桔梗学園オリエンテーション
巨大ドローンの機体の中には、飛行機というより乗用車の座席に近いものが並んでいた。それぞれの座席には、チャイルドシートが仕込まれていて、子供と一緒に乗っても大丈夫な作りになっていたし、座席と座席の間も広く、通路も車椅子2台は通れそうなくらい広かった。
全員が着席すると、桔梗バンドが点滅し始めた。妊婦の健康チェックの機能が動き出したのだ。点滅が終わると、機体が垂直に上昇し始めた。外が見えるように、全員が窓際の席に着いたので、歓声が沸いた。上空から正面に藤ヶ山、後方に桔梗ヶ山が見えた。そこからゆっくりふわふわと新校舎の方に大型ドローンは下りていき、新校舎の東側の壁面に沿って3Fと表示のある出入り口に横付けした。
「東棟は2階が、地上1階になるんだけれど、2階は分娩室なので、高等部の寮がある3階から今日は入ります。普段は男子禁制ですが、今日は特別に廊下を歩かせてもらいます。男子寮は西棟の4階ですが、後で案内しますね」
男子禁制という言葉には何故か、男心をくすぐる。
そんな男子諸君の下心を見透かすように、蹴斗は言葉を続けた。
「男子諸君、入学案内の5番目を思い出してくださいね」
「5 桔梗学園の生徒、学生の心身の安全を脅かす行為をする者は退学とします。」
そういうことですか。では、ファーストチルドレンの3名の男子生徒はどうやって煩悩を押さえ込んでいるのだろう。その答えは直に分かることになる。
大型ドローンを下りて、女子寮を通過する。各部屋には4桁の番号がついている。「2806」の番号を指さして、「女子の部屋はここです。2028年の6月入学ということです。」
個室を通過すると広いラウンジが見えて、その窓から小学校や園庭が見渡せる。
最後に「洗濯乾燥室」の表示を過ぎるとエレベーターがあるが、これも桔梗バンドをかざすと開く仕組みになっていた。
エレベーターで地下2階に着くと、そこには広大な図書館があった。しかし、蔵書はほとんど無く、貸し出し用の薄いタブレットが何台もあった。女子寮では息を殺していた柊がやっと口を開いた。
「紙の本は揃えてないのですか」
「基本的にここは、閉架式図書なんです。あそこに置いてある本は、研究室の学生や学園長、ここのスタッフなどが読み終わった本を寄付しておいてあるだけです。蔵書は総てデジタルでも読めるように加工はしてありますが、どうしても紙で読みたい場合は貸し出し手続きしてください。ここのタブレットはkindleですので、自室で好きな本をダウンロードしてください」
圭が質問をする。
「ダウンロードできるんですか。圏外だって聞いていますが」
「正確には5Gの圏外と言うことですね」
柊と圭は顔を見合わせて、同時に「6Gが使えるんですか?」と言った。
琉は「スターリンクだったりして」と小さい声で言った。
「少なくとも、外部の人とスマホで電話したり、女子寮の生徒と連絡は取れたりしないようになっています」と言って蹴斗は片目をつぶって見せた。
「クラスルーム」についたのは、4時半を回っていた。
「私の勤務時間は夕飯の6時までですからね」
との第一声で生徒を迎えたのは、スーツを着た北欧系の血が混じっているとおぼしき青年だった。身長は蹴斗とほぼ同じなので、190センチは優に超えている。透明の縁のセルロイドの眼鏡をかけ、その奥から灰色の目が冷たく光っていた。
「私の名前は、不二鞠斗。この学園の事務の大部分と対外交渉を任されています。いつもは私一人でオリエンテーションをしますが、男子は内容が女子と異なりますので、ここから男子と女子に別れて、生活についてのオリエンテーションをします」
男子と蹴斗が別室に行くと、鞠斗は営業用の笑顔を見せてオリエンテーションを始めた。先ほどの蹴斗に向けた冷たい態度は、仲間としての地なのだろうか。しかし、そう考える鞠斗も18歳と言うことになるが、どう見ても28歳にしか見えない落ち着きである。
「では私は明日からの皆さんの生活について、ご説明しましょう」
鞠斗もパソコンを使って、スクリーンに資料を写しだして説明を開始した。
「学園長もお話申し上げたと思いますが、現在女性が抱える問題や日本や世界が抱える問題を解決することを目指して、本学は開校されました」
堅い!女生徒3名の眉根がぎゅっと寄った。
「しかし、これから話す生活スタイルや学校生活は皆さんが変えたいと思った場合は、話し合いの上、変えることも可能です。ただし、問題解決の方向にベクトルが向いていない場合は、多分多くの賛同は得られないと思います」
突然、「はぁ~」と大きなため息をついて、鞠斗がネクタイを緩め、スーツの上着を脱ぎだした。ワイシャツのボタンを二つ外すと、傍らの椅子に座って足を組んで、砕けた口調に変わって話を再開した。
「駄目だな。さっきまで文科省の役人と話していたから、堅苦しい話し方が抜けない。君たちも頭に入ってこないだろうし、質問もしにくいよな。失礼して、ネクタイを緩めさせてもらうよ」
鞠斗はネクタイを緩めて、スーツの上着を脱いで椅子に座った。パソコンを膝に乗せて、椅子のキャスターですーっと後ろに下がり、スクリーンの前から移動した。
「まずは1日のサイクルの説明をする。
朝は6時起き 6時半から「朝飯前」の仕事をしてもらう
食事は8時、12時、18時。学習は午前9時から3時間、午後14時から3時間。
一応昼食後は1時間の昼寝が推奨されている。他の時間は自由時間。就寝はジャスト21時だ」
「質問は色々あるだろうが、総ての説明が終わってから聞く」
圭がスマホを取り出して、画面を写メし、質問事項をメモしだした。
「では、個々の説明に入る。
最初に「朝飯前」の仕事だ。6月に入校した君たちは、1ヶ月薫風庵で朝食作りをしてもらう。できあがった食事は学園長と『責任をもって』食べること」
つまり、失敗したら自分で食べて片付けろと言うことか?料理に自信が無い紅羽は舞子をちらっと見る。舞子は「大丈夫」と親指を立てる。
「食事が手早く出来るようになったら、薫風庵の家事を諸々やってもらう。時間的に余裕があると思っているだろうが、食材を畑から収穫するところから行うし、気の利いた連中は昼食の仕込みまでして帰るからな」
「それから、この時期は悪阻で苦しむものが出るはずだ。吐きながらでも、匂いがきつくても仕事は行ってもらう。3人でだ。男子には、竹林の整理をしてもらう。雨で濡れた竹林に妊婦を入れるわけに行かないから」
結構広い竹林だ。3人じゃかなりきつい仕事ではないかな?舞子が心配する。
「7月になったら悪阻も治まる頃なので、畑の管理、食堂の調理の下拵え、離乳食作りと順に進み、9月になったら、新生児室や乳幼児室の補助に入ってもらう。自分の子供が生まれた時はベテランになっているだろう」
「保育はな、机上の空論じゃないんだ。昔は親戚みんなで助け合って分け隔て無く、子供を育てていた。子供は天からの『預かりもの』なんだ。『案ずるより産むが易し』というのも、産んでしまえば、どうにかなったからだ。桔梗学園ではここにいる全員で子育てをする」
鞠斗は灰色の目を細めて、「安心しろ」と言った。
毎日変化する体におびえ、一人で育てる不安を抱えている桔梗学園の入学生にとって、心にしみる言葉だろう。
しかし、紅羽と舞子が感動している空気を破って、圭が質問する。
「鞠斗さんも子育てしたのですか?」
「勿論。私たちが産まれて数年後、1期生の母親はみんな新しい事業の代表者として駆け回っていたので、小学生に上がった者は、1日数時間は必ず子守に駆り出された。だから1人で5人くらいの幼児を見ていた」と遠い目をして鞠斗は言った。
圭の頭の中に、小学生の鞠斗が赤ちゃんをおんぶしながら、4人の赤ちゃんのおむつを替えている映像が流れた。
「次に学習についての話だ。
どんなに生成AIが普及していても、そこで何が出来るか、どこが間違っているか理解するには、やはりそれなりの知識が必要だ。また、世界の現状を理解しないと、日本の問題点が分からない。またプログラムを組むにも倫理観が欠如していては、将来に禍根を残すことになる。
この3点を考慮し、基礎学習期間にマスターしなければならない分野がある。君たちにも得手不得手があるだろうから、各自自分のペースで進めてよい。
授業はない。必要なテキストは用意してあるので、使ってもいいし、先輩達がまとめた学習映像が多数あるので、それを利用してもよい。
それからそれでも学習が進まない場合は、誰かに助けを求めてもよい。『目があって、耳があって、口があれば、必ず目的地にたどり着く』」
「いい言葉ですね」紅羽が突っ込むと、
「私の母の口癖だ。母は、蹴斗の母親一村遊の経営するシスターコーポレーションで、営業を担当している」
入学前に桔梗学園についてかなり調べてきた圭は、「シスターコーポレーション」についても知っていた。
桔梗学園が認可校でなくても困らないのは、卒業後就職を確約している「会社」があるからだ。当初は学園長の妹が運営する会社、教育系コンテンツ開発会社「九十九カンパニー」1社だけだったが、選択肢を増やすため出来たのが、蹴斗の母親の「シスターコーポレーション」だ。
この会社は「ナニー」を派遣する会社だが、主に海外出張に子供を連れて行きたい女性のサポートに回ることが仕事だ。子供を連れて行っても大丈夫な交通機関、ホテルなどの選定予約、現地での子供の安全、教育すべてを賄う。
秘書、子供の家庭教師、執事、ボディーガード、すべてを担うスーパーウーマンの派遣である。1週間の派遣で日当だけで50万円はくだらないというスタッフもいるらしい。そこまでにするには営業の力も大きいだろう。鞠斗は小さい頃は、母親とほとんど会えてないのではないか。
「君は私が、母において行かれて、かわいそうな生活をしてきたと同情しているだろう」
圭に顔を向けて、鞠斗が見透かしたように言う。
「残念ながら逆だね。私と蹴斗が小さい頃は、海外で起こる子連れトラブル検証のために、二人の母親と世界中回ったんだ。結構楽しかった」
「話を続けよう。夕飯に間に合わない。先ほど、空豆を茹でるいい匂いがしてきた。遅れるとおかわりが出来ないかも知れない」
急に18歳の素顔が出てきた。
「まず、基本は英会話だ。英語の新聞も読めないと困るし、TVも英語での放送が聞き取れないと困る。基本英文法は1ヶ月以内にマスターしてもらい、単語数をどんどん増やしてもらう。食堂での会話は基本英語で、メニューも、毎日送られる学園内の予定やお知らせも英語で流される」
「薫風庵と保育施設以外は、公的な場所は英語だと思ってくれ」
紅羽が質問した。「保育施設にいる子供も、小さい頃から英語に慣らした方がいいのではないんですか?」
「いい質問だ。日本語は習得に時間のかかる特殊な言語だ。小さい頃に日本語と他国の言語を一緒に頭に入れると、最悪、言葉の後れにつながる場合がある。一見バイリンガルに見えるように育った子供も、日本語での複雑な思考が出来ていない場合もある。桔梗学園でそういう例が散見されたので、本学園で産まれた子供は、中学段階から英語を学ぶことにしている。と言っても、周囲に英語が溢れているので、発音はみんなネイティブ並みになるよ」
「話を続ける。エビと空豆の炒め物の匂いがする」
どんな嗅覚をしているんだ。舞子もそんな匂いがするような気がしてきた。
「同時に数学だ。コンピュータの操作も必須になるので、とりあえず、数学Ⅲ程度の知識までマスターしてもらったら、コンピュータ言語を学んでもらう。今回入った中で、板垣君と狼谷君は、そこそこ出来るようなので、『気が向いたら』周囲のサポートをしてくれ」
「気が向いたら」という言葉について、圭がそれが使われた意図を考えているうちに、話はどんどん進んでいく。
「後は、順不同に簿記。統計学。経済学。法学。データサイエンス。運動生理学。哲学。
心理学。経営学。地政学。地球学を学んで貰う」
「簿記以外は、マスターというレベルでなくていい。課題図書を数冊ずつ指定しておくので、それを読んでおくこと」
どう考えても、高校3年生のレベルを遥かに超えた内容だ。課題図書のレベルによったら、大学の一般教養2年分の内容だ。
「鬼だ。こんなの徹夜しても、1年間で終わるわけない。ゲームも出来ないよ」
圭が大きく伸びをしながら、天井を向いた。
「徹夜はいけません。学習時間で指定した時間以外は、手を付けてはいけませんよ。寮に持ち帰って勉強なんってもってのほかです。それに出産後1ヶ月は、根を詰めた読書はいけません」
「ますます無理じゃん。だって、6月から入っているから9ヶ月しかないじゃない」
「君たちは、今まで高校で毎日6時間ずっと学んできて、気が抜けたり、居眠りしたりしたことはなかったかな。毎時間すべて集中すれば、このくらいの課題はすぐ終わるよ。そしてそれが出来ない生徒には入学を許可していない。コネで入ったと思っている生徒もいるようだが、そもそも無理なら入学させていない。3人組なのも意味があるしね」
「3本の矢ですか」紅羽が言った。「そうだ。1人では出来なくても3人でなら出来る」
「最後に、昼寝時間と就寝前の自由時間だ。
昼寝時間は体力的に必要なものが取ればよい。医者から強制的に取れと言われない限り自由裁量だ。ただ、夏の畑仕事が「朝飯前」仕事に入ったりすると、動けなくなる生徒が多いようだ。
就寝前の自由時間は、運動、研究、入浴(ここには温泉もある)、ゲーム、部活動など好きに使ってくれ。洗濯には、多分ほとんど時間を割かなくてよい機械が入っているので、周囲の先輩に聞くか、寮の部屋の情報表示装置に聞いてくれ。
自由時間は『有効に』使ってください。では食堂に案内します」
「部活動」や「洗濯」など気になるワードがあって質問したい気持ちはあるのだが、「腹が減っては戦は出来ない」ので、鞠斗に続いて部屋を飛び出した。
男子がオリエンテーションを受けていた場所はわからないが、多分もう終わって一足先に食堂に向かっていったのだろう。食堂で情報交換しようと考えながら、舞子たちは食堂に向かった。