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闇口そぼろと幽々しき奇録  作者: 燈海 空
なにこれ、おかしいよ
1/10

ー1ー prologue

 

 ・…………………………・


 かつて、その山には村があった

 村は丸ごと、大規模な土砂崩れに飲みこまれ

 いまは地図から消えている


 しかし被害に遭った村の人間は、災害そのものによって

 亡くなったわけではない


 土砂が崩れる数時間前に、全員がおなじ死因で息たえていた

 すでに死んでいた——刃物による刺殺で




「こんな場所に村があったなんてな……」


 深い森のなかで、田村という若者は慎重な歩を重ねていた。

 彼は動画投稿サイトで一三〇万人の登録者を抱える者だ。


 周囲は霧のかかって視界は白くぼやけている。未知へ踏みこんだ興奮のせいか、山の標高のせいか、酸素がうすく感じられる。


「ここであってんの?」


 ビデオカメラを片手に持った別の男——小沼が言う。


「さんざんネットで調べたし、ちゃんと座標もおさえてある。マイクラ実況で培ったおれの空間認知なめんなよ」


 自慢げに語り、田沼は片方の口角を持ち上げた。


「はは、笑えるー」抑揚のない小沼の口調から、徒歩移動の疲労が見える。「くそじじいに頼みこんで、やっと船を出してもらったんだ。心霊現象のひとつも撮影できなければ無駄足もいいとこだ」


 ここまでの旅費や足労を考えると、収穫なしでは帰れない。


「おれなんかきょうの動画のために髪染めてきたんだぜ? ファッションブルー。がっちりスタイル決めて撮ったのが、ただのハイキング動画とか——それはそれでツボだわ。一回の美容院でブリーチ三回とかハゲるかと思った」


 田村は手元のスマホに目を落としながら言った。ストレートネックの首筋が、いかにも現代人らしい。


「その頭より、おれの顔が真っ青になるとは思えない」小沼は笑った。

「どうだか。——八尺さまみたいなのが出てきたらどうすんだよ」

「背が高い女の幽霊? 同人のネタになりすぎて恐怖とか皆無だわ」

「ぽ、ぽ、ぽ……」


 田村はわざとらしくカメラレンズに顔を寄せた。青い前髪が画面の半分を占領する——白目を剥いて、口をすぼめて、不気味な音程でおなじ音を口ずさむ。


「やっべ」小沼は笑った。「おまえのドアップとかまじきもい。編集でモザイクかけとく」


 おどけた笑いを散らしながら田村は向き直った。霧のせいで三メートル先が見えているかも怪しいが、その足取りには迷いがない。


 スマホを確認する——地図アプリでピンを打った場所まで、あと一〇数メートルも歩けば着く。


「もうすぐ、日流村のはずなんだけど」

「なんにもないじゃん。人口五〇人程度だったって話だけど。小人の村なんじゃないの? ちいさすぎて見えないとか」


 小沼がおどける。


「うーん……」田村は画面をいじって、地図をアップにした。「位置情報がちゃんと機能してないのかな」

「電波は?」小沼はデジカメから視線を離して、相方のスマホを覗いた。

「4Gだけど、ちゃんと入ってる」

「山って、むしろ電波が届くんだろ?」


 問われた田村は顔を上げて、周囲を見渡した。すこし先のほうで鳥が飛び立つ音がする。


「これだけ高い木が密集してれば、平地よりも電波は安定しないかも」

「まぁ、とりあえずふたつの切り株を探せって、都市伝説の本にあったじゃん?」

「そうだな……」


 田村は地面を探しながら歩いた。

 そのうしろから撮影の小沼がつづく。


「わっ」小沼はおどろき、振り返った。

「なんだよ、びびらせんなって」

「ぶん、って音がしたんだよ」


 顔を青くした小沼が言う。おどろいた拍子に手から離れたビデオカメラは、首のストラップだけが支えとなった。ぶらりと揺れて、あさっての方向を撮影している。


「ハエかなんかだろ」

「そうかな……」小沼は首をかしげて、「なんか、物を振り回した音みたいだった。ぶん、って」

「じゃ、でっけぇハチだ。ぶんぶんいってんだろ」

「それはそれでこわいわ」


 短いため息で、小沼は呼吸を整える。

 視線はふたたび前方へ。

 ざく、ぱき、と枯葉や小枝を踏みしめる音。

 生ぬるい空気で肌に湿りを感じる。

 どこからか動物が飛びだしてくるような気配が、絶えず背筋を刺してくる。


「管理人のじじい、なんてったっけ」田村が言った。

「ナイフも猟銃も持たずに、そんな山奥へ行くんか——たしか、そう言っていたな」

「死んでも知らんぞ」

「それも言ってた」

「なぁ?」

「ん?」

「クマとか、でないよな……」


 問われた田村の足が止まった。口角もにわかにひきつる。


「いま六月だぜ? 冬眠から覚めたばかり、ってわけでもないだろうし。大丈夫じゃね?」

「こんな山奥だからこそ、いるんじゃないの?」

「いるは、いるかもな……」

「心霊映像じゃなくて、クマに襲われる田村が撮れるかも。爪に裂かれた血まみれのユーチューバー爆誕ってタイトルで、帰ったら動画上げといてやるわ」

「冗談きつい。幽霊よりよっぽどこわいし。てかなんでおまえは襲われないことになってんだよ」

「おまえを囮にして逃げるから」小沼の冗談だ。

「まじ最低。スタッフ首にしてやる」

「おれがいないと編集のひとつもできないくせに」

「あー言ったなぁ。別の人に頼もうかなぁ。動画編集専門の業者、最近は増えてきたし」

「おい、大学時代からずっとふたりでやってきたろ? そういうこと言うなって」

「うそだよ、冗談。おまえの編集じゃなきゃ困る」

「あ、急に好感度上げにきた」

「はっ、ちげぇし」


 しかしこの程度の《《じゃれあい》》では拭えない悪寒をふたりは肌に感じていた。顔をこわばらせながら歩を進める。


「おい」田村が足を止めた。なにかを見つけたようだ。「あれ、切り株じゃね?」

「あぁ、あの座れそうなやつ?」


 近づくと、それはかなり太い木だったようだ。年輪を数える気にもなれないほど直径の広い、立派な切り株。苔やカビ、謎の平たいキノコがびしりと生えている。よいしょ、と座って一服できる状態ではない。


「なんか鼻がツンとする」田村が言った。

「これに生えてるカビのにおいじゃね?」

「まじで汚すぎ」

「ちょっと待って」小沼は切り株の表面をじっと見た。「なんか書いてない?」

「え?」田村も確認する。「なんだこれ……。カタカナ?」


 がさ、がさ、と左から音がした。

 小沼はすぐにそちらを向く。

 そこには、もうひとつの切り株が——


「おい、あれ」

「え? あ、おなじやつだ」

「おなじ? 似てるとかじゃなくて? なんか語彙がしょぼくね?」


 からかわれるも、田村の表情は真剣そのもの。


「いや、反射的に思ったんだって。おなじやつだ》》、って。どうしてかわかんないけど」

「たしかに似てるけどさ」


 小沼は撮影するつもりで、もうひとつの切り株に近づいた。ごくちいさな画面が映す映像のなかに違和感を覚え、今度は肉眼で切り株の表面を見た。


「ほんとだ……」

「え?」田村も近づく。

「おなじ言葉が書いてる」

「カタカナ?」

「ああ……」

「ほんとだ」

「これって村の入り口ってことでいいのか?」

「そう……、なるのか?」

「だったら、あの本で読んだ都市伝説が本当かどうか、ためしてみようぜ」

「まさか。ありえないって」

「くぐってはいけない、いまは亡き日流村の門——」


 おぞろおぞろしい、黒々とした雰囲気が小沼の言葉から漏れあふれてくる。しかし田村はどこかふざけた顔のままだ。相方がもんもんと思慮を巡らせている最中であっても、コメディアンの空気感を全身から醸している。


「わかったよ。じゃ——、はいどうも〜! きょうのタムチャンネル! 日流村の都市伝説はガチでほんとうなのか!? 命懸けで検証しまーす! よっ!」


 ひとり分の拍手が森のなかで寂しく響く。編集で拍手の効果音が重なるのがわかっているので、適当な仕草が映っていればそれでいい。


 対する小沼も、さすが長いあいだ撮影を担当しているだけある。田村が本番を演じているとわかれば、カメラワークに迷いはない。


「いま、日流山に実際きてるんですけど。途中ね? へんな管理人のじじいとかをぶっ倒して……」


 ここで管理人の写真がぽん、と画面上に載る——そんな編集をふたりは想像した。もちろん目は黒帯で伏せられている。


「ぶっ倒してないでしょ」


 声だけ出演の小沼が笑う。


「そう、えと、管理人のやっさしいぃぃおじいちゃんにお願いして、ボートにゆられること……、二〇分くらいかな? 湖のむこう、日流山の本山にきまして。船に乗るところは、じじいがこわすぎてカメラ回せなかったんだよ〜! くっそぉぉぉぉ——!」


 突然、田村はきていたジャケットを脱いで地面に叩きつけた。さらにプロレスさながらの技をジャケットにぶつけまくる。


 ここで画面に表示されるテロップは【ノースフェイスに当たらないでw】


 いい編集材料だ、田村ナイス! ——と思った小沼の口角が自然とにやける。わざとらしく暴れた田村は、ふう、と息をついた。急に冷静なテンションに切り替える。


「おっけ?」

「ばっちり。いい素材」小沼は親指と人差し指で輪っかを作った。グッドサインだ。

「そんじゃ、仕切り直し——」


 田村は立ち上がって、土や枯れ葉にまみれたジャケットを着た。さらに髪の毛をわざとぐしゃぐしゃに乱してみせる。いかにも《《無駄に暴れました》》という演出だ。


「はい、それじゃあですね。この切り株と、あの切り株が、実は村の入り口——門だったのではないかと。以前紹介したオカルト本に書いてあるんです。で、ふたつの切り株のあいだを通ると、まったく別の世界に飛ばされるらしいんですが。ありえないでしょ?」


 田村は、切り株と切り株のあいだをすこし離れた位置で見据える。


「じゃ、検証します〜!」


 なぜかクラウチングスタートの姿勢をとり、力を溜めた。頭のなかで号砲を鳴らすと、勢いよく切り株のあいだを駆ける。


「どう?」息を切らしながら、田村は振り返った。「なんも起きないでしょ?」

「ぜんぜん」小沼がいう。

「異世界に飛ばされるとかありえないっしょ」

「ないね。普通に」

「はい〜! というわけで、《門》は存在しませんでした〜! ごらんのとおり——」


 田村は右手を大きく回した。それはビデオカメラをぐるりと回して、周囲の景色を撮影しろ、という合図だ。映像が正面にもどったタイミングで田村は、なーんにも起きません! とおちゃらけた。両手を広げて、遊園地のマスコットのような仕草をしてみせる。


「ちょっと待って」小沼は撮影を止めた。ぽろん、とビデオカメラが録画停止の音を鳴らす。

「なんだよ。気分ノッてたのに」

「待って……」


 小沼はカメラを再生モードに切り替えた。

 たったいま撮った映像の確認する。


「なんだよ……」田村は不安を覚えた。

「いま……。なにか」


 まず腕を回す田村が映り、それから木々の一本一本を舐めまわすように、映像はぐるりと動く。

 ただの景色だ。

 森の景色。

 しかし——


「ここ、遠くのほう」小沼は映像を一時停止した。

「え?」田村も画面を凝視する。

「なんか立ってない? 女みたいなの。かなりぼやけてるけど」

「……うそ、やば!」


 映像部分の景色を、ふたりは肉眼で確認した。

 しかしだれもいない。

 ふたたび画面を観るとやはりなにかいる。

 人間としては恐怖を感じる。

 しかし動画制作者としては期待が走る。

 いずれにせよ心臓が早鐘を打つ。


「白い着物?」田村がいう。

「でもなんか、赤い模様が見えない? てかこれほんとに人間?」

「縦に黒くて、長いもの……。髪?」


 りん——


 鈴の音が聞こえた。


「おい」

「え?」

「クマよけの鈴なんか持ってきてた?」

「ないって」

「それじゃ、別のだれか?」

「管理人のじいさんじゃないの?」

「ついてくるなって念押したじゃん。動画撮影の邪魔になるから、船着場で待ってろって。猟銃持ったじじいに守られながら撮影に挑むとか意味わかんないし。ユーチューバーとして格好悪すぎ」

「心配になってきてくれたんじゃね? てか、早く、録画」

「あ、ああ——」


 慌てた手つきで小沼は録画を再開する。ぽん、とデジカメが鳴らす機械音がこの状況をまるで無神経に茶化すかのよう。


 いったんの静寂。

 森のざわめきが、空気をゆらす。

 ごくり、と唾の音が頭のなかで響く。


 りん……

 りん……

 りん——


 鈴の音が、だんだんと大きくなる。


「来てくれたんだよ、じじい」

「くっそ、めんどくせ、スマホあんだからガイドなんかいらねえんだよ」

「そう言うなって……」


 この際だれでもいい、ふたりよりは三人のほうがいい、小沼はそう思った。張り詰めていた背中がすこしゆるんだ。しかし、そのゆるみは一瞬のこと。


 まずはにおいだった。やけに生臭い空気が鼻腔を通ったから、ふたりは周囲の変化に気づいた。見渡すと、さっきまではただの森だった景色が一変していた。まばたきひとつ、したかどうかのうちに。


「おい……」

「え……」


 曇りだった空は、漆黒の夜空に変わった。

 金色の三日月が、口裂けのように微笑む。

 建ちならぶ古い民家。

 石造りの灯篭。

 石畳の道。

 列を成す一夜干しの魚が白い目玉を剥く。

 竹を編んだ籠が軒下に転がる。

 死体のように横たわる大根は腐り、ハエが集まっている。

 牢獄を思わせる格子状の木窓。

 井戸のそばには錆びた一輪車。


 霧はすっきりと晴れている。逆に不気味だ。

 道筋を照らすほのかな灯りは頼りない。

 手元に懐中電灯でもあればよかった。

 それか、村の雰囲気に合わせるなら提灯がいい。


 さっきまでは切り株だったそれらふたつが、太く、凛々しい木に変わっていた。もどったとも、いえるだろうか。そびえ立つ二本の木は見上げても見上げても天に向かって伸びている。


 地上から五メートル上には、幅二メートルはある「しめ縄」が横向きで浮いていた。それが左右二本の幹に巻きついて、架け橋のようだ。


 しめ縄で結ばれた大木と大木——なるほど、遠目から見れば門だと主張できそうではある。


 しめ縄の真下で、ふたりは腰を抜かした。ついに現象が起きた。恐れと期待が交錯する。


 しかし動揺も束の間のことで、怪異に巻きこまれたのなら、それはそれで嬉しいと思うのが動画配信者の性——。


「やった……」田村がいう。

「なにが、やっただよ。元の場所にもどれなかったらどうするんだよ」


 小沼は声を震わせた。しかし田村は、動画の再生数がどれほど跳ね上がるのか、それで頭がいっぱいだ。


「景色が変わる瞬間——村に入った瞬間の映像って撮れてるのか?」

「そこは回してたから撮れてるはず」


 小沼はビデオカメラを再生モードに切り替えようとした。


「ちょっとまった、だめだ、カメラを止めちゃいけない」

「え? ああ……、やらせ回避か」

「ぶっつづけで回してくれ。一秒だって止めるなよ?」

「わかった」


 湿った石畳を踏みしめて二人は歩きだした。途中、民家のドアをノックして訪ねてみたりもしたが、だれもいない。人の気配はあるのに、村そのものが死んでいるような感覚がする。


「どこかの家入ってみようぜ」田村が言う。

「勝手に?」

「大丈夫だろ。このまま外の景色を撮るだけだと、盛り上がりがない」

「わかった……」


 ふたりは適当に家を定めて、なかに入ることにした。


 平家で古い住宅からは独特のにおいが漂う。玄関先までくるとさらに鼻がうずいた。湖の魚が村民の腹を支えているのか、どこの家も魚を干すための道具が置いてある。


 魚介類の生臭さと、しおれた漬物のにおい——それとは別に、鼻を突いてくるにおいがある。が、その正体がわからない。


 ごろごろと重たい引き戸が鳴る。途中、戸がひっかかってしまったので、田村は強引に力をこめた。雑な物音がひびく。


「そんな乱暴に開けなきゃだめか?」小沼が言った。

「だってぜんぜん動かないんだもんこの戸。こんなんでよく生活できるよ」

「おい、家の人がいたらどうするんだ、聞こえちまう」

「大丈夫だって。だれもいない」

「言い切れるかよ……」


 ひときわ広い土間が特徴的な玄関だ。上がり框が左側にある。奥へ直進すると丈の長いのれんがあり、その影からかまどが覗いている。そこで煮炊きをするのだろう。


「こんな古い家、時代劇でしかみたことない」

「うちのばあちゃんだってここまで古くないわ……」


 小沼はそのまま進んで、のれんに手をかけた。ぺらりとめくって、竈がある場所を撮影する。四畳ほどのスペース。ひとりで料理をするなら十分な空間だが、ふたり以上になると途端に狭く感じるはず。


 朽ちた土色の壁に、格子状の木製小窓。

 湿気が溜まりやすいのか、隅々はカビで黒ずんでいる。


「古いキッチン撮影しまーす……」


 小沼のビデオカメラが室内を舐めまわす。特に異常はない。録画はばっちり動いている。


 双子山のような竈の右側にだけ鍋が置いてある。

 強いていうなら、その中身が気になるくらいだ。


「田村ぁ!」

「なんかあった?」田村はのれんをくぐる。

「この鍋のなか、見てみない?」

「カメラが見ればいいじゃん」

「おまえが開けるから画になるんだろ?」


 嫌々な顔で、田村は鍋の木蓋に手をかけた。


「ちょっとまって」

「どうした?」

「なんかこれ、すっごい臭い」


 蓋がわずかにずれただけで、耐えがたい悪臭が漏れる。鉄と腐った生ゴミのにおい。嫌悪感と、えもいわれぬ不安がよぎる。しかしそれらを追い抜くのは高鳴る好奇心だ。田村はビデオカメラの矛先を確認した。一気に蓋をはがす。


 赤黒い液体。

 濡れていて、固まっていて、奇妙な艶。

 田村は蓋の端でもって、その黒に触れた。

 ぐちゃ、と気味のわるい音。

 さらに蓋を深くまで突っこむ。


「なにかある」

「おい……」小沼は畏怖した。「だめだって、これだけは映せない」

「なに言ってんだよ。最悪モザイクかければいいだろ」

「そうだけど……」


 動画にとって、いいかわるいかではない。自身の精神衛生をかぎりなく乱すなにかを、小沼は予感した。


 これを見てはいけない。

 記憶に焼きつけてはいけない。

 まして映像に残すのなら——

 なにかに殺されるかもしれない。


 六感など信じたことはない。

 それでも小沼の思考は叫んでいた。

 やめろ。

 見るな。


「だめだ!」小沼は片手を伸ばして、田村の行動をさえぎった。しかし突き跳ねられた田村の手は、むしろ鍋に強い衝撃を与えてしまう。蓋の端はすでに鍋の奥まで届いていた。


 小沼は撮影を忘れた。

 それどころではなくなった。

 いま、ビデオカメラは床だけを映している。


 焦げた茶色をした土の床を、ただ単に映す映像。

 ビデオカメラのちいさな画面が無作為に揺れる。

 しかしその映像にも変化が訪れる。

 画面の上端から、次第に赤黒く染まっていく。

 竈から転げ落ちた鍋の中身が床に溢れ。

 土を濡らし。

 固まった髪の毛がべたりとはりついて。

 ごとん、と転がる音。


「うあ……」

「なんだよこれ……」小沼の呼吸が乱れる。

「魚の頭?」

「でもなんで髪の毛も入ってるんだよ。これは人間のだろ」

「じゃあ、血は? なんの血なんだよ」

「わかんねぇ……」

「狂ってる」


 ふと田村は、床に溜まる液体が自分の足元にまで届いていることに気づいた。一歩退がると、お気に入りのスニーカーの裏が、ねちゃり、と嫌な音をたてた。


「くっそ! 最悪だ! 買ったばっかの新品なのに! ナイキだぞ!」


 ここでやっと、小沼のビデオカメラがまともな映像にもどった。といっても映しているものはひどい。


「こんな映像使えないぞ!」

「なんだ……」田村は残念そうに、「せっかくなら人間の頭でもよかったのに」

「おまえなぁ……」


 呆れた小沼がもうひとことを言う前に、玄関のほうから物音がした。のれんの隙間から覗くと、だれかが立っているのが見えた。それも一瞬のことで、声をかける隙もなかった。立っていた人間はすぐに走り去った。


 ふたりはすぐに追う。

 玄関から出て、周囲を見渡した。

 だれもいない。見当たらない。


「どこ行った?」田村言う。

「おい」小沼は足元を見た。「これ……」


 地面には死体を引きずったような血の跡があった。ちょうど大人の男ひとり分の身幅で、一本の道筋のようにつづいている。


 途中で何度か途切れているところがあり、ずず、ずず、と引いては止まり、引いては止まり、それを繰り返したのがわかる。力の細い者が、どうにか遺体を運んだ——そんな様子が想像できる。


 血の跡を舐めるふたりの視線は、自然と村の奥へ流れた。目にとまったのは、この村で一番大きな屋敷だ。おそらく遺体は、そこに運ばれたはず。まっすぐ、迷いなく、屋敷に向かって跡はつづいている。


「さっきの人、死体を運んだのか?」田村が言う。

「まさか。こんな一瞬で運ぶなんて無理だ。どれだけ足が速くても、あの屋敷まで数一〇秒はかかる。おれたちが見つけられないわけない」

「なら、この血の跡はどうやってついたんだよ……」

「おれたちが竈を見ているあいだに、だれかがやったんだろ」

「だれかって、だれだよ!」

「知るかよ! そんなの!」


 ここにきて恐怖が苛立ちに変わった。精神状態が乱れはじめていることをふたりは合わせ鏡のように確認する。同時に怒りをぶつけたものだから、頭が落ち着くタイミングもおなじ。


「なぁ……。もう怖くて逃げたってことにしてもいいんじゃないか? 雰囲気は十分撮れたって。ガチの事件に巻きこまれたら、動画どころじゃなくなる」


 小沼が言う。田村は奥歯を噛んで数秒だけ黙した。このまま引き下がってもいいのだろうか。うなぎのぼりの再生数が脳裏を走る。登録者が増えて、広告収入も——


「まだだ……。あの屋敷に行く」

「うそだろ」

「こんなところで逃げられるかよ」

「もうやらせじゃ通らないぞ! ほんとうに人が死んでたらどうするんだよ! 動画にもできない!」

「仮にチャンネルが封鎖されたとしても、ネット上に動画はどうしても残る。この村に踏みこんだ最初のユーチューバーとして伝説になるんだよ! 殺人事件が起きたんなら、それを撮ってやればいい。一度チャンネルが無くなったって、ほとぼり冷めてから復帰すればいい。客はすぐにもどる。この体験を書いた本だってだせるはずだ。デジタルタトゥーを逆手に取るだんだよ! 伝説になりたいだろ!」


 こうなると田村は止められない。長年のつき合いがある小沼にはわかっていた。だが、どうしてもこれ以上は踏みこんではならないと思った。直感が訴えていた。それは、獣が火を避けるのとおなじ感覚。


「田村……、おまえ、死ぬぞ」

「おれは動画制作に命を捧げてるんだよ。臆病なおまえとちがってな。ほら、それ、カメラのストラップ肩から外せよ」


 重く静かに吐き捨て、田村はビデオカメラを乱暴に奪った。


 小沼は渋い顔をして、ああもう、と唸り、頭を掻いた。そんなに撮りたいならひとりで撮ってくればいいと思った。今回だけはつき合えない、どうしても——


「先にじじいの船までもどるからな」

「《《おれは》》、使命を全うする」


 いまのセリフを田村は大学時代にも言っていた。なにがあっても、面白い動画を撮ることに命をかける。その心意気に惚れて、小沼は大企業の内定を蹴った。動画制作の協力を買ってでた。こいつの本気に賭けてみたいと思った。賭けてよかったと思った瞬間は何度もあった。相棒に感謝している。


 しかしいま、自分たちが積み上げてきた動画クリエイターとしての財産が消えてなくなる、ここでなにもかもが途絶えてしまう、そんな気がした。


 小沼は呼び止めようとした。だが、うまい言葉が見つからなかった。背を向けて去っていく盟友を呆然と眺め、立ち尽くす。


「田村……」


 ここで追っても、昂った感情に油を注ぐ結果になるだけだ。一度腹をくくった彼が、他人の意志や意向を受け入れることはない。止めることはできない。


「待ってるからな」小沼はちいさく言った。


 相棒なら、手持ちのカメラで臨場感のある映像を撮ってくるはずだ。その腕前を信じている。彼の帰りを待つことが、いま、自分にできる最善の行動だ。


 スマホの地図アプリを開いた。データ通信は圏外だが、GPSは機能していた。地図アプリのキャッシュが残っていたから、いまいる場所はわかる。船着場の方角くらいは目指せそうだ。


「ラッキー……、なんだ、ぜんぜん帰れそうじゃん」


 小沼の足は帰路へと歩いた。生臭い村から離れられるのは、ひとまず心地よい。後味のわるさはあるが、新鮮な空気を吸えるのはありがたい。


 村から離れるほどに、霧の白さが目立ちはじめた。視界のわるさからくる種々の不安よりも、道をもどっているという安堵感のほうが勝った。


 森林の景色はどこを見てもおなじだ。まして霧が充満していれば、手元の地図アプリよりも頼れる視覚情報はない。


 しばらく歩いていると、霧がうすくなりはじめた。灰色だった空も晴れて、漆黒が広がる。空を見上げると、金色の三日月が口裂け女のように微笑んだ。


「あれ……」


 小沼は足を止めた。違和感の正体を考える。


「そうだ……、村から離れたら昼間の曇り空になった。それがなんで《《また夜になっている》》……」


 どうか、進む道の先に船着場があってほしい。小沼は祈った。しかしその希望を嘲笑うことは、村にとって容易いことだった。霧が晴れてから一分もしないうちに、また門が見えた。村の入り口だ。もどってきてしまった。空は暗い。夜だ。おかしい。また昼夜が切り替わっている。


「あれ……、GPS狂ってんのかな」


 冷えた汗を感じながら、小沼は門に背を向けた。地図アプリで進む方角をたしかめる。今度はまちがえないように、確実に。


 ふたたび霧が立ちこめる。

 霧で視界はわるいが、昼の明るさだ。

 安堵感が湧く。

 なんだ、やっぱり自分がまちがえただけだ。

 歩く。

 視線のほとんどはスマホに落として。


 霧が晴れる。

 昼が夜に変わる。

 門が見えた。

 村の入り口。


「うそだ」


 背を向ける。

 歩く。

 歩く。

 夜が昼に変わる。

 霧が立ちこめる。

 安堵感はうすい。

 方角をたしかめる。


 霧が晴れる。

 昼が夜に変わる。

 門が見える。

 村の入り口。


「なんで、なんでだよ」


 背を向ける。

 歩く。

 早足。

 走る。

 走る。


 霧が立ちこめる。

 夜が昼に。

 地図アプリの現在地を示す矢印の挙動もおかしくなってきた。飛びとびで動いたり、向いているはずのない方向をキョロキョロと指したり。


 それでも帰路の方角だけは、まちがえていないはず。

 血相を変えて走る。

 冷や汗が全身を濡らす。


 霧が晴れる。

 昼が夜に。

 深い紺色に染まる星空。

 三日月。

 門。

 村の入り口。

 スマホを見る。

 いつのまにか電源が落ちている。

 電池の容量はまだあったはず。

 どれだけボタンを長押ししても、応答はない。


「おい……、おいって! どうなってんだよ! こんなときに壊れんな!」


 小沼は視線を感じた。

 乱れていた全身の神経が、凍る。

 爪の先までぴくりともしない。

 それくらいに深く、重い視線。

 おそるおそる顔を持ち上げる。

 緊張する首筋がみしゃり、と音を鳴らした。

 門のむこう側、一〇メートルほど先にだれかがいる。

 白い装束の腹を真っ赤に濡らした女。

 右手に短刀を持っている。

 左手にはビデオカメラが。

 長いストラップが地面を舐め、土に汚れている。


 だらりと握られ、地を指す短刀のきっ先は赤く濡れていた。刃先からぽたりぽたりと血が落ちている。 ビデオカメラにも血がついているのが見えた。


 自分の仕事道具を、ついさっき相棒が奪って去ったそれを、どうして見ず知らずの女が持っているのか。


 どうして、そんな顔でこちらを見るのか。

 どうして、そんな目でこちらを見るのか。


 問うまでもなく。

 たしかめるまでもなく。


 女は三日月のように口を裂いて。

 ふへら、と笑った。











    A coo toumi Novel


 -Soboro and Ghosts chronicle-











 カヤツリグサが葉先に露をぶらさげ、雨上がりの静けさが霞に包まれる早朝。わたしは夢のなかにいた。


 そこに立っているのは、白い着物を着た女。霞にさえぎられてよく見えないが、彼女の肌は雪のような白だとわかる。深い墨で塗りつぶしたような、黒い長髪が腰まで流れている。


「だれ?」


 たずねても女は答えない。


「なにかを探しているの?」

「鞄を落としてしまったの」


 女はちいさく言った。


「大切なもの?」

「ええ、とても、大切なもの」

「どれくらい大切なもの?」

「そうね。きっと、あなたもおなじくらい大切なものを持っているわ」


 河川敷で遊ぶ子供たちの声が近づく。

 鞠を追いかける少女がひとり。

 こちらを見て手を振った。

 つぎはぎの多い、淡い桃色の着物の袖が揺れる。

 すると若草色の着物を着た女性が、少女の裾をぐいっと引いた。


「あの人を見てはいけません」


 わたしのことだ。


「どうして?」少女は母の顔を見上げる。

「生きているけれど死んでいるのよ」

「おはなしができないの?」

「……さぁ、おうちへ帰るわよ」


 少女は母に連れられて、無理やり帰路へと導かれる。濡れた地面を鞠がひとつ転がり、足元で止まる。深い緑と淡い黄色の幾何学模様に彩られている。


 生地が傷んでいるが、職人の手作りで作られた精巧さがうかがえる。雰囲気からしても、古い時代のものだとわかる。


「お母さん、鞠、鞠を失くしたらやだよ……」


 地面に足を噛ませ、少女は鞠に手を伸ばした。

 ちいさな体で、めいっぱい抵抗した。

 しかし母の腕力には敵わない。

 わたしは鞠を蹴ろうとした。

 そうすれば少女のもとへ届くのではないかと思った。


 背中に悪寒を覚え、すぐに振り返った。

 鼻の息が届くほどの距離に女の顔があった。

 白い着物、思ったよりも若い。

 その血走った目が全身と全霊を凍らせる。

 眼前の女は首を伸ばし、わたしの耳元に唇を近づけた。


「蹴るんですか? こんなに大切なものなのに」


 すっ、と空気が乾いた。

 人のにおいが消えた。

 雲の切間から陽光が射しこむ。

 濡れた草花の香りが鼻腔をくすぐる。

 女はいない。


 鞠があったところに鞄が置いてあった。

 茶色の革製。さびた金属のガマ口。

 しゃがんで鞄に触れた。

 おかしいと感じながらも、好奇心に逆らえなかった。

 ガマ口をゆっくりと開く。

 手に鉄のにおいがついた。

 同時に、湿った風がもどってきた。

 鞄のなかには人間の頭があった。

 少女を連れ去ろうとした母親の頭だった。

 なにかに強くぶたれたのか、こめかみから赤黒い血を流している。


「見たんですね」


 うしろからまた、女の低い声。

 空気がぴたりと停止した。


「きっと、あなたもこうするんです。理解されない苦しみを。どんな真水でも洗えない悲しみを。だれかの血で拭うのです」


 雲がぐるぐると回転して、長い髪が渦巻きに吸いこまれ、女の笑い声があちこちから響き渡る。わたしは耳を塞いで、しゃがみこんだ。


 急に足場の感覚が消えて、背中から血の気が引いた。

 永遠につづく深淵に突き落とされたような感覚が襲う。

 どこまでも、どこまでも、

 体が、魂が、落下する——


 それでもこの目はたしかに見ていた。

 ずっと遠くに見える、かすかな光。

 緑色のあたたかい光を、わたしの目はとらえつづけ——



 目覚ましのアラームが鳴るよりも早く目が覚めてしまった。あんな夢を見たのだから、寝覚めのわるさも仕方ない。


 八畳ひと間の天井に走る木目模様は、飲み慣れた錠剤の味くらい変化がない。いつもちょっとだけ不快になる。粉薬ほどではないが。


 カーテンを開けるのもいつもより早かった。太陽はまだ寝ぼけている。青白い弱光が、湿った灰色の道路を照らす。ここは田舎だから景色の見通しはよい。


 道路のむこうは一面の田んぼ。

 その先には山がある。


 鳶らしきものが優雅に滑空しているのも見えた。あんな風に自由ならいいのに、といつも考えてしまう。


 しかし彼らには彼らの現実がある。鳥にしかわからない生活と、その悩みの数々をわたしは知らない。だから、うらやましくなるのだろう。鳥の視点に立ってみれば、人間みたいに地上を優雅に支配できたらいいのに、と感じるかもしれない。


 一七歳の誕生日からひと月が過ぎても、自分が女子高生であるという実感など湧かない。私服で登校しているせいだろうか。


 教師に怒られもせず、先輩に励まされることもない。後輩に慕われることもない。毎日が灰色だ。


「そぼろ? 起きたの?」


 ふすま越しに母の声が聞こえた。

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