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あれよ、あれよ、イケメンよ
帰りの軽自動車のなかは阿鼻叫喚だった。母さんの説教は全開にした蛇口の水のように流れつづけた。
マシンガントークという表現もあるが、装弾数が百を超えるマシンガンであっても、どこかでリロードを挟むだろう。その点、母さんの説教はリロードがない。喋りながら息づきをしているのではないかと疑うほどだった。
まっすぐに家に帰らなかったところからはじまり、危ない場面に自ら突っこんでいったところを叱られ、警察のお世話になったところはとくに《《どやされ》》た。
こちらに非はなくとも、世間体を気にする母にとっては娘が警察の車に乗ったというだけで大目玉だ。
理由はどうあれ、闇口さんちの娘が警察に連れて行かれたという事実そのものが、母にとっては最悪なこと。
家に着いて、母がトイレに駆けこむまで説教は止まらなかった。彼女がリビングにもどってきたら、ふたたび説教が再開されてしまうので、トイレの流す音が聞こえる前に、わたしはお風呂に入ることにした。いつもより二時間は押している。きょうばかりは湯船にお湯をためる時間はなかった。
濡れた頭をバスタオルで拭きながらリビングにもどると、ソファの上で母が倒れていた。疲れて眠ってしまったのだろう。耳にタコができるほどのお説教を食らっていたわたしにとっては、わるくない状況だった。これ以上のお説教はなさそうだ。
でも……。
母の気疲れを思うと胸が痛んだ。
「ごめんね」
起こしてしまわないように、ちいさな声で謝った。リビングのテレビに映るニュース番組が、夜の九時を過ぎていると伝えてくる。母は疲れるといつも部屋を暗くするので、天井の照明は消えている。テレビが発する朧げな光だけだ。
うす暗いなか、キッチンのほうへ向かう。歩くたび、湿り気のある足の裏が床にひっつく感じがした。麦茶を取りだそうと冷蔵庫を開ける。警察署で緑茶を出されて以来、なにも口にしていなかったので、さすがに喉が乾いた。
冷蔵庫を開けると生肉のにおいが鼻をついた。生臭さの主は、ラップもかかっていない金属製のボウルだった。それにはハンバーグのタネが入っていた。
これから肉塊を小判型に整形して、焼こうかというところで作業を中断したように見える。わたしが警察にいると、母は料理の最中に知ったのだろう。慌てふためく様子が目に浮かんだ。さらに申し訳ない気持ちが満ちた。
もう二度と迷惑はかけまい。そう心に誓いつつ、麦茶のポットを取り出し、適当なグラスを選んで自室にもどった。
そして部屋に入ったとたん。
わたしは気を失った。
「お姉ちゃん、あそぼう」
子供の声がする。
「お姉ちゃん、あそぼう」
耳元で声が鳴っている。
またこれか。
またこの感覚か、と五感がさわいだ。
「お姉ちゃん、あそぼう」
目を開けた。頭がぼーっとする。眼球を上に動かしたとき、天井が左側にあったから、自分が倒れているとわかった。体は動かない。目だけがかろうじて動いてくれる。
「お姉ちゃん、あそぼう」
また子供の声だ。答えようとしたが、喉の筋肉がまるでいうことを聞かない。首から下が麻痺しているのか。
「お姉ちゃん、あそぼう」
ついに子供は、わたしの足に両手を押し当てて揺らしはじめた。体と視界がぐらぐらと動く。整体マッサージでも受けているかのよう。それにしてもこの子の手はひどく冷たい。
ひとたび冷静さを取りもどすと、この状況が《《かなりおかしい》》ことに気づいた。家に帰ったとき、母はすぐに玄関の鍵を閉めていた。子供が侵入するわけがない。なんで侵入しているのか、動機がそもそもない。遊びたいだなんて、意味が不明だ。
どうして体が動かないのだろう。
「ぅ……」やっと出た声がこれだ。
「お姉ちゃん、あそぼう」
子供はさらにわたしの体を揺らす。その勢いは次第に激しさを増していく。横向きの視界がぐらぐらと暴れ、心臓が早鐘をうつ。
これは異常だ、動け、逃げろ、と体に命じても、指先のひとつすら反応しない。全身の筋肉が凍りついている。
ぴたり——
子供は揺らす手を止めた。耳の奥で、砂が流れるような音が鳴った。その音は次第に高い音に変わっていく。最後には金切り音のような耳鳴りが頭いっぱいに満ちた。
ひた、ひた——
足音だ。濡れた足音が、わたしのすぐそばを歩いている。その音はわたしの背骨を撫でるように、すこしずつ頭のほうへと移動していく。この場合どうすればいいのだろう。霊を退散させるおまじないなど知らない。そもそも相手が幽霊かどうかもわからない。わからないけれど、きっとそうにちがいない——
「お姉ちゃん」
声が、頭のすぐそばで鳴った。
息づかいは聞こえない。
相手は呼吸をしていない。
ただ冷たい空気感が頬に当たる。
息を吸おうとしたけれど、
その前に嗚咽がのぼってきた。
「遊んでくれないんだ」
声とともに、少年の顔面が視界を占領した。
わたしに覆いかぶさるように覗きこんでいるのか、顔は逆さまだ。
まっしろな肌。底なしの目——黒一色の穴がふたつ。
口角がまったく笑っていない。
筆舌に尽くしがたい相手の殺意が心臓をぐわりぐわりと揺さぶる。
わたしは叫んだ。同時に体がいうことを聞いてくれた。室内を確認するでもなく部屋を飛びだした。転がるように階段を降りて、母のいるリビングに駆けむ。
「お母さん!」
声を荒げたが、視界に映ったもののせいで全身が凍った。次の言葉が思いつかない。ソファで寝ている母を、四人の女が囲んでいる。それぞれ白の着物を着ていて、点のような目で母を見つめている。
全員、古い時代のストレートの黒髪。手首から血が流れ落ちている。四人分の血が、ぽたぽた、と絨毯を濡らしている。明滅するテレビの青白い光が不気味さを増幅させていく。
事態を受け止められず、立ちすくんでいると、四人の視線がすべてわたしに集まった。計八個の眼球に睨まれると、自分のなにもかもを見透かされたような気分になった。未来も、過去も、考えていることも、考えてきたことも、たったいま感じている度しがたい恐怖もすべて。
柔らかい血の海に包まれていくような感覚。
悍ましいのに、なぜか心地よいと感じる自分がいる。
この心地よさはなんだ?
例えるなら、眠りにつく直前に感じる安息感——それに似ている。
「お姉ちゃんも、おなじになりたい?」
背後から子供の声。
手首に激痛。
痛みとは裏腹に、不思議と声は出なかった。
その痛みを自分は受け入れたのだろうか。
暗がりのなか、テレビの明かりを頼りに右手首を確認する。すっ、と動脈に切れ目が入っていて、そこから血が滴っていた。
ゆっくりと振り返り。視線を下に落とす。さっきの子供が立っていた。その手には短い刃が握られている。刀だろうか。短いから、短刀か。
「これで、おなじだね」
おなじ——
おなじ——
おなじ——
おなじ——
女たちの声が何度も鼓膜を撫でた。視界は真っ暗になった。自分が倒れたのであろう音が聞こえた。光も音も遠くなって、漆黒と無音に包まれる。しかしそれらは甲高い耳鳴りによって、あっというまに引き裂かれる。遠くなる意識のなかで、母は無事だろうか、と一抹の憂慮がよぎった。
そして、このまま死んでしまうのもわるくないかもしれない、と。
なぜか。
どうしてか。
そう思っていた。