鞠斗の休日
桔梗高校の甲子園が終わって、鞠斗は1週間の長期休みを取った。と言っても、薫風庵で仕事をせずにだらだらするだけという、休暇だった。何が見えても、何を言われても、決して仕事はしないと心に決めていた。
9月になると、桔梗学園には新入生も入ってこなくなる。今、妊娠しても、適当に誤魔化せば、妊娠がバレずに卒業することが出来るから、あえて、退学までしなくても良いと考えるのだろう。
そこで、朝の食事を作りに来る女子高生もいなくなり、好きなものを好きなように食べることが出来る。岐阜には先日の御礼に大量の新米を送ったが、お返しと言うことで、栗きんとんや水饅頭など、甘い物好きの鞠斗にとって嬉しいことこの上ない品物が送り届けられた。しかし、1人で食べきると、また真子学園長の雷が落ちるので、毎日少しずつ食べている。
甘いものを食べすぎると、サスペンダーの意味がなくなるので、朝はランニングに出かける。保育施設の前庭の木の上には、晴崇がゴロゴロしていることが多い。晴崇は今日は鞠斗の代わりに、男子を連れて果樹園の手伝いに行ってくれている。秋の果物の収穫時期なので、結構こき使われる。甲子園から帰った時に、少し一生さんに、五十沢慎二の情報を流しておいた。一生さんは、「いい情報をありがとう」とだけ答えて、他に何も言わなかった。
「まだまだ元気だが、孫の剛太に伝えたい技術もあるんだろうな」と思った。
鞠斗は久しぶりに木に登ってみた。木の上からは、子供達の様子がよく見える。
4月入学の3人は、9月から乳幼児の世話に回っていた。圭が食べながら遊ぶ柊の妹、梢に手を焼いていた。舞子は生まれたての赤ちゃんを膝に乗せて、おそるおそるミルクを飲ませていた。紅羽はと言うと、保育施設の中の調理室で、ひたすら離乳食を作っていた。
彼女たちは12月になったら、自分の子供の世話をするので真剣である。
9時の朝食時間になったので、紅羽、舞子、圭の3人が仲良く連れ立って、保育施設から出てきた。木から飛び下りて、薫風庵に戻ろうとしていた鞠斗は、彼女たちとばったり会ってしまった。
「あれ?晴崇かと思ったら、鞠斗じゃない」
圭は黒のビックシルエットのTシャツに、黒のゆったりとしたダメージジーンズを穿き、かなり色が落ちて毛先だけ銀色の髪の毛を無造作に結わいていた。
「晴崇じゃなくてすいません。俺の代わりに、晴崇が今日は授業に行くから」
「そういう意味じゃないよ」
そう言いながらも、圭は少し口元を緩ませた。
「長い間お疲れ様。分校のみんなと会ったんだって?」
舞子が気軽に聞いた。舞子は一端体重を落としたので、喉元などはすっきりしているが、お腹は少しふっくらしていた。いつでも走れるように、妊婦用のスポーツウエアを着ている。それは、ソーイング部渾身の作品らしく、足首は締まっているがウエストは、何段階かのサイズで留められるように、フックがついている。急に大きくなる胸や腹に対応できるように、脇にマチがついているが、それがデザインとして美しく機能している。
鞠斗は軽く会釈すると、舞子の質問には何も答えず、さっと薫風庵への坂道を駆け上がっていった。紅羽が何か鞠斗に話そうとしていたが、余計なことを言ってしまいそうで、忙しそうなふりをしてみた。
坂の途中で、晴崇に会った。
「悪いね。今日から授業は何をするの?」
「ああ、鞠斗が持ってきてくれた、岐阜分校でのデータを使って、野球合宿の収益化についてのプランを考えて貰うつもり。今日は岐阜分校とオンラインでつないで、意見交換をしながらやる予定だ」
「悪くないね。先月勉強したデータサイエンスや統計学の手法を使って、今月のスポーツ生理学や簿記の知識も応用させると、結構いいものが出来るんじゃないか」
「とりあえず、雲雀が岐阜分校の野球部で、既に行っている実践の検証にもなるし。これで来年岐阜分校が、甲子園で旋風を巻き起こしてくれれば、言い宣伝にもなるよな」
いつも一歩先のことを考えられる晴崇は、また別のことを考えていた。
「そう言えば、鞠斗、桔梗高校は監督とコーチが解任されるな。そこも実践の場所に出来たらいいと思わないか?」
「何を企んでいるの?」
「あそこは、OBとの癒着さえ切り離せれば、3年も2人しか引退しないし、いい選手が残っているじゃないか。キャッチャーの山田一雄って、結構使えそうなんだろう?」
「現役3年生を監督にするのか?その考えはなかったな。あいつなら、頭もいいし人望もある。桔梗学園から、てこ入れすれば、やれなくもないか?」
「そんなヒントも出しながら、楽しく1週間勉強してくるよ」
「昼作っておくよ。何が食いたい?」
「そばがいいな。へぎそば。冷蔵庫に、トマトとなめこ、オクラもあるよ。午後には、戎井呉服店の松子婆ちゃんが来るから、柿持ってきてくれるって」
いいながら、前髪をカチューシャで上げた、晴崇が駆け下りていってしまった。
「なんで、松子さんが来るの?」
榎田涼の祖母、戎井松子は、自宅の呉服店が、「ゑびすいROOM」になったので、桔梗学園でソーイング部名誉師範として働き始めた。普段住んでいるのは、桔梗学園の母子寮の一角で、子供達に囲まれて楽しい生活を送っていた。たまに、真子学園長がいる時に、薫風庵に遊びに来ることはあったが、真子は今、海外出張中なので、こんな時に来ることは珍しかった。
昼食まで時間があるので、扇風機を掛けて、蝉の声を聞きながら居間で昼寝をしていると、何やら賑やかな声が聞こえてきた。目を開けると、目の前に少し冷めた「ポッポ焼き」の袋がぶら下がっていた。眠い目をこすって、鳩時計を見ると、11時を少し回っていた。
蹴斗の顔が真上からのぞき込んでいた。
「鞠斗、昼ご飯は6人分だよ。ポッポ焼きは冷めているけれど、昨日の子達が買ってきてくれたやつのお裾分け。明日、暖かいのを食べよう」
「6人分って誰の?」
口に突っ込まれたポッポ焼きの黒糖の味をかみしめながら、蹴斗に尋ねた。
「今晩から、夜、ここで浴衣の着付けをするんだ。それで打合せのために松子さんに来て貰った。だから、松子さん、俺、鞠斗、晴崇、舞子に涼」
「最後の2人は、着付けとどういう関係があるんだ。っていうか、西願神社の祭りに行くために着物着るのか?」
「そうだよ。舞子や涼も着付けを手伝いに来てくれたんだ。。
昨夜は、鞠斗が眠っている間に、小学生以下を、高校生が引率して西願神社の宵宮に連れて行ったんだ」
鞠斗は、兎に角眠くて、甲子園から帰ってきて、ほとんど1日中うとうとしていたので、昨夜何が起こったのか全く気がつかなかったのだ。
「俺は、高校生の保護者かな?ポッポ焼きはそのお土産。
藤ヶ山の参道を、子供達は金魚の形のぼんぼりが乗った曳き車を、曳いて上がったんだ。
子供は交代しながら上がるし、途中休憩するたびにジュースやお菓子が出るけれど、高校生はその食べ物が入った車を運んだりするんだ。藤ヶ山は本当に蒸し暑かった。
今日は昨夜の仕事のご褒美に、高校生は浴衣を着せてもらって、西願神社の盆踊りに出かけるんだ」
(今晩は賑やかだな)
晴崇が、授業が終わって薫風庵に上がってきたのは、1時を回っていた。
「悪い。授業が盛り上がって、遅くなっちゃった。舞子と涼もいるんだけど、そば余分に頼めるかな?」
「大丈夫、蹴斗から話を聞いたんで、準備してあるよ」
「お邪魔しま~す。懐かしい。薫風庵の、夏の設えはこんな風なんだね」
葦簀や風鈴に感動しながら、舞子が居間に入ってきた。後ろから、遠慮がちに涼も入ってきた。
「蹴斗が、涼も着付けできるって言ってたけれど、意外な特技があるんだね」
「流石に成人式の着付けは無理だけれど、浴衣や袴くらいは着付けられるんだ。今日は男子の着付け担当だよ」
「涼君は、妹より着付けの腕がいいのよ」
「おばあちゃん。そんなことないですよ」
涼は、祖母の松子の身びいきに照れながら、昼食の手伝いを始めた。
「私はおろしそばが好きなんだよね」
舞子のわがままに、鞠斗がむっとして言った。
「畑に大根があるから取ってくれば。今日はなめことオクラしか用意していない」
いつもより不機嫌な鞠斗に舞子は慌てて、機嫌を取るように言った。
「ゴメン。そんなつもりはなかったんだ。柿もあるんだね。私剥きます」
そんな舞子を横目で見ながら、涼は鞠斗にささやいた。
「最近、舞子はわがままが激しいんで、もっと言ってやってくれ」
「それは亭主の仕事だろ?」
「ごもっともで」
涼は肩をすくめた。
いつも食堂で食べている松子は、孫達に囲まれての食事が嬉しいらしく、控えめな彼女には珍しく雄弁だった。
「舞子さん、柿小さく剥いてくれたのね。ありがとう。最近、入れ歯がガタガタして、大きな堅いものは食べにくいのよ」
「桔梗学園の、かかりつけの歯医者ありますよ。松子さん早く言ってください」
鞠斗は、松子の健康に、目が行き届かなかったことに気がついた。
「そうですね。研究員の健康診断の時期に、松子さんの健康診断も組み込んだ方がいいな」
蹴斗も同じことを考えていたようだ。
「いやあね。返って気を使わせてしまったわね。ところで蹴斗君、今日はもう一人、着付けの手伝いを頼んだのよ。そろそろ来るかしら?」
「御免ください。あら、少し早かったわね。来るの」
「悠子ちゃん、ありがとう。お祭りで忙しいのに」
白髪で少し気の強そうな老婦人が、玄関から勝手知ったるように上がってきた。
「こちらこそ、最近は子供が少なくて、うちの金魚台輪も曳き手がいなくて困っていたの。昨日は大勢来てくれた上に、今日の盆踊りも復活して嬉しいわ。着付けは何人すればいいの?
踊ってくれた子に喜んで貰えるように、金魚すくいに綿菓子、ポッポ焼きと祭りらしい屋台も沿道に並んでいるから楽しみに来て欲しいわ」
鞠斗は、「この人は誰?」と蹴斗の方を振り返ったが、蹴斗も小さく首を振った。彼も知らないらしい。それを見て舞子が話題に割り込んだ。
「おばちゃん。久しぶり。涼、来て。おばちゃん、結婚式を挙げてないんで、ご挨拶が遅くなりました。夫の榎田涼です。みんな、こちら西山悠子さん。うちのおじいちゃんの妹に当たる人で、西願神社の宮司さんの奥様です」
「舞子ちゃん。聞いたわよ。結婚おめでとう。小さい頃から『涼君はわたしの!』って言って、引きずり回していたものね」
鞠斗の頭に、プーさんのぬいぐるみのように、舞子に引きずり回されている映像が浮かんだ。
鞠斗がすかさず「小さい頃から仲良しだったんですね」
「いやだぁ。あなたも蹴斗君が大好きで追いかけ回していたじゃない。蹴斗君は、陸の双子ちゃんや剛太君みたいに体が大きくて、竹林でも川でもどんどん遊びに行っちゃって、鞠斗君はよく置いてきぼりにされて、縁側で泣いていたわ。特に竹林は『お化けが出る』って言って絶対ついていかなかったね」
悠子の答えに舞子が仕返しとばかり突っ込む。
「鞠斗さんも蹴斗さんと小さい頃から仲良しだったんですね」
鞠斗はそれに答えず、黙って2階に上がって行ってしまった。
薫風庵の2階には、鞠斗と蹴斗の自由にできる部屋があった。2人の親は「シスターコーポレーション」という会社を任されていて、2人が小さい頃は、出張などに連れて行ってもらっていたが、6歳を過ぎると、親の仕事が忙しくなり、晴崇や京と一緒に薫風庵に預けられることが多くなった。親が桔梗学園にいる場合は、母子寮に住むのだが、年に1回帰るか帰らないかの親を待って、母子寮に置くのも可愛そうと言うことで、真子学園長が彼らの部屋も用意したのだ。
今は平日の寝泊まりは男子寮だが、その時の部屋はそのまま彼らのパーソナルスペースになっている。
蹴斗の部屋は2階に上がって、奥の和室で、ギリギリ海も見える開放的な部屋だ。部屋に置いてあるのは、大量の漫画で、晴崇や鞠斗もたまにそこで寝転がって漫画を読んでいる。
しかし、鞠斗の部屋はいつも鍵が掛かっていて、他のものが自由に出入りすることは出来ない。部屋の開け閉めに、かすかに油絵の具やオイルの匂いがするので、中で鞠斗が油絵を描いていることは分かる。
鞠斗のデジタル作品やTシャツなどの商業デザインは、明るい色彩で、絵には親から買ってきて貰った土産などが配置され、異国情緒溢れる都会的なものだが、油絵はどのようなものを描いているかは、誰にも分からない。
鞠斗は自分のアトリエに入って鍵を閉めた。
薄暗い部屋の中央に50号の描きかけの絵画が置いてある。部屋の隅には、パソコンとA1まで印刷できるプリンターが置いてある。鞠斗は、静かにパソコンの電源を入れ、過去の作品が入っているフォルダーを開いた。
(ああ、そういうことだったんだ)
小学校1年生の時の作品を開くと、一面の竹林の中に一匹の黒い犬が描かれている。
(悠子さんの話で思い出したな。この犬は蹴斗だったんだ)
納得すると、鞠斗は立ち上がって、イーゼルに立てかけてある、描きかけの油絵の前に立った。そこには竹林を抜けて、次々と動物たちが抜け出してくる絵が一部描いてあった。どうも関わった人間が、動物の姿になって描かれているようだ。
(少し進歩したかな?早くこの竹林を抜け出せるようになりたい)
鞠斗は同じキャンバスを使って、毎年絵を描いている。1年の終わりに絵の写真を撮って保存した後、そのキャンバスの絵をすべて削ってその上に新しい絵を描くことが、習慣だ。できあがった絵を壁に飾るようなことはしない。鞠斗のアトリエの壁はいつも真っ白なままで、何の絵も写真も飾られていない。絵を見られて、自分の孤独を人に知られるのが怖いのだ。
(休暇の1週間で、今年の絵を描き上げよう)
今年はあまりに多忙で、油絵を描く時間がなかった。甲子園から帰宅した晩に、勢いに任せて一部描いたが、あまりの疲労に、途中で放り出して、寝てしまったのだ。
(みんなは祭りに行くらしいから、明日は静かだろうな。ん?なんか、蹴斗が言っていたような気がしたな。俺も祭りに行くのか?)