ー1ー
あれよ、 あれよ、 イケメンよ
「おはよう」
リビングで声をかけた瞬間、違和感を感じた。いつもの母じゃない。《《言いたいこと》》があるときの顔だ。せかせかと朝食を準備しているが、やたらと背を向けたがる。相変わらず演技が下手だな、と思った。
「どうしたの?」わたしはたずねた。
「なんでもないよ」
うそばっかり。
わたしも人のことは言えないが……。
「体調でもわるいの?」
「あんたこそ、昨日から顔色がわるいわよ」
それはいろんな幻覚を見たせいだ。
「ねぇ、なにか言いたいことがあるなら言ってよ」
ちょっと語彙が強くなってしまった。
「あんた。そこにお座り」
緊張感のある返事が返ってきた。
この母の雰囲気を覚えている。遡れば小学生、高学年のときだ。友達と喧嘩をして、相手の女子を泣かしてしまったときに、お説教をもらったことがある。その感じによく似ている。
相手の子がいつまでもわたしの苗字を罵ってくるので、ついに我慢ができなくなったのが、喧嘩の原因だった。その子にいちばん言ってはいけないことを言ってしまった。ふくよかな体型をしていた彼女に、ストレートな発言をしてしまった。いまでも後悔している。
母とともに、相手の自宅まで謝りに行ったけれど、それはそれで豪邸の門扉の前で頭を下げる経験だったので、苦い記憶として残っている。格差社会をまざまざと実感した瞬間でもあった。
当時の雰囲気と合致するのが、まさにいまだ。
「なに……?」昨日まではなんでもなかったじゃない、と思いつつ。わたしはダイニングテーブルの席についた。
母は目玉焼きの火を止めて、両手を水で洗った。濡れた手をエプロンで拭きながら、わたしの対面に座った。
「あんた、《《見えてる》》でしょ?」
「視力はわるくないよ」
「とぼけんじゃないわよ」
母は両肘をテーブルに置いて前のめりになった。
難題を抱えているときのポーズだ。
「あんた、昨日お風呂で悲鳴あげたでしょ。ゴミ出しに行ったときから、おかしいもの。ずっと変な顔してるし。幽霊みたいなの見えてるんでしょ?」
正直に白状したほうがいいのだろうか。しかし、わたしの勘が訴えている。このまま認めてしまえば、どこかに連れて行かれるぞ——と。
「なんか、わたし……」
言いかけると、 母は固唾を飲んだ。
「疲れてるかもね。ははは……」
がくっ、とお笑い芸人みたいに姿勢を崩した。
「あんたねぇ……」母は姿勢を直しつつ、「こっちは真剣に話しているのに」
「ごめんね、なんだか心配させてしまったみたいで」
「そりゃ心配だわよ。ひとりの娘だもの。たったひとりの家族だもの」
急に傷心を突くような言い方をするから、胸に熱いものがこみ上げた。嬉しさか、あるいは、父や男兄弟のいない寂しさか。
「わたしね……」母はつづける。「この苗字にふさわしくない人間なのよ」
「ふさわしくない……?」
「あんたはきっと、ふさわしい人間なの。もし、これから先。ほんとうに困ったら、すぐに言いなさい。なにも起きないに越したことはないけれど。手遅れになる前に対処しないと。ほんとうに危険だから」
ふと、白夜くんの姿を思い出した。
彼が言っていた言葉も脳裏に再生される。
——きみがほんとうに困ったとき。ぼくじゃない助け人が現れる。その人の名は、一十冬夜。とある心霊探偵事務所の人間で、ぼくの兄だ——
昨日、何度も見たもの……。それは幻覚ではなく、この身に起きた心霊現象なのだと認めなければいけない瞬間が、わたしのすぐうしろまで近づいている。そんな気がした。
それはそれで期待してしまうのが、人間のわるいところだ。闇口そぼろという特異な名前以外に、これといって飛び抜けたものがない。そんなわたしにとって、霊能力者という肩書きは魅力的だった。
心霊タレントとしてテレビに出演するとか、お寺で有名な巫女さんになるとか、祈祷師になるとか、いろんな想像をしてしまう。気づくと顔がニヤついていて、休み時間のたびに、一葉に何度か指摘された。
登校してから放課後にいたるまで、しょうもない妄想はいくらでも脳内を走った。それなのに、きょうにかぎって心霊現象らしきものに出会っていない。これはこれでいいことだろう。妄想で終われるなら、そのほうがいいに決まっている。昨日の幻覚は、本当に幻覚だった、という結論で済む。
幽霊が見える日常など気が気じゃない。なにもないところで悲鳴でもあげれば、周囲からどんな目で見られるか。
霊能力で有名になれたら……、とついさっきまで想像していたけれど。そんなのは妄想の範囲で十分だ。ひっそり静かに、だれにも会わずに暮らすのが、わたしの理想だったはず。
脳が疲れているから、おかしな妄想をするんだ。本来のわたしは、自他ともに認める至高の陰キャなのに。芸能活動なんか務まるわけがない。
特別なものなどなくていい。
普通に生きていられたら、それでいい。
わたしに霊能力は必要ない。
きょうの授業は午前で終わった。一葉も午後から自由だったので、女ふたりのデートを敢行することになった。目当ては、二駅先の商店街にある、ジェラート専門店だ。あそこのリッチミルク味が最高においしい。
「ねぇそぼろ」電車内で、となりに座る一葉が神妙に話しかけてきた。「白夜くん、きょう大変だったみたいよ」
「なにかあったの?」
「おなじ学年の男子にからまれたみたいで……。顔を殴られて唇を切ったらしいよ」
校内にいたのに、そんな事件にはまったく気がつかなかった。一葉はいろんな人に話しかけられるから、その分耳が早い。
「殴られるようなこと、なにかしたの?」
「うーん……」一葉はしばし悩んで、「その日に恨みを買って、その日すぐに殴られた、という感じではないみたいで……」
なんらかの因縁に巻きこまれたのだろうか。
「彼、女子の人気はすごいの。美形で、色白で、ミステリアス。雪のような髪色のおかげで、二・五次元男子とは、よく言われている」
一葉のいうことは、よくわかる。漫画やアニメの実写映画でそのまま起用されそうな見た目をしている。一十白夜という華麗で非現実的な名前も、その一助だ。
女子からは憧れの視線を集め、その分、男子からは疎まれる……。どうにも納得がいく。
「一葉はきょう、白夜くんのこと見かけた?」
「ううん、見てない。学年がそもそもちがうから。あまり会わないよね……。殴られたってうわさだけが、耳に入ってきた感じでさ。ニセの情報かな、と思ったんだけど。目撃者がまじめなタイプの子だから、うそじゃないと思う。実際に先生も動いたみたいで、何人かの男子が生徒指導室に呼ばれたとか……」
もしかして、あのナンパ野郎が仲間を連れて白夜くんを襲ったのでは……?
「わたし、ちょっと心当たりがあるかも」
「え、そぼろが? どして?」
「昨日の放課後なんだけど。わたしナンパ野郎にからまれたの」
「ええ!」一葉の大声に、車内の数人がこちらをむいた。「そぼろがナンパされたの!?」
「いや、わたしじゃなくて……」
ナンパされたのは、あなたよ、一葉。わたしはただの中継地点であり、ナンパ野郎は《《中継地点でもまぁいっか》》、と考えたのよ。はなはだしいことに。
「そぼろじゃないなら、だれがナンパされたの?」
この際だから、洗いざらい言うべきか。
「えとね。ナンパ野郎がわたしに声をかけたのは、一葉に会いたいからなの」
「それならわたしに直接声をかけたらいいじゃない?」
さすが、この手の話題——つまり恋愛にからんだこと——になると会話のレスポンスがいつもの倍近く早い。
「直接、一葉に行かないところが小心者らしいというか……、ずる賢いというか……。となりの高校から編入してきた人らしくて」
「それなら頭はいいんじゃん?」
「けっこう、自分に自信あるような感じだったよ。そのわりに狡猾な感じがしたの。自分以外の人間すべてを下等生物のように思っている……、そんな感じの目だったなぁ」
つい悪口のようになってしまう。よくない。あんな人間のためにわたしの口まで汚すことはないだろう。慎まないと。
「なし」一葉はキッパリと言った。「どんなイケメンだったとしても、頭がよかったとしても、自分におごる人は無理でーす」
窮屈な話題がつづいたので、喉がぎゅっと縮まるような感覚がした。それを解き放つように、わたしと一葉は流れる車窓の景色に視線をやった。
軽快なメロディが車内に響いて、次の駅名がアナウンスされた。
「さて、降りる準備しよ」一葉は軽く伸びをした。