡れた喉から痛みをかき混ぜて発せられているようなひどく歪んだ声。


 急に躰が動かせるようになって、わたしは振り返った。まったく知らない男が目の前に立っていた。頭の片側が陥没している男、その顔は半分が真っ黒に濡れていて、それが血のせいだと理解するのに一秒もいらなかった。


 悲鳴をあげようとした。が、男の両手がわたしの喉をがしりと掴んだ。親指を強く食いこませてくる。気道が一気に塞がった。息も、声も、食道を逆流してきた胃酸もすべて堰き止められた。


 そのまま男は一歩ずつ前進してきた。

 こちらの抵抗を無視して、無理やりに歩を進めた。


 そしてわたしの踵——片方の踵が後方にずるりと滑ったとき、ここが崖の淵であることがわかった。


「おれはさぁ。ここから落ちたんだよぉ。末期のガンになっちまってさぁ。まだ二十代後半なのに、人生これからってときに、ひどい話だろう? 医者はすごく冷淡に告げたんだよ。ガンです、まぁ、がんばって——そんなにあっけなく言われたらさぁ、落胆してしまうよなぁ」


 だからって、わたしを殺してなんになる。


「幽霊になってからいちばんに困ったことがあるんだぁ」男の霊は話をやめない。「それはだれもおれに気づいてくれないってことさぁ。だけど、あんたはおれに気づいてくれた。せっかくだからあんたの死んだ親父の姿を真似してよかったよぉ。じゃなきゃ、ここまで一緒にきてはくれないよなぁ」


 そして、男はさらに足を進める。わたしの片足が半分浮いた。あと一歩、男が進めば、わたしは崖から落ちることになる。


「さぁ。ああ。よかった。これでひとりじゃなくなる」


 この男は、さっきからまばたきを一回もしていない。口角は何度か持ち上げているけれど、目は点のように固まったままだ。


 ぐっ、と喉を握る手に力がこめられた。ここが崖の淵だという事実以前に、酸欠で意識が遠くなりそうだ。


「かっ……、ぁ、さん」


 どうにか発した言葉がこれだ。人生最期の言葉が、こんなにもかすれた弱々しいものであるなんて、想像もしていなかった。こんなやつに殺されるなんて、想像もしていなかった。霊は人に触れることができる、という新たな事実だけが、ゆいいつの死に土産だ。


 気が遠くなる。

 後頭部を風が撫でる。

 空は曇りはじめ、太陽の熱が意味を失う。

 背筋が冷えていく。

 きっといまのわたしは白目を剥いていて、他人には見せられないひどい顔だ。


「上田! あいつを掴め! こっちに引き寄せろ!」

「お、おう!」


 別の男の声がした。

 ふたりの男だ、

 三人分の駆け足の音も聞こえる。

 喉に食いこむ指の力がすこし緩んだ。

 男の霊はうしろを気にした。


「そぼろ! ああっ!」


 いまのは母さんの声だ


「大丈夫、おれはだれにも見えない」


 わたしの首を絞めながら男の霊は平然としている。しかし駆けつけた男——灰色のインバネコートを着た細身の男は霊に向かって拳を振った。その拳には包帯が巻かれており、一撃は、男の霊の頬に当たった。


 男の霊は右のほうに吹っ飛んだ。三メートルむこうでのたうちまわっている。全身が緑色の炎に焼かれ、ああ、ああ、と情けない悲鳴を撒き散らす——。


 支えを失ったわたしはよろめいた。崖に落ちてしまいそうになったところに、上田さんの手が伸びた。彼に両手を掴まれて、引っ張られ、間一髪のところで身投げをせずに済んだ。上田さんはしりもちをついて、息を荒くしている。


「ばか、そぼろ、あんた本当に——もうっ!」


 倒れているわたしに駆け寄ってきたのは、母さんだ。すぐに答えようとしたが、嗚咽と咳ばかりでなにも言えない。喉に液体がこみ上げてきた。苦しくなったわたしは四つん這いになって、地面に唾液を垂らした。唇がだらりと脱力して、情けない姿だ。


「こんなことになるなら、もっと早くからお願いしておくべきだった」


 そう言って母さんは、わたしの頭を抱えて、おいおいと泣きだした。いまにも弾け飛びそうな心音がこめかみから伝わってくる。


「なんとかなったな……」上田さんは安堵して、細身の男に視線を投げた。「おい、じゅういち。オバケは退治できたのか」


 じゅういちと呼ばれた細身の男は、右手に巻かれた包帯を解いている最中だった。ぐるぐると包帯が外れて、次第に肌色の拳があらわになっていくと、彼の右手に文字らしきものが見えた。


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