ー3ー
あれよ、 あれよ、イケメンよ
「まぁ、まぁ、焦んなって」
リーダーの男が子分の拳を宥めた。舌打ちをして、子分は手を下ろした。同時に、わたしの胸も撫で下ろされた。スマホを握る手からも、ふっと力が抜ける。
「あいつさ……、おれの同級生なの。小学生のころから、わりと仲良くしてくれてたんだよ。あいつんち金持ちでさぁ。よく新作のゲームを遊ばせてもらったわ。母ちゃんもきれいな人で、おっぱいとかデカくてさ。あいつの弟が授乳するとがで、ちょこっと、いいもの拝ませてもらったこともあったわ。けっこう、いい思いさせてもらっているんだよ。あいつのおかげでさ——」
あいつ、というのは例のナンパ野郎のことだろう。
「おとなりの高校生に手を出すのはいけないことだ。けどまぁダチの仇は討たないとさ。締まりがわりぃじゃん? なぁ? 低偏差値の白髪野郎」
だんだんとむこうの空気が重くなってきた。
ふたたび、スマホを握る手に力が入る。
「あんた、なにか勘違いをしているな」
白夜くんは、くすりと笑った。
売り文句はまるで意に介していない。
「あいつを投げ飛ばしたのは、ぼくじゃない」
「はぁ!?」子分のひとりが声を荒げる。「てめぇしかいねぇって、あいつ言ってたぞこら!」
「だから、ぼくじゃないんだよ。ほら、そこのおまえ」
子分のひとりを、白夜くんは指でさした。
「あんたの真後ろに、黒い着物を着た女が立ってる。両目は赤い布に覆われていて目が見えない。けれど、ぼくの考えていることを理解してくれる。手伝ってくれる」
「なに、わけのわからないことを言ってんだよ」
リーダーの男はいよいよ本気になってきた。
「それなら、助けるのを手伝ってもらったらいいんじゃね? その着物の女とやらにさぁ!」
彼は白夜くんを蹴ろうとした。靴の裏を腹に食いこませんがための前蹴りを放った。しかしその足は、白夜くんの体に届く寸前でぴたりと停止した。足が伸びきる前に、なにかによってさえぎられた。透明な壁に足裏を穿ったようにすら見える。
よくよく観察すると、彼の足首に、見えないなにかが巻きついているのがわかった。ズボンの裾が、濡れた雑巾みたい搾られて、締めつけられている。
それは透明な縄できゅっと縛られたかのようであり、または、人の両手によってわし掴まれてるかのようだった。白夜くんは涼しい顔のままだ。
「おい、どうしたんだよ」子分のひとりが、リーダーの顔を覗きこんだ。へへっ……、と苦笑いを浮かべる。「そんな無理な体勢で止まることねぇって。焦らしてねぇで、早く蹴っちゃえよ」
リーダーの男は、だんだんと青い顔になっていく。
おそらく、右足の指先も紫色だろう。
あれだけ足首を締められて、血が通っているとは到底思えない。
「動かねぇ……」
「は?」もうひとりの子分が反応する。「動かねぇって……、足がしびれたのかよ」
「ちげぇ、そうじゃねぇ、なんかがおれの足を掴んでんだって……」
「なにも見えねぇじゃん。変なこというなよ……」
「だから、掴まれてんだって!」
「くそ……、まじかよ、なんなんだよおまえ!」子分が喚く。まるで怪物を見たような形相で。
次の瞬間、リーダーの男はその片足を掬われるように投げられた。バナナの皮を思い切り踏んでつるりと滑った、ギャグ系アニメのキャラクターのようだった。背中を地面に打ちつけたが、背骨に走る痛みよりも足首のほうが重症なのか、彼は片足をおさえて悶えている。
「痛えぇ、足がぁっ!」
投げられたときに骨か関節かなにかが潰れたのだろうか。
あの悶え方は尋常ではない。
すぐに救急車を呼ぶレベルに思えた。
わたしが脳内で唱えていた一一〇が、一九九に変わった。
「おい……」さすがに子分の顔も青ざめた。「おまえ、超能力でも使えんのかよ……」
まるで怪人でも見るような目で、彼らは白夜くんを見た。
「《《ぼくは》》、なにもしていない」
たしかに言葉のとおりだ。白夜くんはただ突っ立っているだけで、なにも手を出していない。蹴ろうとしたほうが、勝手に転んで、 勝手に背中を打って、勝手に足首の激痛に耐えている。それが見たままの現状だ。
しかし、状況はそれだけでは済まなかった。
「ちょうどいい」
白夜くんは言った。
「あんたら、顔が広いんだろう?」
一歩前へ踏みだす。
「ぼくに手を出したらどうなるか。お知り合いに伝えておいてくれよ」
口元は微笑んだが、目が笑っていない。
「足だけだと説得力にかけるかなぁ」
白夜くんの全身から狂気が漂う、いままで隠していた鋭いナイフを抜いたかのように。リーダーの男は、ぐいっ、と片手を天に向かって伸ばした。その行為が自分の意思じゃないことは、すぐにわかった。
「ああ、やめろ、手はやめてくれ!」
懇願するの彼を無視するように。その腕はみるみる引っ張られて、棒のように固まっていく。ついには手がおかしな方向を向いた。反り返った五本の指が、死ぬ直前の虫の足みたいに痙攣を起こしている。
「こ、こいつギターやるんだよ! 手は勘弁しろよ!」
子分が慌てて言った。
それでも白夜くんは顔色ひとつ変えず、「ぼくに言われてもねぇ……。彼女はギターなんて言葉、知らないはずだ。なんたって、そうとう昔の人間だからね。琴とか、琵琶とか。そっちの単語を使ってみたらどう?」
冷静に話す彼のそばで、悲鳴がふたたび哭いた。手は、さらにおかしな方向に曲げられている。腱がちぎれてしまったのか、指は力を失ってだらりと垂れている。
子分たちはひどい畏怖を覚えた。もうやってらんねぇ、逃げるぞ、とそれぞれに口走り。ふたりはリーダーをその場に置いて逃げ去った。利害と、うすっぺらいヒエラルキーで結びついた彼ら関係性——その脆さが一気に露呈した。
「くそ……、きもいんだよ、きもいんだよ! 死ねよ……、いますぐ死ねよおまえ……、頭がおれよりもわるいくせに……、友達は愚か、彼女なんかいたことねぇだろ、このくそ白髪野郎……!」
仲間にも逃げられ、立ち上がることのできない彼の、せめてもの抵抗だった。思いつく罵詈雑言を、思いつくまま白夜くんに浴びせた。
「死ねよ……、か」白夜くんの顔が曇った。「もう死んでいるも同然だ」
空気が凍った。人間が持つ良心に刃物が深々と突き刺ささり、心根の深くまで届いたそれが傷口をさらにこじ開けて、優しさや慈しみを裂いて殺すような鋭い殺気が狭い路地裏に満ちて、漂って、わたしの肌に触れて、鳥肌が全身を覆い——。
「あんたも一回、死を経験してみるか?」
魂が抜けたような白夜くんの声。
わたしは、彼のことをよく知らない。
知らないけれど、いまの彼が本来の彼じゃないとわかる。
「ぐっ……、ああ——」
リーダーの男は右を向いた。
首がどんどん捻られていく。
「だめ! 白夜くんやめて!」
気づくとわたしは叫びながら走っていた。なにを思ったか、体当たりして、白夜くんを地面に押し倒していた。倒れ木に止まる虫のように抱きついたまま、だめ、やめて、とわたしは喚いた。鼻水なのか涙なのかよくわからない液体が顔面に溢れて、それが白夜くんの服を汚してしまった。
「おい、おまえらなにやっとるか!」
むこうに見える大通りから、人の声がした。わたしは白夜くんの胸から顔を離して、振り返った。涙で滲む視界ではよく見えなかったが、それでもあの格好は警察官のものだとわかった。
警察官は銃を構えながら近づいてきた。
状況を見るや、反射的に銃を抜いたようだ。
「あんたらどこのもんだ?」
さすがに銃口まではむけないが、警察官は怪訝な顔でにじり寄ってきた。
「こ、こいつがおれの足を折ったんです!」
「そうなんか?」警察はわたしのほうを見た。
「あ、えと……」返答に困った。
すると白夜くんはわたしを体から離して、その場に立ち上がった。体じゅうについた砂利を手で払い、いつもの涼しい顔を見せる。情けない格好で地べたに座るわたしは、彼を見上げた。巨人でも見ているような気分になった。
「ぼくでは、ないですね」
白夜くんはしらっとしていた。近くにある室外機がうんうんと唸りはじめ、生温かい空気が呼吸をにごす。
「おまえは……、一十白夜……」
警察官はその名を知っている様子。ふう、とため息をついて拳銃をホルスターにしまった。なにかに安堵しているようにも見えた。
「またおまえか……」そう言ってあたりを見渡す。ななめ上に視線を固定して、三六〇度を舐めるように見た。黒い半球型の監視カメラを見つけると、もう一度ため息をついた。警察官は、あきれた視線を白夜くんに向ける。
「わざわざ監視カメラがあるところを選んだんか?」