横浜遠征その1
今から4年後、もっと夏は暑くなるんでしょうかね?
朝、9時。今日も秋晴れ。温暖化が進む日本では多分、今日もかなり暑い日になるだろう。秋の3連休を生かして、涼達6人は舞子のために、横浜にある2つの大学に出稽古に出かけに行くことになっていた。休憩を入れながら行くと6時間以上掛かる。行楽シーズンなので、渋滞も考えると、今日は現地についても、練習は出来ないだろう。舞子も新幹線で行くと言っていたが、今から指定席を取るのは大変だろうから、自由席で行くだろうけれど、心配だ。そんなことを考えながら、バス乗り場に向かった涼だったが、そこには、何故かワゴン車ではなく、修学旅行の時に乗っていった中型バスが待機していた。
「何で、舞子がここにいるの?その上、紅羽に鞠斗、柊に琉、久保埜医師までいるんですか?」
涼は当初6名で行くことにしていたのに、何故かメンバーが倍増したことに目を白黒させていた。そして最後に台車に何やら積み込んできた蹴斗が、校舎の方から走ってきた。
「いいじゃない?また、修学旅行だと思えばいいのよ」
舞子と紅羽はバスに深々と座って、既に眠る準備でいる。
「涼先輩、僕はどこに座ればいいでしょう」
初参加の須山猪熊は、大きなバックを持ってバスの外でうろうろしている。
「俺と一緒に座ろう」
涼にそう言われて、バスの前方の2人席に座った猪熊は、早速、柊に構われた。
「猪熊君、初参加の人は自己紹介の後、歌を歌うんだよ」
いじられキャラの猪熊は、戸惑ってはいたが、柊の冗談を真に受けてしまった。
「えー、自分は須山猪熊といいます。桔梗高校1年生で、榎田先輩の柔道部の後輩です。得意な歌は、安室ちゃんの『HERO』です」
紅羽が舞子に聞いた。
「いつのオリンピックのテーマソングだっけ?」
前の席に座っていた琉が、椅子から乗り出して答えた。
「2016年のリオデジャネイロオリンピック!」
「今から12年前?猪熊君いくつだった?4歳?」
そうやって囃しながらも、「I’ll be a hero」と若く声量のあるバリトンで歌い出された曲に、みんな聞き入ってしまった。そして「君だけのためのhero」のサビでは全員で合唱してしまっていた。紅羽はこの曲を応援ソングの候補にしようと心に決めた。
曲が終わると、猪熊が窓の外を見て、叫び声を上げた。
「空を飛んでいる」
バスは乗客が歌っている間に、大型ドローンに格納され、空高く飛び上がっていたのだ。
「サンダーバード2号だ」
久保埜医師が興奮し始めた。陸医師はそれに反論した。
「違うよ。バスの窓から外が見えているってことは、バス自体が飛んでいるんじゃない?」
鞠斗が解説した。
「窓から見えているのは、映し出された景色です。バスはドローンに格納されています。神奈川の九十九カンパニー支社の屋上に停まると、バスだけが地下に下ります。
「ついに完成したんだね」
笹木研究員が感無量という感じでつぶやいた。
「それで、パイロットとして蹴斗に来て貰いました」
つまり、この機体の完成により、新幹線より早く着くので、舞子が乗車している訳だ。では、他のメンバーが乗車しているのは何故だ?
想定外の出来事に、動揺を隠しきれない涼であったが、今日のスケジュールの確認は忘れなかった。
「鞠斗、これだと何時にT大学に着けるの?」
「12時には着けるので、午後からの練習に参加できる。オユンとマリア、涼と猪熊、笹木研究員と久保埜医師は午後からの男子の練習に参加できるんじゃないか?」
「舞子達は?」
「今日は、講道館杯が横浜武道館で開催されているので、会場視察と柔道の応援見学に行く。紅羽はそもそも、柔道の試合を見たこともないし、柔道の応援自体も見たことがないから」
(なるほど、舞子は紅羽に応援を頼んだが、柔道の応援がどのようなものか知らなければ、バスケット風の応援をしてしまうよな)
「いいな。講道館杯、自分も見に行きたいです」
「猪熊、自分の仕事を忘れるな。俺だってまだ出場すらしたことがない。お前には10年早いよ」
涼には珍しく、ちょっとむっとして猪熊に言い聞かせていた。紅羽は「講道館杯」自体よく分からないらしく、舞子に聞いていた。
「講道館杯って、オリンピックがある時は、オリンピックの第一次予選になっている場合もあるくらい大きな大会だね。実業団や警察、大学、高校などの大会を勝ち抜いたトップの選手が集まる大会だね」
「じゃあ、今日や明日、大学に練習に行っても強い選手はいないということ?」
「今年はオリンピックがもう終わったから、オリンピック選手は大会に出ないな?それでも、大会にはかなり強い選手しか出ないので、1チームで2,3人しか試合に出ないので、明日は普通に練習するはずだよ」
「猪熊、今日は東城寺先輩も練習に来てくれるはずだぞ」
(前キャプテンの森川先輩も来てくれるといいな)
「鞠斗、昼食と宿泊はどこでするんだ?」
「ほら、今回のマネージャー柊君、答えて」
(なるほど、鞠斗は柊に仕事を覚えさせるために連れてきたのか)
「昼食はバスの中で食べます。弁当は積み込んであります。宿泊は九十九カンパニー神奈川支社の中の宿泊所を使います」
「良く出来ました」
九十九カンパニー神奈川支社は、地上30階建ての大型ビルだった。その屋上にドローンを着けると、バス1台が乗る大型エレベーターで、一気に地下2階の駐車場に下りた。T大学に向かう組をここで下ろして、バスは蹴斗の運転で横浜武道館に向かった。
T大学に向かう組は、駐車場に用意してあったワゴン車に乗り込んだ。運転は久保埜医師だった。猪熊は、始めて見る大学の構内に興奮していた。武道場に入っても、そこに飾られている歴代オリンピックメダリストの写真に釘付けだった。
「おーよく来たな。春以来かな?明日来るかと思ったけれど、ずいぶん早く来たな」
廣井監督は講道館杯に数人の選手が出るため不在なので、森川前キャプテンが出迎えに出てくれた。前回土産も持たずに来たことを後悔していた涼は、今度は自分の金で監督への土産を買ってきていた。
「持ってきたことは明日、監督に話す。今日中に俺たちの腹に消えるから」
森川先輩は相変わらずである。
「今回は、3人連れてきたんだ。女子は軽量級と乱取りすればいいな。そのころんとしたのは桔梗高校の1年でインターハイに出た子か?」
「はい。初めまして。須山猪熊といいます。得意な歌は・・・」
涼は慌てて猪熊の口を塞いで、ささやいた。
「歌はバスの中だけだ」
「変なやつだな。確か、うちの山本とインターハイで当たったんだよね。山本は今日は道場で待っているよ。リベンジしたくて」
インターハイの1回戦で、猪熊はT大学付属高校の山本選手を開始10秒、背負い投げで下して、2回戦に進んだのだ。
「はい、あれがまぐれじゃないってことを、お見せ・・・」
涼は慌てて猪熊の口を塞いだ。
T大の練習は前回と同じく、「6分20本」の乱取りから始まった。猪熊は早速、山本選手に捕まって、投げたり投げ合ったり、最後には板の間に投げられて、頭にきた猪熊が山本を道場の壁にたたきつけたのを見て、流石に東城寺悠太郎が2人を外に連れ出して、熱中症対策用のプールに2人を投げ込んだ。
世界の温暖化はひどい勢いで加速していて、4年前は真夏日があっても9月末までだったが、今は10月の真夏日も珍しくなくなっていた。
涼も毎日クーラーの効いた武道場で練習しているので、暑さに対する耐性が下がっていた。休憩のたびに持ち込んだクーラーボックスから、氷を出して首筋や頭を冷やすのだが、深部体温はなかなか下がらず、吐き気がしてきた。オユンやマリアも体調が悪そうで、乱取りを1本置きに行っていた。
突然、久保埜医師が森川のところに走って行った。
「練習止めて、熱中症で倒れている子がいる」
「練習止め!全員その場で座れ!」
森川の合図で全員が畳に座り込んだところ、久保埜医師が1人の選手のところに駆け寄っていった。
「誰か、この子を日陰に連れて行って」
日の当たらない板の間に連れてこられたのは、猪熊と乱取りをしていた山本選手だった。
「救急搬送が必要だわ」
そういうと、久保埜は山本の柔道着ズボンを下げ、肛門に体温計を突っ込んだ。
「深部体温が高い。呼吸が浅い。目の焦点が合っていない。涼、そこの救急コンテナを持ってきて」
最後に蹴斗が運び込んだコンテナだった。久保埜医師はそこから点滴を出して、冷えた点滴を山本に打ち始めた。同時に、濡れたタオルで体を覆い、扇風機の風も送って、気化熱で体温を必死に下げた。
救急車が来たのは、通報から10分後だった。久保埜医師の説明を聞いて、救急隊員は安堵していた。
「危機一髪でしたね。あと少しで、意識障害が出るレベルです。冷却用の点滴なんて、常備されているんですね。流石、T大学の柔道部ですね」
山本が東城寺先輩に付き添われて、救急車で搬送された後、森川前キャプテンは、廣井監督に報告の電話をした。
「監督は『もう練習を止めろ』って、涼、遠くから来てくれたのに、悪かったな。でも助かったよ。医者がいなかったら死人が出るところだった。10月だし、大分涼しくなったからクーラー入れなかったんだ」
「みんな、クーラーの効いた道場で休め。体調の整ったものから、着替えて帰宅しろ。今日の練習は終わりだ」
少しずつクーラーが効いてきた道場で、笹木が買ってきた差し入れのアイスを食べながら、涼達とT大学や付属高校の選手は、久しぶりのまったりした時間を過ごしていた。
「涼、もう一つコンテナがあるんだけれど、開けてみたら?」
久保埜医師のアドバイスを聞いて、蹴斗が持ってきたもう一つのコンテナを開けると、そこには「フィット柔道」のセットが入っていた。
「森川先輩、俺の友達が柔道ゲームを作ったんだけれど、時間があったら道場で見て貰えないかな?」
ゲームが好きなのは、森川だけではなかった。
「ジョイコンが柔道着みたいになっている。俺は左組だから、左に襟がくればいいんだな?」
「相手の得意技も選べるんだな」
「対戦も出来るみたいです」
それから、1時間全員がゲームに興じて、感想を笹木が配ったアンケート用紙に書き込んでくれた。しかし、そのゲームは、柔道をした人の技のデータをそのまま写し取ることが出来るようになっていた。
その頃にはクーラーもかなり効いてきて、柔道場は涼しい環境になっていた。汗が冷え始めた桔梗学園から来た3人は自分の研究のために、T大学の選手を個別に指名して寝技や乱取りを10本ほどしてもらっていた。
「自分は乱取りが出来ないのですか?」
「猪熊君はもう出来ません。頭を冷やしなさい」
久保埜医師に言われて、猪熊はしぶしぶ笹木の手伝いを始めた。
「最後に森川先輩、1本お願いします」
涼は森川と乱取りを行うことで、自分の力とマニキュアの威力を確認しようとした。
講道館杯に出られなかったとは言え、大学トップレベルの森川に勝つことは出来なかったが、新たに練習している技のいくつかは効果があったようで、森川から4本くらいポイントを奪うことが出来た。最後に、寝技で押さえ込んだ時は、珍しく森川がタップをした。
「参った。この寝技、苦しい。離してくれ。涼は背も伸びたから手が長くなったのか。巻き付かれたら身動きできないよ。ちょっと、太田来いよ、この寝技受けてみろよ」
森川は、T大学の重量級の選手を呼んでくれた。寝技が得意で、団体戦の選手である。
効果は抜群だったが、流石、寝業師。寝技に入るためのアドバイスもくれた。
「スタートのこの体勢に持ち込むには、相手が手を伸ばして腰を引いた時に、帯をつかんでこうするといいかも」
寝技は日進月歩である。
(この技が、T大学の女子部に伝わるのも時間の問題だろうが、その頃には新しい対策を考えてみよう)
気がついたら、練習時間が3時間過ぎていた。九十九カンパニーに戻る時間である。
「ありがとうございました。廣井監督には宜しくお伝えください」
「おう、今日は俺も楽しかったし、助かった。また、練習に来いよ」
荷物をすべて積み込んで、ワゴン車は出発した。涼は車が出るや否や言い放った。
「久保埜先生、横浜駅に猪熊を置いていきます」
「猪熊、新幹線代を渡すから、自力で帰れ」
「すいません。もうしません」
「猪熊、俺たちは学校の先生じゃないんだ。学校なら、失敗しても次はあるが、俺たちは九十九カンパニーという企業として行動している。失礼な物言い、相手選手への無礼な行動、ふてくされた態度。お前の姉ちゃんの深雪に頼まれたから連れてきたが、お前の面倒を見てはいられない」
そう言うと、泣き崩れる猪熊を横浜駅のロータリーで降ろして、ワゴン車は九十九カンパニーに向かった。舞子の命をかけた挑戦に足手まといはいらない。
猪熊君、近姉妹のように退場になりましたが、またいつか登場して貰います。それまで猪熊君は、頭を冷やしていてください。