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夫として

少し残酷でリアルな場面があります。苦手な方はご注意ください。

 午後にS大学にやってきたK体育大学やS県警察、自衛隊の選手は、舞子の練習姿を見てびっくりしていたが、涼達はそのあいだ舞子の対戦相手のデータを着々と収集していた。


 「牧子、舞子は全然練習できないじゃない。本当に4月の大会に出るの?」

K体育大学の長野選手が、牧子に近づいて聞いた。

「長野先輩、舞子は午前はバンバン投げ込みしていましたよ。妊娠8ヶ月じゃないみたい」

S県警察の富山(とみやま)も、舞子を静かに見つめていた。

「あの榎田って、昔、軽量級だったじゃない?舞子の付き人みたいに、ひょこひょこついて回っていた子。なんか雰囲気変わったね」

「富山先輩、舞子はあの榎田と結婚したんですよ」

富山は社会人として選手をしているだけあって冷静である。しかし長野は、舞子に毎回煮え湯を飲まされているので、冷静ではいられなかったようだ。

「ばっかじゃない?『ママでも優勝』?高校辞めさせられて、変な企業に拾われて、広告塔として利用されているだけじゃない」

「長野は言うことがきついね。私は外国選手みたいに、出産しても選手が続けられるのは、羨ましいな」


「そう言えば、いつも舞子の試合にも練習にもついて回っていた親父はどこにいったの?」

「そうだね。いつも舞子は怒鳴られていたもんね。試合の度に、親父に髪を刈り上げにされてさ」

「舞子はあの親父から逃げ出したかったんじゃない?」


 去年までの舞子を知っているライバルからしたら、天然パーマの髪を伸ばして、マニキュアまで塗って、涼と楽しく柔道をしている姿は、別人のように思えた。



「おい、3デブ。デブは動かないから太るんだぞ。しゃべってないで、走れ」

K体育大学の傳田権太(でんだごんた)監督が、壁際で話していた3人を怒鳴りつけた。


壁際で米菓のデータの集約が終わった笹木が、コーチの言葉を聞きつけて、(くが)医師達に話しかけた。

「柔道って、ああいうハラスメントが、許される世界なんですか?」

「さあ、個人の資質じゃないかな?」


それを聞きつけた傳田監督が、3人のところに歩いてきた。

「これはこれは、美人さんが揃って、誰のファンかな?え?女医さん。舞子のために来ているんだ。じゃあ、言ってやりなさいよ。『赤ちゃんのために、妊娠中は大人しくしていろ』って。流産でもしたら大変じゃないですか」


「失礼なこと・・・」

怒った(しゅう)が陸医師の前に出ようとしたところ、蹴斗(しゅうと)が腕をつかんだ。そして柊の耳元でささやいた。

「マネージャーの仕事をしろ。鞠斗(まりと)ならどんな状況でも笑顔でいるぞ」

柊の背中を軽く押して、陸医師が笑顔を見せた。


「ご忠告ありがとうございます。最先端の医療では、妊娠中も運動できるようになっているんです」

「偉い女医さんに言われちゃ、俺たち馬鹿は何にも言えないですね。ところでお宅達のチームの監督は誰ですか?ご挨拶したいんですが。いつも来ている舞子の親父はどこですか?」

舞子の父親が詐欺罪(さぎざい)で捕まったことを、百も承知で大声で嫌がらせを言った。


 一歩前に進んだ涼を押さえて、舞子が傳田(でんだ)監督の前に進んだ。

「『チーム舞子』の責任者、東城寺舞子(とうじょうじまいこ)です。今日はうちのチームのオユンとマリア、榎田(えのきだ)が練習に来ております。短い時間ですが、(よろ)しくお願いします」

そう言うと、返事も待たずに、自衛隊とS県警察の監督への挨拶をしに立ち去った。


 「挨拶がない」などという人物は、根に持つタイプが多い。練習の間中、自分の選手を使って、オユンとマリアに嫌がらせをしようとするが、2人はK体育大学の選手に練習を申し込まれても、決して相手にしなかった。

 我慢しきれなかった監督はついに、自分が練習場に出てきた。涼の襟首を(つか)むと噛みつくように言った。

「榎田君、お父さんになるんだって?おめでとう。一本稽古をお願いします」


 傳田はT大学の卒業生の中でも、後輩に最も嫌われている。今日合宿に来た2人の監督の先輩にも当たるので、誰も傳田を止めることは出来ない。S大学に来ているのは前任の監督がT大学のOBだったからで、前科徳がいた当時は傳田も大人しくしていたが、S大学の卒業生で、かつ女性でもある野田監督の言葉など聞く訳がなかった。


 そして、そういうヤツほど、強いのも確かだ。

傳田はもう30代後半にもなるが、未だに全日本選手権で上位に食い込むほどの実力の持ち主だ。190cmを越える身長から、相手の奥襟を掴んで、大外刈りをする。気が向かないと大外刈をした後、わざと相手の体重を預けることもある。彼と試合をして、肋骨(ろっこつ)にひびが入ったという話を毎年聞く。


 舞子に「大丈夫だ」と目配せをして、涼は傳田との乱取りを始めた。正確に言うと、「かわいがり」というヤツだ。傳田は右組なので、涼は喧嘩四(けんかよ)つで間合いが取りやすい。喧嘩四つの場合、傳田はいつも、相手の柔道着の前襟(まええり)を掴んで、長い腕で相手の奥襟を掴んで巻き込むように大外刈をする。

 パターンはいつも同じなので、涼は前襟を掴もうとする傳田の手のひらに、自分の手のひらを合わせるように止めて、素早く傳田の袖口を掴んで下に引き落とした。

傳田がにやっと笑って言った。

「榎田君、マニキュアがキラキラしているね」

その瞬間、傳田の右手が涼の奥襟を目指して飛んできた。しかし、涼は素早く半身を下げて間合いを取った。それでも傳田は、一歩大きく踏み込んで涼の奥襟を取ろうとした。


 涼はそれを待っていた。踏み込んだ傳田の右足が、畳に着く寸前に涼の足払いが、傳田の足を捉えた。傳田は足を払われて、仰向けにひっくり返った。

普通はそこで手を離すのだが、涼は手加減をしなかった。立ち上がろうとして、畳についた傳田の右手も掴んで、前に引き出した。両手が捕まれて、立ち上がれない傳田はそれでも、涼を引き戻して立ち上がろうとする。

 勢いよく立ち上がろうとするその瞬間に、涼は体落としで、傳田を畳にたたきつけた。立ち上がろうとした力をそのまま利用されたので、傳田はかなり強く背中を打ち付けた。

マニキュアの威力か、5分の乱取りの間、涼は1回も傳田の両袖を離さず、柔道を引きずり回した。


「失礼だ・・・ぞ。は・な・せ・・・」

傳田は大学時代も走り込みなどせず、力(まか)せ、体格任せの柔道をしてきた。つまり柔道に必要な体力や持久力というものは全くない男なのだ。

 5分間投げられては立ち、投げられては立ちという練習は、今まで1回もしてこなかった。最後には半分意識を失いかけてしまった、その無抵抗な傳田に、涼は馬乗りになって送り襟締めをした。


 道場中の人が、最初は心の中で快哉(かいさい)を放っていたが、その内にあまりの涼の豹変(ひょうへん)ぶりに恐怖心まで抱くようになった。息1つ上げず、無表情に傳田を引きずり回して投げ続ける涼は、ロボット兵士のようだった。


「は~い。それまで、涼君、(かつ)を入れて蘇生(そせい)して。猪熊君と変わらないよ。傳田監督は、もう、立派な熱中症患者だから。医者のいないところで、こういう練習しちゃ駄目だよ」

「監督の先生方、傳田先生を板場に持ってきて、柔道着脱がしてね」

 乱取りを止めることなく、呆然とみていた他校の監督達は、はっと意識を取り戻した。目の前には、よだれを垂らして気を失っている傳田監督が転がっていた。自衛隊の監督が、活法(かっぽう)をして傳田の意識を回復させたが、傳田は頭を抱えて、また体を横たえてしまった。


 (くが)医師と久保埜(くぼの)医師が、倒れている傳田監督に、冷たい点滴を打ち、バスタオルを体一杯に掛け、冷水で冷やした。

「柊君、救急車要請して」

「野田監督、今の時間と道場の室温を記録してください」

「酒臭いね。傳田監督は、二日酔いか?じゃあ、自業自得だね。二日酔いで乱取りを自分からしたんだから。そうですよね、皆さん。アルコール血中濃度も高いね。まさか、これで運転してきた訳じゃないですよね」

 3人の監督は、前日深夜まで酒盛りをしていたのだ。救急車にはしょうがなく、久保埜医師が、K体育大学のマネージャーと一緒に乗っていった。



 T大学の救急車騒ぎとは違い、道場の温度は適切だったので、午後の練習はその後も何事もなかったように進んだ。残されたどの監督も生徒を侮辱するような言動がなくなり、和気藹々(わきあいあい)とした練習会となった。

 傳田監督は、K体育大学関係者によって病院から引き取られていった。その時、飲酒運転について、久保埜医師からバラされ、傳田は1年ほど監督からコーチに降格させられた。彼が、その後も不祥事を起こして、監督から外されたのは、この2年後のことであった。



「涼って、ああいう男だったんだ」

その後も、女子の乱取り相手を粛々としている涼を見ながら、柊がつぶやいた。

「涼、愛する女を侮辱されれば、温厚な涼も切れるってことだ」

「蹴斗はそう思うんだ。本当にそれだけかな?なんかあいつの中に、どす黒い本性(ほんしょう)があるような気がする」

「涼だって、舞子が侮辱された時、文句を言いに行こうとしてたじゃないか」

「涼の姿を見ていたら、なんか、俺の行動は安っぽい正義感だったのかなって思う」

陸医師も話に加わった。

「いやあ、私達ももっと早くドクターストップ入れるべきだったけれど、つい見逃しちゃった。柊君、私達もどす黒い?」



 練習の最後に、舞子は、涼が傳田を倒した組み手を反復していた。

「このタイミングで、左右の足払いできるってすごいね」

「あの人の組み手は、単調だから狙いやすかっただけだね」

「ただ、組み手を切らせないだけでなく、切ろうと足を下げたタイミングにも足払いが出来るね」

「マニキュアのお陰で握力が上がって、組み手が簡単に切られなくなったからかな?」

「涼の手を見せて、マニキュアは大分()がれているんだけれど、本当にマニキュアの効果かな。オユンは、マニキュアに効果は感じないって言っていたよね。効果があるって思い込むと力が出るとか」

「でも、舞子のはまだ剥がれてないだろう?研究結果を待とうよ。ただ、組み手を切られすぎると、指の第1関節の靱帯(じんたい)が切れまくって曲がるから、切られない方がいいけれどな」


「こほん。あのお二人で手を握り合って、いい雰囲気のところすいませんが、練習が終わったので体操体形に開いて貰えますか?」

S大学のキャプテンの言葉に、舞子と涼は2人の世界から引き戻された。

そこには先ほどみんなに見せた鬼の形相ではなく、顔を赤らめた若いカップルがいた。



「本当に今日はありがとうございました」

最後にS大学の監督と選手に挨拶をした「チーム舞子」の面々は、まるで大学のサークルのような明るいのりで帰っていた。なんと言っても、明日は一日休養日で、横浜観光に行くのだから。


「絶対に、舞子には優勝させない。あんなにチャラチャラしていて、いい男に囲まれて、その上強いなんて、許せない!」

そこにいた舞子のライバル達は、みんな心に強く思った。


「新しい時代がやってきたかもね」

野田監督も、選手達とは別の意味で羨ましいと思った。



 2日間の合同練習の後は、1日横浜観光が出来ると柔道練習に行った面々はウキウキした気分だった。


しかし、九十九カンパニーに戻った「チーム舞子」の前に、迎えに出るはずの紅羽(くれは)の姿はなかった。

まだ完全に髪が乾いていない鞠斗(まりと)と、(りゅう)がみんなを迎えに出てきた。

琉が、鞠斗の代わりに理由を説明した。鞠斗は下を向いて青い唇を震わせていた。

「落ち着いて聞いてね。紅羽が電車の中で破水しちゃったんだ」


鞠斗と紅羽は、今日は電車でW大学に行って、大学教授に会いに行っただけで、昼過ぎには、九十九カンパニーに戻ってゆっくりしているはずなのに、何が起こったのだろうか。


「鞠斗どういうことなんだ」

蹴斗が鞠斗に詰め寄った。

「観光客でいっぱいの電車が、雷の影響で長時間停まったんだ」


 それが起こったのは、鞠斗と紅羽が、大学で依頼していたデータを受け取り、大学教授から「音楽や表現の人間の心理に与える影響」の説明を受けて、横浜に帰る途中のことだった。

急に雨が降ってきて、雷鳴が轟いた。光ると同時に「ドカン」「ドカン」何度も大きな音がするので、狭い電車内では、観光に来ていた子供や若い女性が泣き叫び始めた。

 

 紅羽も余り雷が得意でない上に、長時間立っていたせいで、どんどん具合が悪くなってしまった。

「ごめんな。蹴斗じゃなくて」

そう言いながらも、鞠斗が紅羽を抱きかかえるようにしていた。

「鞠斗、もう駄目」


抱えていた紅羽が、完全に意識を失ったのを知った鞠斗は、大声で叫んだ。

「すいません。妊婦です。具合が悪いんで、医者を呼んでください」

冷静な鞠斗とは思えないような大声で何度も叫んだ。

椅子に座っていた女性が、紅羽の足を伝う一筋の血液を見つけた。

「血が、足に血が」


そこからは早かった。乗客の女性達が協力してくれた。

「破水しているわよ。座席空けて」

中年の女性が大声を出した。

座席に座っている人が全員立って、紅羽を長い座席に横たえてくれた。鞠斗は自分の上着を紅羽の腰に掛けた。紅羽にペットボトルの水を飲ませてくれた女性もいた。


 車掌が呼び出した救急車は、10分程度で最寄りの駅に停まった。

紅羽は土砂降りの雨の中、電車の外に降ろされ、線路を担架を担いだ救急隊員の手で最寄りの駅まで運ばれた。鞠斗も土砂降りの雨の中、線路を歩いて、紅羽と一緒に救急車に乗り込んだ。

運び込まれたのは、九十九カンパニー内の出産施設だった。紅羽の今までのデータが桔梗学園から送られてきたので、急な出産にも対応できた。


救急車が到着して1時間。赤ん坊は子宮口をどんどん下りてきて、帝王切開する間もなく、出産が終わった。子供は健康だった。紅羽は今、急激な体温低下と多量の出血のため、安静にしている。


「紅羽は一人で子供を産んだのか」


舞子が蹴斗の背中を叩いて言った。

「鞠斗がいたじゃない。鞠斗が一緒にいたから、無事に出産できたんでしょ」


「いや、俺が大学に聞く人選を間違えた」

「鞠斗は自分を責めちゃ駄目。そもそも今回の研究は、紅羽に私が頼んだ研究なんだから」


病室の廊下に、九十九カンパニーの助産師が出てきた。

「病人がいるんです。静かにしてください。鞠斗さんもまだ、体温が上がりきっていないんですから、ベッドでゆっくり休んでください」

涼が、真っ青な顔の鞠斗を抱えてベッドに連れて行った。

「赤ちゃんとは面会できますが、どちらがお会いになります?」

助産師は舞子と蹴斗を交互に見た。

舞子が「こっちが会います」と言って、蹴斗の背中を押しだした。


 蹴斗が助産師について、新生児室に入ると、小さなベッドに赤ちゃんが眠っていた。少し赤みを帯びてはいるが、白い肌に黒いストレートヘアの赤ちゃんだった。

その足には「高木紅羽 2,900g」と書いた青いバンドがついていた。

「男、ですか?」


赤ちゃんの様子を見ていた産婦人科医師が答えた。

「立派なものがついていますよ。男の子ですから青いバンドね。体重も書いてあったでしょ。お母さんが大きい方なので、子供もこの月齢にしては、大きいですね。未熟児じゃないから安心してください。

 破水した場所が場所なので、感染症の可能性がありますから、すぐには抱っこさせられなくてご免なさい。お母さんももう少し体力が戻ってきたら、授乳を始めて貰いますね」


 新生児室に陸医師が入ってきた。紅羽の各種データを確認すると、九十九カンパニーの産婦人科医達に礼を言った。

「助かったよ。こっちも連絡されてもすぐ来られなかったから」

そして、呆然と立っている蹴斗に声を掛けた。

「赤ちゃんに感染症が見つからなかったら、ドローンに乗せて帰るから、5日後くらいには帰れるね。

蹴斗は紅羽の病室にも行くだろう?」

「はい」

蹴斗が18歳の青年らしく答えた。


 ベッドに横たわる紅羽は、点滴を刺し、酸素吸入器を付けて横たわっていた。紅羽の目から流れる涙を(ぬぐ)いながら、蹴斗は紅羽の布団に(ひたい)をつけた。紅羽に掛けられている布団に小さな血液のシミを見つけた。

(たくさん出血したんだろうな。1人で産んで心細かったんだろうな)


布団にかかる重さが紅羽の眠りを妨げた。酸素吸入器を自分でずらして、紅羽が口を動かした。

「蹴斗?生まれちゃった。待ちきれなかったよ」

「頑張ったね。(そば)にいられなくてゴメン」


紅羽は少し頭を上げて、周囲を見回した。

「鞠斗は大丈夫?ずっと私を抱えていてくれたんだ。私、足に力が入らなくてさ。雨の中、びしょ濡れで、風邪を引いたんじゃない?すごい、叫んでくれたんだよ。お陰で、周りの人も協力してくれて・・」


「鞠斗は・・・謝っていた。紅羽を大学に連れて行った俺が悪かったって」


急に起き上がろうとする紅羽の体を、蹴斗は押さえた。

「ちょっとぉ、雷は鞠斗のせいじゃないでしょ?一人で大学に行くって言う私のわがままを聞いてくれたのは、鞠斗なんだから」


「俺が一緒に行けば良かった」

「何言っているの?どっちがついてきても、雷が鳴るのは変わらないでしょ。もしかして、鞠斗に焼き餅を焼いているの?」


 蹴斗も分かっていた。誰のせいでもない。紅羽に着いていくのも鞠斗で良かったはずだ。でも、紅羽の危機に一緒にいられなかった自分が歯がゆかったという我が儘(わがまま)なのだ。


助産師がやってきて、二人を見て目くじらを立てた。

「酸素吸入器を外しちゃ駄目でしょ。でも、顔色は良くなりましたね。搾乳(さくにゅう)してみますか?この方は?」


二人で顔を見合わせて、紅羽が言った。

「夫になる人です」

蹴斗は初めて見る紅羽の胸から、少しずつ母乳が流れてくるのを、見てはいけないけれど見たいという複雑な気持ちで見ていた。

少し小振りな紅羽の胸から、助産師のマッサージにより母乳が勢いよく出始めた。それを消毒した哺乳瓶に入れると、助産師は蹴斗に手袋を着けさせてから渡して言った。

「はい。お父さん、初めての授乳ですよ。赤ちゃんの部屋に行きましょう。赤ちゃんのお口の中に乳首をしっかり入れてあげてね」


新生児室にいる赤ちゃんは、生まれたての猫のような声で泣いていた。

「ふにゃぁ、ふにゃぁ」

新生児の、何かを(つか)むような細くて長い指が、哺乳瓶を拒絶しているような気がして、蹴斗は立ち止まってしまった。助産師が赤ちゃんの頬を軽く突くと、首を蹴斗のほうに向けて、ミルクを欲しがった。

「ほら、赤ちゃんのお口に、哺乳瓶を(くわ)えさせて。それじゃあ空気が入るから、もっとまっすぐに」

 桔梗学園で哺乳瓶を使って赤ちゃんにミルクをあげたことなんて、何回もある。しかし、自分の子供になる子供にミルクをあげるのは初めてだ。初心者のお父さんは、涙を流しながら、哺乳瓶を震える手で支えた。

 浅黒い自分の肌の色が、縮れた髪が、自分はこの子の遺伝上の父ではないと言っている。でも紅羽の子は俺の子なんだ。遺伝上の父だったら、もっと違う涙を流したんだろう。


だからこそ、紅羽の出産に付き添いたかった。


「泣き虫なお父さんですね」

陸医師からからかわれている言葉も耳に入らなかった。



 授乳が終わった蹴斗は新生児室を出て、鞠斗の寝ている病室に向かった。ベッドサイドにいた涼は気を()かせて、病室を出て行った。

「鞠斗。ありがとう。紅羽がすごく感謝していた。赤ちゃんは2,900gで元気に俺の手から母乳を飲んでくれた。ありがとう。本当にありがとう」

ここでも、蹴斗は大泣きしてしまった。しかし、蹴斗の涙の真意を、今の鞠斗は理解できなかった。


タイトルは「横浜遠征その4」だったのですが、2人の「お父さん」の話が中心なので、タイトルを換えました。

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