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あれよ、あれよ、イケメンよ
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苔に覆われた灯篭たちが、さびれた境内を照らす。
ぼんやりとした光はまるで朧火のようで。この人里離れた山奥にまちがって足を踏み入れたのなら、人魂の群れに遭遇した気分なれるだろう。
なにせ、ここへくるまでの道は、あまりにうっそうとした森林。街灯のひとつもありゃしない。
人気もないこんな山奥に、だれが面白がって訪れるだろう。いわんや、半ば朽ち果てている築一〇〇年超の小寺院に居をかまえる物好きが、どこにいるだろうか。雨風をしのげるかも怪しい。
堂々島霹靂は布団の上で目を覚ました。長年引きずっている腰痛の原因が、この牡丹柄のせんべい布団であることに、彼は気づいていない。最後に洗濯をしたのはいつか——考えただけで体がかゆくなりそうだ。
「おう、おう、おう……。またさわぎだしておるわ」
眠気を《《祓う》》気もなく、むしゃむしゃと頭を掻きむしる。肩甲骨がまるっと隠れるほどの長髪は、うねりうねりとまがりへたって、櫛の一本も受け入れやしない。まして髪は凝固した血のような色をしている。染めたわけではない、地毛の色だ。他者から見ればなんとも浮世離れした人物だろうか。
ロックなやつ、と青春時代に言われたことはあるが。ロックどころかどんな音楽も聴きはしない。深い森に響く虫の合唱こそが、至上の奏だと彼はいう。
実際、堂々島霹靂は娑婆という日常から逸脱している。せんべい布団の上で目を覚まし、ろうそくの明かりに照らされる原稿用紙にかじりついて、陽が沈んでから昇るまでのあいだ、頭のなかから物語を吐きだす。
ともすれば早朝に担当編集からの電話がくる。耳障りな黒電話を片手で黙らせて、校正など適当にやってくれ、校閲に文句はない、大筋だけは変えてくれるな、といつもどおりに声を聞かせてやる。
あくびとともに受話器を置いたらば、電話線を本体から抜いてしまう。余計に鳴られては睡眠の妨げになるからだ。
しかしこの習慣のせいで、担当編集からの連絡を二、三日受けとれなかった事実はある。うっかり配線をもどし忘れていた。
ともあれ、彼にとって電話というものは、娑婆と繋がらなくてはいけない迷惑な道具にほかならない。
陽が昇り、スズメが鳴くころには、日用品や最低限の食料を宅配便のお兄さんが持ってくる。それが週に一回ある。
ついでのかたちで、堂々島は書いた作品をその配達員にあずけることもある。配達と集荷を同時にやってくれるので、堂々島は助かっている。なぜなら、たったひとりに会うだけで済むからだ。一日にふたり以上の他人に会うことは、彼にとって最悪な事態だ。この世の終わりに等しい。
配達員は徒歩で三〇分の山道を超えてやってくる。そのため単独配達になる。配達業者は大手だが、堂々島宅に行くだけのバイト人員が存在する。通称バイトくん。
堂々島と配達業者との契約により、バイトくんには特別手当が支給される。霹靂手当とも呼ばれている。それにより月給が通常の二倍になるから、往復一時間の山道も気が楽だ。
配達員と慣れたやりとりをして、ありがとうさん、とつぶやく。やたらと角度の整ったおじぎをして去っていくバイトくん背中を見送ってから、堂々島はうすい布団にもどる。そして深夜まで憩いをとる。
きょうも、いつもどおりの夜を迎えたはずだった。しかし寝覚め一発、胸がざわざわとさわいでいることに気づいた。近い未来に、いつもとちがう出来事が近づいていることがほとんどだ。
「うるせぇ、うるせぇなぁ、胸がさわいでうるせぇなぁ……」
起床した堂々島は、赤黒い長髪をぐわりとかき上げて外に出た。湿気をふくんで古くなった引き戸は動きがわるい。途中でひっかかったので、がっ、がっ、と何度か乱暴に力をこめて、やっと開いてくれた。
「蝋を頼まなければいけねぇかぁ、めんどうくせぇなぁ……」
この山奥には、雪が降らないかぎりホタルが毎夜飛んでいる。灯篭の橙色と、緑の粒光がなんとも芸術的だ。
「きゃは、きゃっははは、お目覚め? お目覚め?」
狐の面を被った少女がさわいだ。おかっぱで、紅色の着物を着ているが、その全身は妙に透きとおっている。しかも堂々島の頭のななめ上でぷかぷか自由気ままに浮いている。
「なんだい女狐、いいかげん笑い方を変えやがれ」堂々島は無視するように井戸へ向かう。「毎晩まつりみてぇにさわぎやがって。おめでてぇ、おめでてぇ……」
「いいじゃない、いいじゃない! きゃはは! 楽しいね! 死んでるって最高だよね!」
少女は蝶のように舞いはじめた。ジェットコースターの輪っかを回るようにはしゃいでいる。
「おう、おう、まるで幽霊だな、ひのえ」
「あら、あらら、あたしはもう死んでる、死んでるぅ! きゃはは!」
ひのえはさぞ嬉しそうに、堂々島の周りを飛びまわってやめない。
「ささっと、顔でも洗うかねぇ……」
堂々島は井戸の縄をぐいぐいとひっぱった。
水をたんまりと抱えた桶が井戸底から上がってくる。
石造りの井桁は円形であり、どうにも既視感がある。
「呪ってやる……、呪ってやる……」
女のささやき声。
井桁の淵に真っ白な手が張りつく。
最初は右手、次に左手。
さらには、ゆっくりと人の頭頂部が見えはじめる。
ストレートの長い黒髪。
白いワンピースの女。
普通の感覚であれば、井戸底から這い上がってくる女を見たとたん、大声をあげて逃げだすだろう。それか絶句し、腰を抜かし、動けなくなる。
しかし堂々島は平然としている。桶を地面に置いて、何食わぬ顔をばしゃばしゃと洗いはじめた。
「きょうの水はぬるいなぁ。だれかが浸かっていたか?」
「呪ってやる……。呪ってやる……」
「おうい貞子もどき。井戸で遊ぶのはたいがいにしろぃ。水がぬるくなって仕方ねぇ」
「あんたを……、呪い殺してやる!」
貞子もどきと呼ばれた女は凄んで、堂々島の眼前に片手を突きだした。白木の枝のような手には、びしょびしょに濡れて、なにやら緑の苔がついた小汚い布巾が握られている。しかも、《《ひん剥いたギョロ目による禍々しい熱視線》》のおまけつきだ。
「そんなもんで顔を拭えるかよ。くせぇから捨てろぃ」
堂々島は軽くあしらった。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ」右から老人の声が。「先生、きょうは寝覚めがわるいようですな。顔を洗うなぞ珍しい」
突然現れたその老人は、堂々島に綺麗なタオルを差しだした。仙人のような顔で、左手には杖をついている。服装は江戸時代よりも古そうだ。
「貞子もどきに、子泣き爺もどき。むこうでは女狐がきゃははと喜んで飛びまわってらぁ。これで寝覚めがよけりゃぁ、てぇしたもんだ」
悪態のように言いながら、堂々島は綺麗なタオルを受けとり、顔を拭いた。
「わるいな嘉次郎。昼間、洗濯をしてくれるから助かるぜい」
「ええ、もちろんですとも。先生は夜行性ですから」
嘉次郎と呼ばれた老人は、ふぉ、ふぉ、と穏やかに笑った。
しかし堂々島の顔は、まだ歪んでいる。
「貞子もどき——ミラ。いい加減そのくっせえ布をおれから離してくれ。鼻が腐っちまう」
ミラは悲しそうな目をしてみせた。その瞳は、よくよく確認すると青く透きとおっている。
「なんだいその目は——わあったよ。そこに置いておいてくれ。あとで使ってやらあ。洗ってからな」
「う、うれしい、あり、ありがとう、へきちゃん」
ミラは自分の頭を掴んで、くいっと持ち上げた。どうやら黒髪のストレートは、かつらだったらしい。ほんとうは金髪のショートヘアだ。
虫のように関節を折って気味のわるい四つん這いをしていたが、ミラはすっ、とその場に立つ。とたんに北欧の美少女が現れた。
「日本の幽霊映画が好きで好きで、しまいにはこの井戸で命を落とすなど……、物好きにもほどがありますなぁ」嘉次郎が言った。
「う、うふふ、わたし、だれか呪いたい」ミラが言う。
「こいつぁ、根っからの幽霊気質だい」
堂々島はあっけらかんとしている。
「仕事ができる年齢じゃねぇから、親の目を欺き、空き巣に手を染めて、金貯めて、飛行機に乗って。ネットとやらで見つけたこの山奥の井戸で自害する。まるで人間のするこっちゃねぇさ。おなじ《《物好き》》でも、おれぁここまでじゃねぇさ」
「貞子、好き……」
「わあってるって」
ところで、と堂々島は月を見上げた。
まもなく三日月になろうかという刹那だ。
「嘉次郎。もう一週間もしないうちに客がくる」
「ふぉ、ふぉ、それはどんな客人ですかな」
「ひとりは一十冬夜だ」
「心霊探偵さまですか。ひさしいですな」
「それと……、見たことのねぇおっさんもいるな。どうも刑事っぽい」
「一十さんと同行する刑事さんは、ひとりしかいませんな。上田刑事でしょう」
「だれだ、そいつぁ」
「まぁた忘れておられる」
嘉次郎はあきれた。
「何度も会ったことがありますぞ。なんせ、上田刑事に霊感がないとわかったとたん先生は彼を眼中に入れておりません、文字どおりに。いっつもです」
「おう、おう、おう。そいつぁ、わるいことをしてるなぁ。会ったら謝っておく」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。今度は忘れないであげてくださいまし」
「そうするあぁ」
話しながら、堂々島は桶を井戸のなかにもどした。
「あぁ、のろい! のろい!」
穴底に堕ちていく桶とともに、ミラも落下した。井戸に飛びこむそのさまは、それはもうすごく嬉しそうだった。それを見ていた狐面のひのえは、大笑いをした。腹を抱えて、空中で転げまわっている。
堂々島は濡れたタオルを右手に巻いた。まるで手に大火傷を負い、包帯を巻いているような見た目だ。
あくびを浮かべながら、きょうの執筆するために寺のなかへともどろうとする。嘉次郎がその横を滑るように移動して、ついていく。青白く透きとおった足は、歩くふりをしているだけのようだ。実際には地面から少々浮いていて、歩幅と移動速度が釣り合っていない。
「きょうのペンは捗りそうだ」堂々島は肩をまわす。
「して、先生。客人はそのふたりだけですか? いつもどおり、先生の霊視を頼りにされておるのでしょうか。捜査に行き詰まった、ということですかな」
「まぁ、おおかたそんなところだろうが……」
にごすように言って、堂々島はむずかしい顔をした。
「おお?」嘉次郎がその顔を覗く。「どうされました?」
「今回はどうも、別の客も一緒のようだ」
「別の客……。ほぉ……。珍しいですな。どんなお方で?」
問われると、堂々島はうれしそうな顔をした。楽しみが待っている——そんな顔だ。察した嘉次郎はそれ以上問わなかった。先生の機嫌は、いいに越したことはない。
「嘉次郎。次の配達で頼みたいものがある」
「なんですかな? 注文用紙に書いておきますよ」
「鶏肉だ。鳥の一枚肉。そいつを包丁で叩いて、挽き肉にする。元から挽いてあるやつは、風味が落ちているからなぁ」
「ほう……。であれば冷凍便になりますな。料金が跳ね上がりますが……」
「いいってことよぉ。金など浮世の幻。あってもなくても、人間はどうせ死ぬ。死んでからの時間のほうが長い」
ぼろぼろの寺に入る前に、堂々島は一度夜空を見上げた。完全なる三日月がそこにある。
「あなたほど肉を食わない人が、どうして鶏肉なぞを?」
「おうよ、おうよ。食えるやつか、食えないやつか。先にたしかめておこうと思ってなぁ。なぁに、作るのは大した料理じゃない。だが、まちがえると不味くなる。すぐにしょっぱくもなるし、甘ったるくもなる。泣き虫で、弱っちい人間みてぇによぉ。——だが、それがいい」
こんなに楽しそうな先生を見るのはひさびさだ、と嘉次郎は思った。堂々島は、夜空を見たままつづける。
「肉を挽くときに手を切らないようにしねぇとなぁ。きょうみたいな三日月の夜は、刃物が笑いやがる」
「執筆に使う大事なお手です。ケガだけは、いけませんな」
「もちろんよぉ。簡単な料理ひとつ危うけりゃぁ、通りすがりの悪童に手首を切られるくらい、やるせねぇ」
風が吹いてもいないのに灯籠の火がすべて消えた。
虫の鳴き声が、ほんの一瞬、鳴り止む。
ホタルはさっきよりも多く飛んでいるようだ。
緑色の灯りが集まって幻想を浮かべる。
木々が息を止めて。
ぱき、と枝が一本折れた。
堂々島は右手を持ち上げた。タオルが巻かれているその手は、なんの種や仕掛けがあったのか、突然燃え上がった。
ぼう、と炎音が鳴る。
青い炎が右手を包む。
燃えたタオルは灰塵となって宙を舞う。
堂々島の右手が露わになる。その手は火傷のひとつも負っていない。炎におどろいたのか、近くにいた蛇は慌てて茂みのなかに逃げた。がさがさと音がする。
そのうちに、三日月は雲隠れして見えなくなった。
それを機に、堂々島は夜空を見るのをやめた。
「そぼろ飯ってのはぁ、たまぁに食いたくなるもんだよなぁ。そうだろう? なぁ、嘉次郎」
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