薫風庵
坂道を上がりきるとその奥に和風の住宅がある。そこが学園長五十嵐真子の住居「薫風庵」である。
住宅の庭には、ドローン5機が着陸しても大丈夫なくらい広い芝生の庭がある。それをぐるっと囲むように竹林があるが、よく手入れされているようで、その隙間から5月の風が吹き込んでくる。
真子学園長は広い縁側で、藤製の椅子に座って、智恵子と一緒にお茶を楽しんでいた。
白いものが混じった髪を無造作に縛った真子は、ゆったりとした若草色のワンピースを着ていた。マグカップを両手で包むように持って、上目遣いに庭を見ていた真子は来客に気がつくと、にっこり笑って「いらっしゃい」の形に口を動かした。
「遅くなりましたぁ。」と蹴斗は真子に声をかけ、そのまま庭を突っ切り、縁側の靴脱ぎ石で靴を脱いで「ここから上がっていいよ。」と手招きしている。6人は顔を見合わせて、立ち止まってしまったが、知恵子が「早くいらっしゃい」と催促するので、ドタドタと縁側に上がっていく。
最後に舞子が残って靴を揃えようとすると、涼が静かに舞子の背を押して、代わりに自分が6人分の靴を揃えた。
奥の座敷には来客人数分藤製の椅子が用意されていた。
真子が床の間を背に座ると、「薫風自南來」の掛け軸が目に入る。
知恵子が真子の左手に席に座って言った。
「奥に台所があるから、それぞれ好きな飲み物とお菓子を持ってきなさい」
田舎のおばあちゃんの家に来たような扱いだ。それでも柊と紅羽、舞子がすぐ席を立って台所に向かった。それを見て、琉も後に続いた。
涼はぼんやり座敷の中を見回し、圭は庭のドローンを凝視していた。
「涼さんは台所に行かないの?」
涼は、学園長の質問に言葉少なに答えた。
「大勢で台所に行っても混雑するだろうし、多分舞子が適当なものを見繕って持ってきてくれると思うから」
「おやおや世の旦那様と同じ行動なのね。大丈夫、これからほとんどの時間、舞子さんと会えなくなるので、すべて自分で行う練習をしてくださいね」
「そんなつもりでは」
涼は赤面しながら、台所へ向かった。
「圭さんはドローンの方が気になりますか」
「最新機種のドローンを見る機会を大切にしたいです。食べ物にはあまり興味がないので、皆さんが持ってきた残りをいただこうと考えていました」
「食べ物は生きるエネルギーです。明日から私の朝食を作っていただこうと思っていたのに、残念ですね」
「え?私は勉強しに来たのです。朝食を作りに来たのではありません」
「では誰があなたの食事を作るのですか?学園の予算は皆さんの勉学に大方割り振っているので、給食調理員を雇う余裕はありません。包丁もまともに持てない高校生が、学園全体の食事を作れますか。千里の道の一歩目をここで練習していただくのです」
圭もパラダイス思考で、桔梗学園を選んできた口だった。
その頃台所は、調理実習のような様相を呈していた。
「舞子、すごいね。冷蔵庫の中に洋菓子、和菓子、よりどりみどりだ」
「紅羽、こっちの棚に、クッキーなんかもあるよ」
「コーヒーメーカーがあるから、みんな珈琲でよくないか?」
「妊婦は珈琲は飲めないの。私は、匂いも気持ち悪い」
「じゃあ、何だったら飲めるんだよ」
「おい、ここに麦茶が薬缶いっぱい作ってあるぞ」
柊は、台所の端の日の当たるところに、麦茶が置いてあるのに気がついた。いつも母の椿が、日光に当てて水から麦茶を作っていたのだ。
「そうか、母さんはここの台所で過ごしていたんだ」
気がついた柊は、もう一つの課題にも気がついた。そして全員に声をかけた。
「おい、これは試験じゃないのか。妊婦にふさわしいものを考え、手際よく用意するという」
10分後、全員の席に涼しげなガラスのコップに入った麦茶と、カロリーが控えめな和菓子が用意された。暑さにやられた琉だけは、麦茶に氷を入れてもらったが、他の男子は体を冷やしてはいけない妊婦に合わせて、ぬるい麦茶を並べた。
「流石ね。6人いると文殊以上の知恵が出るのね」
真子学園長は満足そうに微笑んだ。
「では、手を合わせて、いただきます。
食べながら映像を見てくれると嬉しいわ。晴崇、用意はいいですか?」
下座の襖が静かに開いて、その奥にスクリーンが見えた。
スクリーンの脇では、さっき子供達を屋内保育室に届けに行った晴崇が座っていた。彼は膝にパソコンを置いて「了解」と言うように左手を挙げていた。
スクリーンには、遊び疲れて眠る瑠璃と、哺乳瓶でミルクを飲んでいる梢が写っている。保育係の若い女性がこちらの呼びかけに応じて手を振っているので、リアルタイムの映像だと言うことが分かる。柊と琉が顔を見合わせて、ほっとしている。
続けて画面には「桔梗学園の沿革」という文字が浮かぶ。普通の入学オリエンテーションでは、すべての生徒を眠りに誘う題材だ。
しかし生成AIを使って作られた映像は、彼らの斜め上を行っていた。質問やつぶやきを拾って、それに応じて映像が変化するのだ。
最初に五十嵐真子の顔がアップで写る。テロップは「五十嵐真子68歳」。
「年齢はいらんわ」というつぶやきが真子の方から聞こえる。生徒が吹き出す。
真子の顔は少しずつ若返っていき、30歳の真子の顔が浮かび上がる。紅羽が「美人だわ」とつぶやくと、映像の真子がにっこり笑って、「どうも」と答える。
30歳の真子が、高校の教壇で教える姿が映し出される。その映像が次の文字で消される。
「教科書を教えるだけならば、誰でも出来る。
国や企業の役に立つ生徒を作るのが教員の役目なら辞めてしまいたい」
次に、九十九珠子の顔が映し出される。舞子が紅羽に「レストランのおばさん。五十嵐学園長の妹さんだよ」と教える。この顔も、真子同様に若返り、大学生の姿になる。珠子が妊婦姿で、大学生活を送り、教育実習を受け、教員試験に合格し、子連れで大学の卒業式に出る姿が紹介される。
圭が「今から40年も前にこれやったの?すごい」とつぶやく。
しかし、次の映像は子供を負ぶって小さな九十九農園で、義理の両親と農作業をする姿が映し出される。
「教員になれなかったんだ」と誰かのため息が聞こえる。
次の映像にはドローンが広大は圃場を飛ぶ様子や、無人トラクターが畑を走る様子が次々と映し出され、それを操作し、データを検討し合う九十九夫婦の姿も見える。現在の広大な九十九農園の繁栄が紹介される。
「すげー。プロジェクトXだ」と琉がつぶやくとそれに呼応するように、画面が「プロジェクトX」風に変わり、ご丁寧に「地上の星」の音楽まで流れ始めた。
「え?俺の心読んだの?俺が先読みしたの?」という琉に、「生成AIじゃないかな。俺たちの言葉に反応しているとしか思えない」と柊が答える。
九十九農園の企業PR動画に危うくなりかけそうなタイミングで、桔梗高校近くの五十嵐義塾が映し出される。
「あ、五十嵐義塾。俺の父さんも通ってた」と柊が声を上げる。映像は古い映像に変わり、生徒の顔が映し出される。「嘘、あれ家の父さん?」「家の母さんもいる?」
「晴崇、受けを狙って、嘘の映像を混ぜないの。塾の中で生徒の写真撮ったことないから」
学園長に怒られて、晴崇が首をすくめた。生成AIの恐ろしいところである。
再び、九十九珠子が映像に写るが、その隣には五十嵐姉妹の母秋子も写っている。映像から、仕事に余裕の出来た珠子が、母の塾を手伝う様子が分かる。そしてその映像を次の文字が消していく。
「16歳で妊娠した女の子が、学び続けられないのは何故。
女性は子育てを理由に昇級も昇進も出来ないのは何故」
突然、新聞記事の1面が映し出された。「1.57ショック」
合計特殊出生率が1.57人の将来が、グラフで表された。
生徒達は口々にこの影響について話し出した。
「小学校が合併されたよね。僻地の学校はほとんどリモートで授業されているって」
「高校だって学級数が少なくなって、先生方の負担が増えて、ますます教員のなり手がいなくなったって、親父が言ってた」
「柔道の大会参加校が減って、ほとんどの学校で団体戦が組めなくなったよね。
学校の部活動が地域に移管されたので、インターハイもそろそろ無くなるんでしょ」
「病院も減ったし、鉄道の職員が減らされたから、線路の管理が出来なくなって鉄道の運休が増えたよね」
「人口減で税収が減ったので、老朽化したインフラが壊れても修理が追いつかないんだよ」
流石、受験校の生徒、社会問題についての理解が深い。
映像が途切れているのにも気がつかず、生徒達は話し続けた。いつのまにか、晴崇が机の上の菓子皿とコップを片づけ始めた。そこで全員が振り返って真子学園長の顔を見た。
「というわけで、私たち姉妹は、総てを解決する学校を作ろうとしたのです」
時計を見ると4時近くなっている。
「いつもは、このまま次の会場まで歩いてもらうのですが、小さいお子さんも待っているので、今回はドローンで移動してもらいましょう」という真子学園長の指さす方向をみんなが見る。
庭には、さっき圭達が乗ってきたD2より、遥かに大きい機体が待っていた。D2は先に智恵子が乗って帰って行ってしまったのだ。
「では、みなさん。乗車してください」運転席から蹴斗が顔を出していた。