横浜遠征その2
講道館杯見学組の話です。目指す大会と同じ会場を実査しに行ったのですね、
涼達がT大学に行っている間、舞子達は講道館杯を見に行った。
「あっ、廣井監督ご夫妻だ。挨拶に行ってくるね」
舞子は横浜体育館に着くと同時に、入り口でお目当ての人を見つけた。
「廣井監督、美鳥監督、ご無沙汰しています。東城寺舞子です」
「あらー。舞子ちゃん、お腹が目立つようになったわね。今何ヶ月?もう性別も分かるんでしょ?」
出産後も、選手生活を続けていた廣井美鳥は、舞子が憧れていた選手の1人であった。
「今8ヶ月です。男の子で名前ももう決めました。冬月です。廣井監督、今日は夫の榎田をT大学で受け入れていただき、ありがとうございます」
「ごめんね。今日は俺こっちに来なければならないんで、T大学には、君のお兄さんの悠太郎と森川を置いてきたよ」
「はい、お手数おかけします。美鳥監督、S大学の野口監督への口利きありがとうございます。明日は1日伺います」
「まさか、あなたは柔道はしませんよね」
「投げ込みくらいですよ。体を動かしていないと調子悪いですから」
「無理しないでね。野口鷗監督にも話しておくよ。舞子はすぐ無理するから」
「信用ないですね」
「今日は試合見学?」
「はい。先輩も出るので」
「試合に出る桔梗高校卒業生の応援をするために来た」と言うことが、今日大会会場に来た言い訳だった。
「では、試合を見学しに行きます」
桔梗高校の卒業生の、尾崎つばめは高校卒業後すぐS保険会社に入った。舞子は紅羽達を連れて、S保険会社の応援席に向かった。目的の人はすぐ見つかった。
「尾崎さん、ご無沙汰しています。東城寺です。今日は友達とつばめさんの応援に来ました」
捜していたのは、尾崎の両親だった。
「あらー。舞子ちゃん、お友達は何人かしら?」
実業団では、寄付金に応じて応援席が割り振られるが、選手の保護者以外は、現地の社員で応援席を埋めるために動員が掛かる。保護者以外も「選手の応援に来た」という人は、座席を譲って貰えるのだ。今回は鞠斗や蹴斗というイケメンハーフまで連れてきているので、席は問答無用で空けて貰えた。
「ありがとうございます。ここは君たちの席じゃないの?」
鞠斗の爆弾級の笑顔で、打ち落とされた現地動員組の社員は、応援団扇や弁当まで貢いでくれた。
「ありがとう。お昼は食べてきたんだ。でも団扇は借りるね」
蹴斗も笑顔の使い方が大変上手だ。紅羽がちらっと不機嫌な顔で睨んだが、彼女は自分の仕事を忘れてはいなかった。
突然、前列に座って、双眼鏡で試合場を見ていた法被姿の女子社員が立ち上がった。
「はい、みなさん。次、第3会場です。ふれーふれーおっざっき、ふれふれ尾崎、ふれふれ尾崎」
可愛い顔に似合わない、ドスのきいた大声で、柔道を知らない現地社員を誘導し応援を始めた。
保護者を含め、現地社員応援団は、団扇を振りながら、法被を着た女子社員の後に続いて、
「ふれふれ尾崎、ふれふれ尾崎」を繰り返した。
紅羽は席を譲ってくれた、女子社員に聞いた。
「あの女性は、大きな声が出るんですね」
「あの人は、高校時代女子応援団長だったらしいですよ。本社勤務で、うちのスポーツの応援には、全国どこでも派遣されるらしいです」
「尾崎ぃ!一本勝ちしました。拍手ぅー」
「続いて、第2会場と第1会場で、敗者復活戦が始まります。応援お願いします」
もと女子応援団長だった女性は、ルールを熟知し、すべての選手の試合をチェックし、弁当の手配、ビブスの配布、管理職への接待、そして後片付けまで、若手男性社員2人に的確に指示しながらこなしていた。
「はい、尾崎選手が応援席に挨拶に来ました。おめでとうございます。3位入賞です。拍手ぅ。尾崎選手、一言応援団の皆さんにお願いします」
紅羽は、この人が本社勤務なのが分かった。本当に頭が良く、気配りが出来るのだ。
紅羽が応援に注目している頃、陸医師と鞠斗は、琉と柊を連れて、会場チェックに回っていた。医務室、ドーピングルーム予定の部屋、借り上げた部屋と会場や応援席への動線。
「駐車場からは、ここまでスロープがつかえるな」
「鞠斗、借りた部屋に何を運び込むつもりだ?」
「ん?トイレとベビーベッドなんか」
「赤ちゃんをここへ連れてくるのか」
それには、陸が返事をした。
「試合の時は、舞子はまだ授乳しているはず。赤ちゃんの泣き声が聞こえると、おっぱいが大きくなって、ミルクが溢れ出すから、冬月はここに入れておいて、試合の合間に授乳させないと」
おっぱいを早めにミルクに代えれば、こういう心配はいらないが、多分舞子のことだ、断乳はしたがらないはず。そう考えて、陸たちは準備をしているのだ
柊がぼそっと言った。
「舞子のわがままにみんな応えるんだよな」
陸医師が柊の背中をはたいて、叱りつけた。
「ばかたれ。おっぱいは、子供に免疫をつけるために必要な栄養なんだ。これは舞子のわがままではなく、母親の当然の反応だよ。講義の最中寝ていたのか?」
琉も柊も、出産後の体にも、まだこんなに困難が待ち構えているとは思わなかった。舞子が掲げた「全日本女子柔道選手権2連覇」という目標は、生半可なものではないということが実感できた。
しかし、試合当日は、この考えがまだ甘かったことを2人は理解するのだった。
「そろそろ、女子重量級の決勝が始まるから見に行こう」
鞠人に促されて、会場視察担当のグループが、舞子たちの座っている席に戻ると、S保険会社の観客席には、ほとんど人がいなかった。S保険会社の選手の試合がすべて終わってしまったので、みんな帰ってしまったのだ。法被のお姉さんもゴミ箱や幟の撤収をしていた。
紅羽が法被のお姉さんに、椅子に残された、会社名が入ったビブスをまとめて返しながら尋ねた。
「すごい応援ですね。競技によって応援方法を変えるんですか?」
「ビブスの回収手伝っていただき申し訳ありません。競技ごとに応援ルールがありますので、反則にならないように注意はします」
「バスケットなんかだと、会場で応援団は踊ったり歌ったり出来ますけれど、柔道は駄目ですよね」
「踊ることは禁止されていませんが、柔道は保守的な方も多いですので、受け入れられないかも知れませんね。それから、審判の声が応援でかき消されると、選手に不利になりますので、大きな声を出すタイミングは気をつけますね。柔道は試合中、監督が選手に技術的アドバイスをするのが禁止なんですよ」
「ルールまでよくご存知ですね」
「試合前に、最新ルールを競技団体のHPでチェックしますから」
「勉強になりました。今後もご活躍ください」
「いいえ、裏方ですから」
「格好よかったです。お疲れ様です」
席に戻ってきた紅羽に舞子が尋ねた。
「表彰式まで見る?」
「舞子、私達はすべての試合進行を把握するため、最後まで見たいな」
「ふーん。ところで、今日、蹴斗を見かけないね」
「蹴斗は会場中にビデオを設置していたから、今すべて回収に出かけたな」
鞠斗も帰宅準備をしながら答えた。
試合場の隅々におかれた幟を回収しているジャケット姿の蹴斗が見えた。
ジャケットを羽織っていると、どこかの会社のスタッフにしか見えない。
「幟にビデオが仕込まれているの?」
「練習会場にも、別の形のものを仕込んでいたね。温度や湿度、二酸化炭素濃度も測定してみたいだよ」
女子重量級の決勝は、実業団の山口と警察の富山の試合だった。案の定、金メダリストの熊本は欠場していた。
決勝は、実業団の山口の優勝で終わった。紅羽は山口の所属、「オオマツ(株)」の応援も、参考になるとじっと見つめていた。
その頃、舞子は情報収集のため、玄関ロビーに下りていたが、そこで、ライバル熊本とばったり会って話し込んでいた。
「成美さん、久しぶり。金メダルおめでとう」
「うっそー。噂通り、妊娠していたのね。え?同級生の榎田君と結婚したの?残念だわ。大学は行かないの?」
「うん。実業団で柔道することにしたの。九十九カンパニーって言うの。榎田も、そこに所属して柔道続けるのよ。夫婦で、全日本に出るっていうのもいいよね」
「再来年でしょ?」
「え?何言っているの?私は2連覇目指す気満々だから。今年も4月に横浜で会おうね」
舞子は、ライバルに宣戦布告をしてきた。これで後には引けなくなった。
十分な成果を得て、試合見学組もT大学遠征組同様、九十九カンパニーに戻ってきた。
九十九カンパニー神奈川支社ビルは、バスを降り、エレベーターを上がると、20階からが宿泊エリアで、28階には横浜ベイブリッジを望む大浴場があり、展望階には大食堂があった。身内ばかりなので、いつものTシャツに猿袴姿で各自気楽に夕飯を楽しんだ。
「そう言えば、1人足りないと思うんだけれど」
舞子の質問に、涼が事も無げに言った。
「子供は邪魔なので、返した」
「そう」
舞子の返事も素っ気なかった。涼がそう言うということは、猪熊君は何かやらかしたのだろう。舞子はそれ以上事情は聞かなかった。周囲のみんなも、話が耳に入ったがそれ以上尋ねる者はいなかった。
鞠斗だけが、涼に耳打ちした。
「須山から電話があった。猪熊は無事にうちに帰ったそうだ」
涼にも東城寺悠太郎から、電話が掛かってきた。
「山本は検査入院をするそうだが、後遺症もなく、明後日からは練習に戻れそうだ。お医者さんに宜しく伝えてくれだそうだ」
「悠太郎さん、わざわざありがとうございます。猪熊はうちに帰しました。すいません。迷惑掛けて」
「鞠斗、明日のスケジュールは?」
涼は鞠斗と夕飯を食べながら、情報共有をした。
「琉はここで桔梗学園の圭と連絡を取りながら、今日ゲームで収集したデータの送信と解析。俺と紅羽でW大学に依頼していたデータの解析を受け取りに行き、分析結果を聞きに行く。
柊は俺の代わりに、明日のS大学組のマネージャー役をすべてしてくれ。S大学への土産も用意してあるから、監督に渡してくれよ」
鞠斗は、琉と柊と紅羽に仕事を割り振った。
「OK、それ以外の人は、明日S大学は8時から11時の練習だそうだから、出発は柔道着を着て7時出発でいいか?テーピング類は6時半にはできあがっているといいな。朝は6時起床。バス内で軽食を食べることにする」
「S大学は朝早いな」
「昼休みをたっぷり取って、昼寝させるんだそうだ」
「そうか、まだまだ暑いからな。おい、柊、明日の弁当をここの食堂に人数分頼んで、朝、柊が積み込んでおけよ。まだ、暑いから悪くならないように配慮しろよ」
「ラジャー」
そういって柊は厨房に行った。
「ラジャーじゃなくて、自分で考えて頼んでおいて欲しいんだよな」
柔道の応援も、バスケの応援も会場で見ると、それぞれ違っていて面白いですね。次回はS大学です。男子のイケメンパワーと、女子の野獣パワーが、全開になるとか、ならないとか?