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闇口そぼろと幽々しき奇録  作者: 燈海 空
なにこれ、おかしいよ
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ー10ー

なにこれ、おかしいよ


「便乗動画もたっくさんでございますねぇ」と一葉。

「それくらいにサカキンの影響力がすごいってことだよね」


 あまり興味がないな、と思いつつ、話を合わせている自分に嫌悪感を覚えた。実のところ、わたしはYouTubeよりも、一個の映画作品などが好きだ。


 サムネで釣ったり。ネタで釣ったり。高額な商品のためにお金を泡のように使っているのを観ると、人間は、けっきょく欲望の奴隷なのかな、と思ってしまう。そういうのが好きなんだな、と冷めた目で客観してしまう。


 母からはよく、世間のお金事情なんか考えないで、単純にきょうを生きたらいいじゃない、と言われる。自分でもそうしたい。


 ——ぼんやりと考えていると、自分の後頭部が見えた。一葉と肩をならべている。平日の放課後を過ごしている。絨毯に視線を落としている。どこを見ているのだろう。自分のすがたながら心配になる。


 夕暮れが迫る時間。窓から差しこむ光はまだオレンジ色とは程遠い。冬に比べると、ずいぶん陽が長くなった。


 白いローテーブルに置かれたコップには雫がついていて、梅雨の湿っぽさを演出している。水出し緑茶のきれいな緑色が好きだ。一葉のコップが空になっている。はやく、おかわりを注いであげないと——


「そぼろ? どした?」


 一葉の声が耳に飛びこむ。わたしは我に返った。しん、と籠っていた周囲の音が一気に澄んでゆく。


「考えごと?」

「あ、ごめん……」

「そぼろって、いつのまにかいなくなるよね」


 肉体はそこにあっても、心がどこか遠くに行ってしまっている状態のことだ。魂が抜けているというか。意識は、いちおうある。


「話さなくなったなぁ、と思ったら、ぼーっと一点を見つめてて。おーいって呼びかけても、数秒は反応しないの」


 客観的に見るとそんな感じだったのか。どうにも言えない恥ずかしさが、胸に満ちてゆく。振り返るとたしかに、幼少期から似た状況はよくあった。


 ——聞いている? 

 ——聞いているのか?

 ——ぼーっとしているけど、大丈夫?

 ——おーい、生きているー?


 などの言葉をかけられたシーンは多い。そうなると、決まって見えるのが自分の後頭部だ。浮いている感覚もある。年に数回しかないことだから、あまり気にしていなかった。


 しかし改めて考えると……、これって異常なことなのでは? 今朝から見ていた幻覚といい、わたしの脳はどうかなっているのだろうか。


「もしまたそうなってたら、言ったほうがいい?」


 上目づかいとまじめな口調のギャップがずるい。つぶらな瞳がチワワみたいだ。


「ああ……、えっと……」


 遠くでメロディーが鳴った。

 一七時を知らせるチャイムだ。

 どこかで聞いたことのある旋律。

 曲は、夕焼け小焼け。


「大丈夫。すぐにもどってこられるから」



 母さんと夕食をとったあと。お腹が落ち着いたころ合いで、すぐにお風呂場に向かった。


 ラベンダーの香りがする入浴剤がないと、お風呂に入った気がしない。きょうは疲れる日だったので、多めに入れておいた。その量を母さんが知ったら怒るだろうから、内緒だ。


 ——あんたはなぜか、じめじめが好きだから。部屋の換気はしっかりしなさいよね——


 母のひとことを思い出しながら、腕を組むようにTシャツを脱いだ。体を流して、湯気が昇る浴槽に浸かる。


 体育座りをして、漂うラベンダーの香りで脳を溶かして、目を閉じて、いらない思考は雫にしてお湯に落とす。


 毛先に滴る水の、にわかな重さを感じて、顔を膝にうずめて、自分が消えてゆくような感覚を味わう。この肉体が、魂が、淡い紫の水に溶けて消える瞬間、わたしは自分の存在を確認する。


 蓮が散り見える古池——

 そこに浮かぶ氷花が、濁った水面に舐められ融ける。

 消えゆくとわかった刹那に、

 生きていることを実感する。

 生きていたことを実感する。


「……なんてことを考えるから、一葉に心配されるんだよぉだ……」


 湯船から上がって、体を洗うことにした。中央に穴が空いたプラスチック製の椅子に座って、シャワーノズルを手に取る。蛇口をひねって、お湯を出す。


 髪を濡らそうと、片手を持ち上げた瞬間だった。わたしの手首をなにかが掴んだ。腱が潰れるかと思うほどの力加減は、あきらかに人間の仕業だ。短い悲鳴とともにシャワーを床に落としてしまった。ぬるま湯を吐きつづけるシャワーノズルが、尾を踏まれたヘビのように暴れている。


「なに、なに……!?」


 すぐに止水して、わたしは立ち上がった。縦長の鏡には、自分の情けない裸が映っている。人間は恐怖に直面すると、すぐに逃げられるように二本の足で立とうとする、となにかの文献で読んだ。すくなくともいまは、そのとおりの行動をとっている。


 一坪の浴室には、わたししかいない。掴まれたのは右手だ。もしだれかいるとしたら湯船しか考えられない。しかし湯船には蓋が半分残っている。これをどけるか、あるいは上に乗らないと、わたしの右手を掴むのは体勢的に無理があるように思える。


「乗っていた……?」


 高鳴る心臓音が内耳まで響いてきた。おそるおそる自分の右手を確認した。全身の血行がよくなっていたせいもあってか、掴まれていた証拠は、容易に見つけることができた。右手首に手形が残っている。男性の手にしてはちいさすぎる。女性の手よりも細い。


 赤みを帯びた肌に浮かぶ、さらに赤い跡——。この手形は、ちいさな子供に握られたようにしか見えなかった。



「どうしたのそぼろ、なんか青い顔してるわね。長風呂だったのに。水風呂でも入ったの?」


 居間にいた母さんが、こちらを見て言った。三二インチのテレビにはNHKの情報番組が流れている。女性キャスターの平らな音声が、張り詰めた緊張感をやわらげてくれた。サングラスをかけたタレントのおじさんが喋ると、スタジオが笑い声に満ちた。


「ううん、なんでもない」

「珍しくブラ、ちゃんとつけてから上がってきたの?」

「え?」

「だっていつも、居間いまにきてからホックをかけるじゃない」


 いわれてみると、わたしの行動は決まってそれだった。脱衣所で下着をしっかり最後まで装着することはない。


「今度からTシャツも着てから上がることにする」

「へぇ。めずらしい」

「そうだね……」


 空虚な返事からなにかを察したのか、母はリモコンの電源ボタンを押して、テレビをオフにした。


「ねぇ、あんた、変なもの見てない? たとえば——幽霊とか」

「見てないよ?」

「そう?」


 いつになく真剣な面持ちで、母は視線を落とした。すこし考えを巡らせてから、今度はわたしの顔をにらんだ。ひどく怪訝な顔で。


「なんかあったらいいなさいよ?」

「なにもないよ、大丈夫」

「いい? なにかあったら、すぐにいいなさい」


 やたらと念を押すように母は強い語調だった。


「わかった」


 その場だけの返事を残して、わたしは台所に向かう。冷えたバニラアイスとティースプーンを手に持って、自室にもどった。いつものご褒美を堪能すれば、いやな幻覚のことは忘れるだろう。


 実のところ、わたしは脱衣所で手首をずっと気にしていた。そのせいで母には長風呂だと思われた。不思議なことに、脱衣所を出るころには例の手形は消えてなくなっていた。


 部屋にもどってからも、なんの変化もない、いつもどおりの手首をわたしはしばらく観察した。まるで、ぶら下がる手錠をぶらぶらと揺らして眺めるように。




 ・…………………………・


【その日の深夜。そぼろの母——しずえの音声通話】


「もしもし。わたしです」

『あら、珍しいじゃないしずえ。大婆さまの葬式以来ね』

「こんな夜更けにすいません」

『いいわよ気を遣わないで。実の親子じゃない。あなたはそう思っていないでしょうけど』


 心のこもっていない老婆の声が、受話器から聞こえる。


「そぼろの血が、目覚めたようなんです」


 腫れ物に触れるように、しずえは伝える。


『そう……。だったらなにさ』

「わたしには、この場合どうしたらいいかわかりません。経験がないので」

『どうするもこうするも、ほっとくしかないわね』


 冷たい声が返ってくる。まるで無関心だ。


「一七歳になって突然見えるようになったんです……。この場合、どうしたらいいのか……」

『はっ』老婆は情を捨てるように笑った。『阿呆もたいがいにしなさいな。いまさらうちを頼るんじゃないよ』

「孫でしょう? あなたの孫ですよ」

『孫は大事さ。だが、あんたを助けたいとはこれぽっちも思わないんでね。闇口家から足を洗った親不孝者にどんな施しをするって? 笑わせるわ』


 しずえはちいさく舌打ちをした、受話器が拾わない程度の音量で。


「いま、足を洗ったといいました?」

『ああ、言ったね』

「産まれつき霊感のないわたしの足は、最初から汚れていません」


 ふっ、と老婆は鼻で笑った。受話器が音を拾えるようにわざとらしく。


『霊媒師一族からあぶれたあんたが、どうやって霊感のある娘を育てるんだろうねぇ? この期におよんで、ご教授くださいってかい。最初はなから家出なんかしないで、闇口家に尽くせばよかったんだよ』


 つらつらと憎まれ口をならべる老婆。しずえは、片耳を針でぐしぐしと刺されるような感覚を覚えた。——奥歯に力が入る。


『霊感のないあんたにもできる屋敷仕事は、たんまりとあった。けれど、そのどれも嫌だ、無理だ、できないとぬかし、家を出て——。病弱な男に股を開いて産まれた子に霊感があったので、助けてください? 冗談は生きざまだけにしておくれよ。なんなら、その子をうちにおくれ。あんたが手をかけるまでもなく、立派な霊媒師に育ててやるよ』

「そぼろはわたしの娘です!」受話器が折れそうなほどの怒号が飛ぶ、「そういう話をしているわけではなくて……」


 怒鳴っても、なにをしても、返ってくるのは人を小馬鹿にする笑い声ばかり。


 しずえには、相手の表情がよくよく想像できた。

 片方の口角を吊り上げて、目はまったく笑っていない。

 しわだらけで土色の肌が偉そうに歪む。

 自分がこの女から産まれたのだと、考えるだけで嫌になる顔だ。


『ほんとうは見えればいいのに——物心ついたときから、あんたはずっとそう思っていた。旦那が死んだあと、わざわざ旧姓にもどす手続きをしたのがその証拠さ。あんたは闇口家に未練がある。霊媒師になれたかもしれない自分にもね。なに、うちにこだわることはないよ。我流の霊媒業でもはじめて、自分が叶えられなかった夢を、娘に叶えてもらいなさいな——』


 老婆はかっかっ、と笑った。しずえは噛み締めた歯を剝き出しにして受話器を乱暴に置いた。プラスチックが叩きつけられる音が鳴り、居間はふたたび静寂に包まれた。


 荒くなる息遣い。

 かたわらには、音声をミュートされたテレビの放つ青白い明滅。


 現実と幻実のあいだをさまよう朧舟の上に、ぽつんと置かれたような感覚がしずえを襲う。そして、胸が詰まるような失望の念。それらすべてが仄暗く沈んだ日常の空間を陰陰と漂い、揺れる。


 そして激しい後悔がしずえを襲った。

 なにやってんだろ、自分。

 あんな人に助けを乞うなんて——。



 ——通話のあと。格式ある屋敷の廊下を歩きながら、老婆はぶつぶつとひとりごとをつぶやいた。


「そうさね。孫は大事。孫は大事さ。孫は、ね」


 ・…………………………・


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