舞子始動
舞子が産後1ヶ月経ったので、練習を始動する話のはずが・・・
舞子は出産後、1ヶ月は医者の言うとおり、身体全体を動かさず、部分的な筋肉トレーニングをしていた。大腿筋などは電気刺激を与えて筋収縮を起こさせていたし、腹筋にも徐々に強度を上げて電気刺激を与えていた。
腕はベンチプレスやアームカールなどで筋肉強化をしていた。その他の全身の細かい筋肉を鍛えていてそのトレーニングは、1日6時間にも及んだ。空いた時間は、冬月の授乳をして過ごしていた。ミルクに移行してしまえば、身体も楽なのだが、舞子はそれだけは譲れなかった。紅羽が余り母乳が出なくて悩んでいるので、最初は余った母乳を分けていたくらい、舞子の母乳はふんだんに出た。
出産後、ちょうど1ヶ月が過ぎた日に、舞子は冬月を連れて里帰りをした。そして、その日に全日本柔道選手権のエントリーをした。
「いよいよだね。やっと始まったって感じだ」
今日は練習開始と言うことで、陸産婦人科医師と久保埜外科医師が、体育館に来てくれた。
「今日はまず、ウオーキングとチューブを使ったトレーニングからですよ。1日経って、出血や血液の数値に異常がなければ、次の段階に行きます」
新しく体育施設管理者になった琥珀は、始めて舞子の練習に立ち合った。
「出産後、1ヶ月で柔道の練習なんですね。体育館では紅羽さんがバスケットのランニングシュートの練習始めていましたし、なんか、桔梗学園にいる方々って、本当にスポーツエリートなんですね」
琥珀は、実際に体育施設の使い方を、三川杏に教えて貰っていた。杏ももう外から見てお腹の大きさが目立つようになっていた。
「スポーツエリートは、研究員にとっても格好の実験対象だからね」
「なんか、そういう言い方って・・・」
「『楽しい』とか『勇気を与える』なんてことだけがスポーツの存在意義じゃないってこと。例えば、舞子か身につけているサポーターは、ドローン操縦士の衝撃吸収スーツの研究に役立っているし・・・」
三川杏は背後に、久保埜医師が立っているのに気がついて口を閉じた。
「三川さん、来たばかりの子にペラペラ内部情報を話すんじゃないの。何度も注意されているでしょ?」
杏は肩をすくめて、小さい声で「すいません」と言った。
「へへ、そういうわけで、高校3年になってやっとなったスタッフの座を、あなたに譲らざるを得なくなったって訳」
琥珀は自分の仕事は、能力不足であればすぐ外されるという性質のものだと知って、気を引き締めた。ここでポカをやって、首になるわけにはいかなかった。
「すいませ~ん。採寸させてください」
練習が一段落したところで、ソーイング部の糸川芙美がやってきた。
舞子は不思議そうな顔をした。
涼が舞子に糸川が来た理由を説明した。
「舞子の産後の体形で柔道着を作り替えなきゃならないだろう?」
「でも、もっと体形が変わるかも」
「AIが今までの舞子の体形変化に、これからの練習量を考慮して、サイズを割り出してくれるはずだよ。それに試合中のアクシデントも考えて、5枚くらい作るらしい」
「でも、公認柔道着じゃなきゃいけないんでしょ?」
「公認柔道着を解いて、舞子のサイズに縫い直してくれるらしい。勿論、ルール違反にならないサイズで・・・」
「5枚か、全日本選手権が白柔道着で良かったね。青と白だったら、2枚ずつ必要だから」
試合用柔道着は、上位モデルで4万からメーカーによると7万に近い価格のものもある。もう庶民に手が届く世界ではない。
「4万円の柔道着を5枚作るんですか?1ヶ月の給料分が飛ぶんですね」
琥珀が声を漏らした。糸川がニコニコしながら、琥珀の方を向いた。
「今まで舞子さんが着ていた柔道着を縫い直すから、そんなにお金はかからないわ。
ただし、柔道着が縫える工業ミシンは買ったけれどね。新品の柔道着は動きにくいのよ」
「うわー、産後の身体って、皮が伸びているのね。ぶよぶよだわ」
「舞子さん、嘆かないでね、1回目の出産の場合は、皮を縮めるクリームもマッサージもあったじゃない」
舞子は出産後、病室で生駒助産師さんからマッサージを特別に受けていた。
「1ヶ月では効果がないんですかね」
「舞子さんの場合は、この中に筋肉の鎧を再装着するんでしょ」
涼がクスッと笑ったのを舞子は聞き逃さなかった。ギロっと睨まれて、涼はそそくさと水を飲み場に逃げた。
オユンが糸川に質問した。
「伸びた皮が縮むなら、加齢で出来た皺も伸びマスカ?」
「それが出来たらノーベル賞ね。まだ、舞子さんが若くて、肌の水分量が多いから戻る可能性があるのよ」
「残念ネ。舞子も努力しないと戻らないみたいヨ。ふふ」
あくまで、明るい女子柔道家達であった。
「舞子は夕飯のメニューも特別製に変わっているしな」
水飲み場から戻ってきた、涼が口を挟んだ。
「タンパク質、ましましです」
舞子がニコニコして答えた。陸医師が舞子に尋ねた。
「舞子は今、90kgよね。どこまで体重を戻す?10kgも戻さないよね」
舞子は最大体重110kgだったが、桔梗学園に来て無理に食べなくなったので、妊婦になっても体重が100kgを切っていた。3ヶ月で10kgの肉の重荷を担ぐのに、骨や筋肉が耐えられるか陸医師は心配しているのだ。
マリアが話題に加わった。
「舞子さんの前に、舞子さんのメニューを食べて、私とオユンがトレーニングしています。見ますか?私達の身体」
そう言うと、マリアとオユンが柔道着を脱いだ。白く身体の線がくっきり見えるTシャツは、筋肉で膨らんだ身体で、はち切れそうになっていた。特に背中の筋肉が異常に発達していた。
杏と琥珀は、その背中が触りたくて、知らず知らず手を伸ばしてしまっていた。
「いいわヨ。私もマリアの背中を触った時は、感動しマシタ」
「涼がいなければ、ここで脱いでもいいわよ」
涼は再び水飲み場に退場した。
「私、一度これをやってみたかったの」
そう言うと、マリアは自分のTシャツの胸の部分を掴み、引きちぎった。
「ゴリラか」
杏はつぶやいたが、誰の耳にも入らなかった。
「きゃー素敵」
「抱きしめて」
「お姉様、かっこいい」
女性陣の叫び声にかき消されてしまったからだ。
「言っておくけれど、『見せ筋』じゃないからね。ベンチプレスが体重の2倍くらい上がって調子に乗っていたら、鮎里さんが鉄棒やロープのトレーニングに誘ってくれたの。だから『使える筋肉』よ」
「私も、クライミングに誘って貰ったノ。すごく面白い上に、引く力や引っかける指の力が格段に上がったワ。クライミングやっていると、どのくらいが自分のコントロールできる体重か、分かってくるヨネ」
杏が体育館を指さした。
「鮎里さんは今晩もロープを登っていますよ」
舞子が首をかしげた。
「三焼山で右手を大やけどしたって、聞いたけれど」
「あれは、蓮実さんに頼んで、右手につける装具を作って貰ったらしいです。それを使ってロープ登りしています」
「蓮実さん?彼女も出産終わったんですよね」
「蓮実さんは、皆さんが白萩地区でお祝いしていた日に出産していたんです」
涼が記憶をたどった。
「あの日、お医者さんが出払っていたって言って、鮎里さんが来ていたんだね」
「蓮実さんの出産は大変だったんですよね?」
杏はそれ以上言わずに、陸医師に視線を移した。
「蓮実さんの子供は、エコーで出産前に右手首と右足首の先がないって分かっていたから、蓮実さんは出産前に装具の研究をしていたんだ。出産自体は安産だったけれど、今回も須山さんの双子の出産と重なって、バタバタしただけだよ」
「大変でしたね」
「出産の後に、三焼山の事件があって、そこでも帝王切開があったし、ほとんどの医師が二徹だったね」
「2日も寝られなかったんですか?お疲れ様です」
「だから、真子学園長が医師が看護師代わりをするこのシステムを変えようって、看護師を急遽募集始めてくれたんだ」
「コロナで大分、看護師辞めた人が多かったから、子連れでOKという募集条件が効いたみたいで、すぐ5人くらい集まったよ。生駒助産師さんの妹さん夫婦も来てくれたし」
水飲み場から戻ってきた涼が、興味を示した。
「じゃあ、男性看護師も来たんですね」
「いや、女性同士のカップルだね」
「??」
「説明しないと分からないね。もとは男女の夫婦として入籍したけれど、子供を出産した後、生駒助産師さんの弟さんが性転換したんだ。だから今は女性同士のカップル」
「自分の性に違和感しかなくって、性転換したら気持ちは落ち着いたけれど、病院には居づらくなったらしくて、桔梗学園に来てくれることになったらしい」
「女になれば、助産師としても、妊婦さんに拒否されることもないしね」
「えー。男の助産師って私は嫌だ」
「杏は羊さんを見てないからそう言えるんだよ。今、医局は大変なんだから」
舞子が「大変」の意味に食い付いた。
「1ヶ月検診に行った時のあの麗しい看護師さんですか?」
陸医師が片目をつぶって言った。
「ヤバいでしょ?」
涼が不安な顔をした。
「どこがヤバいんですか」
陸医師と舞子が顔を見合わせて言った。
「羊さんが男だったら、血の雨が降る」
「でもパートナーの鈴音さんも、それに負けず劣らず、中性的美を持っているから、今、羊さん派と鈴音さん派に二分されているんだよ。『押し』に対してはみんないい子になるよ」
「それは宝塚の話ですか?」
呆れる涼をそっちのけにして、女子は生駒助産師の弟、いや妹?夫婦、鵜飼羊と鈴音の話で盛り上がってしまった。
新たな人物も出てきましたね。記念すべき100回には登場人物をまとめます。