鞠斗の一日
前日夜から翌日まで、長い1日を過ごした鞠斗でした。
白風庵までついてこようとするアン・ミナに、鞠斗は振り返りもせず、
「消灯は9時、明日の朝飯前の仕事はいつもどおり6時半ですよね」
ミナは鞠斗の前に回り込んで、立ち塞がるように言った。
「明日の朝、桔梗高校野球部の子達は浅め姉妹の仕事に来るかな」
「来なければ、朝ご飯も弁当も食べられないだけです」
「監督も来ないかも」
「各部屋のディスプレイには、明日の予定が表示してあります」
「野球部が1人も朝、来ない方に私は掛けるよ。鞠斗は?」
「心配せず皆さんはいつもの通り、朝飯前の仕事の配置についてください。私たちは、朝食後、9時にはバスを走らせるだけです。お見送りなどせず、練習をいつも通り開始してください」
「お別れの会は?」
「今晩行いました」
鞠斗は歩くスピードを上げて、ミナを振り切った。
「クールビューティーミナちゃんに、迫られても何にも感じないのか?」
陸洋海にかまわれ、むっとして鞠斗は答えた。
「ヒロは、『また』誰かと仲良くなったんですか?」
「おい、杏ちゃんのことを言っているのか?」
「はいはい。アイスが溶けますよ」
坂道を駆け上がってくる雲雀に、声を掛けられ、2人はそれを追うように走り出した。
「鞠斗も、子供っぽいんだから」
肩をすくめる雲雀に、梅桃が耳打ちする。
「やめな。鞠斗が一番気にしていることなんだから」
本校の薫風庵と白風庵の構造は、基本的同じだ。たまに泊まりに来る真子学園長が嫌がるので、建具なども同じものを使っている。お陰で日曜日に薫風庵でくつろいでいる鞠斗と蹴斗も、家に帰ったような気分で夜を過ごせている。
かっちりしたX型サスペンダーを付けたパンツを台所の椅子に掛けると、鞠斗は白いカッターシャツ姿で、冷蔵庫を物色した。
雲雀が「パンツの上になんか穿いてよ」と言いながら後ろを通る。
蹴斗が「お前の寝間着は、朝お前が座った椅子のところにあるぞ」と居間から声を掛ける。
鞠斗の寝間着は、蹴斗が、ドローンで来る時、枕代わりにしているサメの抱き枕と一緒に持ってきてくれたのだ。
「まだ、パジャマで寝るんだね」梅桃が雲雀に話しかける。
雲雀がまた構う。
「鞠斗、太ったんじゃない。サスペンダー付けなくても、パンツ落ちないよ」
「うるさいな。何日もバスで過ごせば、運動不足にもなるよ」
剛太が助け船を出す。
「あと1日だよ。お疲れ様だね。本当に野球部の連中は、同じ年齢は思えないくらい子供だよな」
「ああ、親とか監督はもっと子供なんだぜ。多分、明朝なんか、みんな朝仕事に来ないよ。俺たちが、食事の後片付けをしているのに、手伝いに来たの。マネージャー4人と教頭だけだからな」
「さっき、ミナに言っていたじゃない。来なかったら、朝飯と弁当抜きだって」
「でも、食堂には人数分の弁当頼んでいたじゃないか」
剛太は昨夜厨房で、食堂の担当者に注文をしていた鞠斗を見ていた。
「弁当は、1食1,000円で監督に買って貰う。あいつは激励費を後援会から貰っているから、そのくらい何でもないんだ。『労働の対価として、宿代と食事代は無料にする』と契約したことを忘れているみたいだから」
「うっ。エグい。でも、ブラスバンドやダンス部、ラグビー部まで残っていたら、こんな騒ぎじゃなかったよね」
「だから、みんなに来て貰ったんだ。助かった」
急に素直になった鞠斗に、雲雀が突っ込んだ。
「鞠斗。御礼は下を穿いてから言って欲しいな」
夜の白風庵に賑やかな笑い声が響いた。
鞠斗は寝間着に着替えると、サメのぬいぐるみを抱えて、うつ伏せに寝転んだ。185センチの鞠斗が寝転ぶと、かなり邪魔だ。みんなが跨ぎながら行き来するのに構わず、鞠斗は今日の残りの果物が全部のったアイスを、美味しそうに食べている。
「アイス食い終わったか?」
蹴斗が鞠斗にまたがって、腰をもみ始めた。
「う~。そこ、明日、俺もドローンで持ち帰ってくれ」
「それは無理だな。明日は男子3人を分校に連れ帰らないと、行けないんだ」
剛太が言った。
「悪いな。分校の仕事がたまっていて、もし?もう寝たのか?」
鞠斗は、軽いいびきをかいて、サメのぬいぐるみを抱えて眠りこけていた。
「秒殺だね。蹴斗さん」
「疲れていたんだろ?村長代理の仕事も最近忙しかったから」
「蹴斗と鞠斗は来年はどうするの?」
「体育祭の時、真子学園長は、紅羽と舞子、それから柊を桔梗学園の総会会に参加させていたらしいから、学園の今後は、この3人に任せるつもりなんじゃないか?」
紅羽の名前が出たので、雲雀はちらっと剛太の顔色をうかがった。しかし、剛太は顔色を変えず続けた。
「俺は、九十九農園の後を継ぐんだから、だれか富山分校に来ないと困るよ」
蹴斗が剛太に話しかけた。
「剛太、お前の親父さんとのことはどうするんだ?鞠斗が見たらしいんだが、今回も甲子園の応援に来ていて、帰り際、『岐阜分校に行きたい』って言ってたらしいぞ」
雲雀が食い付いた。
「え?何その話、知らない」
「雲雀の前でその話をするのか?」
「ああ、こいつの情報網はガセが少ないからな。ある程度、こちらの情報も開示した方がいいと思って」
「雲雀の持っている情報は?」
「う~ん。まだ、裏が取れていないけれど、山田一雄は紅羽のことを好きで、まだその件で健太のことを恨んでいる。それから、健太から紅羽のことを聞かれたので、健太は紅羽から完全に心が離れたのではないんじゃないかって、ことくらいかな?」
「紅羽さんって、もてますね」梅桃が突っ込む。
「で?剛太君のことは、正確に知った方がいいと思うので、教えてください」
雲雀はわざわざ正座して尋ねた。
「たいしたことないよ。俺の親父は五十沢慎二と言って、五十沢健太の父親の弟なんだ。慎二が3年生の時、1年生のマネージャーに手を出した。それがうちの母さん。慎二は甲子園には行けなかったけれど、自力で渡米して大リーグに挑戦した。勿論、うちの母親とのことは、マスコミにバレればたたかれるので、金を持って話を付けに来たらしいけれど、じいちゃんがたたき帰したらしい」
「だよね。九十九一生さんらしいや」蹴斗が言った。
「でも、アメリカでは上手くいかず、のこのこ日本に帰ってきて、俺の母さんとコンタクトを取ろうとしたんだ」
「なんで?」
梅桃が非難するような口調で言った。
「婿として、九十九農園に入り込もうとしたんじゃない?」
雲雀が答えた。
「そう、それで俺と母さんは、富山分校に姿を隠した」
蹴斗の頭ですべての話がつながった。
「母親の那由さんに会えないから、次は剛太と接触しようとしたのか」
陸洋海がのんびりした声で、話に割り込んだ。
「じゃあ、剛太はこの件が片づかないと、富山分校にいることになるんだろ?」
「いや、別に海外に行っても、いいんだけれど。あいつから離れられれば」
蹴斗が思い出したように言った。
「あれ、でも剛太は、来年度、涼と実業団で組むって言ってなかった?」
「そうなんだよね。舞子の全日本が終わったら、5月に実業団の団体戦があるんだ」
「実業団の大会はどこであるんだ?」
「尼崎の体育館だ。みんな応援に来てくれよ」
ピッポー。ピッポ―。壁の鳩時計が10時を知らせた。
「おっと、今日はもうお開きだな。よいしょっと、寝るなら、布団に言ってから寝て欲しいもんだ」
蹴斗は、サメを抱えて眠りこけている鞠斗を抱き上げた。
「相変わらず、甘えん坊ね」
「女子野球部のみんなに見せたら、ギャップ萌えして死んでしまうかも」
雲雀と梅桃のうるさい声に送られて、男子の布団部屋まで来て、蹴斗は、鞠斗を布団に乱暴に投げ落とした。
「起きているんだろ?寝ていたらもっと重いぞ」
「・・・」
蹴斗は、タオルケットを鞠斗の腹に掛けてやると、小さな声で「お休み」と言って出て行った。
翌朝は、霧深い朝だった。岐阜分校を一歩出ると、当たりは一面真っ白で、早朝はドローンを飛ばすことが出来ないほどだった。
朝6時半。
食堂には、桔梗高校の1年生マネージャー2人と教頭しか集まらなかった。
教頭は申し訳なさそうに、「みんなを起こしてきます」と立ち上がろうしたが、考え直して「もう、戻れないんでしたね」と肩を落とした。
「監督やコーチまでも、ですから、本当に申し訳ありませんね」
作業着姿の鞠斗が、うっすら笑みを浮かべて。
「大分、飲んだようですから」
「え?禁酒って、言われていたのに」
教頭はますます顔を赤くした。
「甲子園球場で、ビールを大分お求めでしたから」
教頭は顔を覆ってしまった。そんな教頭の耳元で鞠斗がささやいた。
「後で、お会計の話をしましょう」
「さあ、明日華さんは牛舎です。今日は走って行きますが、霧が深いので、しっかり洋海の後についていってください。迷ったら、声を上げてください。僕が後ろを走っていますから」
蹴斗の言葉に頷いて、明日華は走り出した。女子野球部のメンバーは、勝手知ったる道なので、牛舎の前に集合するために先に走り出していて、もう周囲に姿が見えなかった。
「三津さんは果樹園に行きましょう。お兄さん達はまだ、寝ていますかね?」運動不足を指摘された鞠斗は梅桃と代わって、果樹園引率を志願したのだ。
「すいません。兄たちは、今日は朝の仕事がないと勘違いしたみたいですけれど」
「でも、あなた達は忘れなかった」
「私たちは、岐阜分校の皆さんから少しでも得ることがあるかと思って」
「素晴らしいですね。言っていることと行動が伴っています」
「本当に私たち、女子野球部に所属したいんです。レギュラーになれなくてもいいんです。少しでも最高の技術を見たら、もう下の世界になんていられません」
「レギュラーになれなくてもいいって思った時点で、あのチームにいることは出来ませんよ」
「あっ」
三津は下を向いてしまった。
「まあ、今は興奮して、熱にうなされているようですね」
「あの冷静になっても、きっと気持ちは変わりません。3月まで頑張りますから、なんか宿題ください。そしてそれをやり遂げたら、もう1回考えて貰えますか?」
「僕は君たちの入学を決められる立場にいませんよ」
「桔梗学園の中の人とは、もう会えないと思いますが、村長代理もしていらっしゃるので、鞠斗さんになら村役場の近くにいたら会えるか持って・・・」
「止めてくださいよ。村役場で僕を待ち伏せするのは。よそ見していると、霧の中で迷子になりますよ」
三津は小さい頃から、兄と一緒に野球をしていたので、鞠斗と走っても息も切れずについて来られるような脚力があった。
「おーい。霧の中で女の子をナンパしたらいけないよ」
果樹園入り口で剛太が待っていた。
「あの。お願いごとをしていたのは、私です」
鞠斗が肩をすくめた。
「あの子、入学を諦めていないのか?」
鞠斗が小さな声で「村役場まで俺に会いに来るって」とため息をついた。
「紅羽の叔母ちゃんに有望な人材だって、情報を渡すとか?」
「俺と接触すれば、入学できるなんて広まったらどうするんだ。紅羽の妹や琉の妹も、ここへ来たいと言っているんだぞ」
「気をつけろよ。誰かさんみたいに押し倒されるかも」
「勘弁してくれ。帰りは三津を頼むよ。俺は先に帰って、教頭と金の話をしてくる」
そういうと、鞠斗は全速力で果樹園から駆け下りて行ってしまった。
鞠斗のあの慌てようは、冗談抜きに、誰かに押し倒されるような危険にあったかもしれないと、剛太は想像してしまった。
教頭と話すために、果樹園から帰ってきた鞠斗は唖然とした。
食堂に野球部員がずらっと正座しているのだ。
何度か雲雀が「止めてください」と正座を止めに来たが、監督は頑として辞めさせなかったらしい。
「なんですか。これは?」
鞠斗は直立不動の野球部監督に尋ねた。
「申し訳ありません。朝の仕事に全員が遅刻してしまいました。私が、昨夜念を押さなかったのが悪かったのです」
(一見すると、自分の責任のような物言いだが、監督自身は自分の非を認めるわけでもなく、生徒の責任にして、この場を納めようとしている。全く卑劣な男だ。いや、そういう指導者に育てられてきた人間は、同じことしか考えられないんだな。あー、相手にするの面倒くさい)
「監督、酒の匂いがしますね」
監督は、顔色を変えた。教頭にも指摘されていたのに誤魔化しきれると思ったのだろうか。
「初日にお帰りいただいたお嬢さんと同じですね。彼女は未成年でしたので桔梗高校までお送りしましたが、あなたとコーチは成人ですので、門の外でお別れするので良いでしょうか?」
正座している生徒は、顔を上げて非難の目で、監督の顔を見た。
「あの、私は野球部の生徒を引率しなければならないのですが」
「大丈夫ですよ。教頭先生がいらっしゃいます」
鞠斗は灰色の目を薄く開いて言った。
「指示が出来なかったことが悪いんじゃないですね。野球部の1年のマネージャーは、朝の仕事をしましたよ。指示などしなくても、動ける生徒はいますよね」
正座している野球部の生徒は、顔を見合わせた。3年のマネージャーは下を向いて泣き出した。
「すいません。私たちが三津達が出て行ったことに気がついて、部員の皆さんにお知らせしていれば・・・」
「マネージャーさん。あなた達の仕事は子守ですか?」
「教頭先生。お約束通り、朝の仕事をしなかった生徒さんの朝食はありません。バスには弁当は積み込みますが、お弁当の料金は発生します。生徒さん個人にお支払いいただきましょう。昨晩の宿泊費もいただきます。それも、監督さんがお持ちの『激励費』から出して貰えばいいのではないでしょうか?」
教頭は監督を冷たい目で見た。監督はしどろもどろで答えた。
「いや、桔梗村に帰ってから、引退試合の時の焼き肉代にしようかと思っていたので・・・」
「すべて出してください。宿泊費と食事代は生徒が仕事をすることで、賄うはずでしたよね。宿泊代や弁当代がいくら掛かるかも分からないのに、着服しないでください。それとも、すべて監督が自腹で払うのですか?」
監督は、いつも抱えているポーチから分厚い封筒を引っ張り出した。
「甲子園に連れてきたのは、私ですよ。多少のリスペクトはないのですか?」
「まさか、他にも横領はないですよね。公金に手を付けているなら、辞職もありえますから」
鞠斗が、教頭に近づいて耳打ちした。
「あまり、公に話をすると、誤魔化しきれなくなりますよ。兎に角、あなたが最後の引率責任者ですから」
「本当に監督とコーチを放り出すのですか?」
「飲酒は重罪です。最初に厳禁と言いましたよね。彼らは酒瓶を、敷地内に穴を埋めて捨てましたし、悪いことをしたという自覚があるようですから」
大食堂で修羅場が展開している中、入り口から、女子野球部員と1年生マネージャーが、笑いながら入ってきた。そして、何もなかったように、食事のレーンに並んだ。
「うわ。今日はパンなんですね。初めてだな。サラダのドレッシングは何だろう」
そう言って、トレーを持って振り返ったマネージャーの目に、正座でしびれた足でふらつきながら、自室に戻っていく野球部員が映った。
「先輩だけでも、声かければ良かったかな?」
三津が3年マネージャーを起こさなかったことに触れると、明日華がさばさば答えた。
「いやぁ、目覚まし鳴ったよね。うちらも1日目みたいに、人にかまけて遅刻したら、困るじゃん。気にせずさっさと、朝ご飯食べよう。この後、部屋と風呂の掃除をして、9時にはバスに乗らなきゃならないんだから」
三津は、兄たちの寂しい背中を見ながらも、頭を切り替えた。
監督とコーチは、食堂からそのまま、剛太と洋海にバスを降りた場所まで誘導された。
そこには、2人の荷物と掘り出されたビール瓶と、トイレに流したはずの煙草の吸い殻の袋詰めが置いてあった。
「あなた達が使ったトイレは、1ヶ月は使えなくなったので後で修理代金を送付しますね」
監督がコーチに小声で言った。
「分からないように捨てろって、言ったのに」
剛太はその言葉が聞こえていたが、無視していった。
「あのトイレ、最新医療機器と連動しているんで高いんですよ。1台、500万円は下らないかな?」
コーチの顔は真っ青になった。自分の年収以上の金額だった。
「はい、桔梗バンドをお返しください。雑に扱わないでください。これも高いんですよ」
監督は最後に小声で言った。
「スマホは返して貰えませんか」
剛太は爽やかな笑顔で言った。
「横領の証拠として、桔梗村警察に送りましたよ。ご自宅も家宅捜索されている頃ではないですか?」
監督とコーチの背後で、ゲートが自動で閉まった。桔梗バンドを外した彼らの目には、もう、ゲートがどこにあるかも分からなかった。
野球部員を乗せた、帰りのバスは葬式のようだった。目の前で起こったことを見聞きした部員達は、桔梗学園で起こったことを外部に話すことに恐怖を覚えた。また、監督やコーチの不祥事についても、マスコミに話すことが、返って自分たちがマスコミに取材の餌食になると言うことが分かったので、貝のように口を閉じようと心に決めた。
スマートフォンは、バスから降りる時に、鞠斗が返すというので、暇に任せて、スマホをいじることも出来なかった。
部員達は初めて、自分の心と向き合う時間を得た。窓の外を流れる、岐阜の豊かな自然を見て、これから自分たちが何をすべきかそれぞれ考えた。
静かな車内は、鞠斗にとっても快適だった。ゆっくり窓の外の青空と雲を眺めながら、本当に久しぶりにうとうとした。
バスは2時間走ったところで、SAに入った。鞠斗は、運転をしてくれていた医師に起こされた。
「朝抜いている子が多いから、早めに昼食にしよう」
「そうですね」
鞠斗は、バスの後部に向かうと、部員に声を掛けた。
「弁当は、1個1,000円です。現金と共に購入してください」
一雄が、三津のところにやってきて、「4人分買うから。明日華ちゃんも急に呼び出されたんで、小遣いあんまりないだろう?奢るよ」と声を掛けた。多分、親戚当たりから、小遣いを貰ったんだろう。そう言いながら、一雄は、部員達に小遣いが足りない者がいないか声を掛けて回った。本来、部長の健太がやるべき仕事だろうが、健太はぼーっと前を向いたまま、弁当を取りに行くのも忘れていた。
「大丈夫か?」
(こいつ、本当に打たれ弱い男だよな)
「おい、雄太、健太の分も持ってきてやれ。俺が払うから」
「1年のマネージャーの分は払わなくていいですよ。働いたので。本当に最後まで、面倒見がいいですね」
鞠斗が、数人分の金を払いに来た雄太に声を掛けた。
「性分なもんで」
自嘲的な口調で一雄は答えた。
「卒業後も野球をするんですか?」
「そこまでの選手じゃないです。下も2人いるし、親を甲子園に連れて行けただけで、恩返しも終わりましたし」
「親のために野球をやっていたんですか?」
今まで、伏し目がちだった一雄が顔を上げた。
「いや、野球は楽しかったから、やっていたんです。兄弟で一緒にわいわいやっていた頃が、一番楽しかったかな。三津はもう、俺の手から離れていってしまったし」
「起こして貰えず、拗ねているのか」
「いや、俺たちの後ろをいつも追いかけていたあいつが、初めて離れていったからです」
もう弁当を取りに来る選手がいないのを確認して、一雄は声を落として、鞠斗に尋ねた。
「三津が岐阜分校に編入することは、不可能ですか?」
「桔梗学園は認可校じゃないので、桔梗高校を退学しないとは入れないんですよ。知りませんでしたか?」
「そうですね。紅羽達も退学したって聞いています」
「それから、分かっていますよね、クラブチームでの出場が可能になると、引き抜き合戦が起こらないように、チーム変更は厳しくなりますよ」
「あ。弟のことじゃないですよ。三津は来年度、桔梗高校で選手登録すると、桔梗学園で試合に出られないと言うことですね」
(良く気がついたな。俺の口からは言えないからな)
「でも、学校に帰ったらもう、鞠斗さんと会えないですよね」
「妹さんと同じこと聞きますね。桔梗村役場でストーカーしないでくださいよ」
しばらく考えて、違う角度から一雄が質問をした。
「今年、桔梗村役場の公務員試験ってありますか?」
(いいところに気がついたな)
「公務員試験はないけれど、昔『戎井呉服店』だったところが、今は『ゑびすいROOM』という名になって、子ども食堂のようなことをやっています。そこは、NPO法人で運営していて、ボランティアを欲しがっていたな」
「ありがとうございます。涼のおばあちゃんのうちですよね。うちはあの商店街の中にあるんで、行ってみます」
(頭のいい奴は、ヒントだけでわかるな)
鞠斗は弁当殻を回収すると、深いため息をついて、後部座席に身を沈めた。
実は、鞠斗と蹴斗は、来年度の打診を真子学園長から受けていた。将来的には、村長代理は柊に、経理関係は晴崇に、そして学校の運営は舞子に、外部折衝は紅羽に任したいので、来年度1年掛けて、人材を育成をするように言われている。
そして2年後、鞠斗はスウェーデンに、蹴斗はオーストラリアに桔梗学園の分校を作るように、言われているのだ。
そして、国内の分校も、今年から、妊婦だけでなく、もっと外に開かれた学校運営をすることを考えていると言われた。だから、体育祭やこの遠征も含めて、外部と交流する経験を積んでいるし、鞠斗自身は人材発掘の権利も任されているのだ。
「でも、俺、甘いんだよな。すぐ、人の境遇に同情しちゃう」
だからこそあえて、今回の近清那や野球部監督やコーチへの処分のように、非情に思える態度を取るのだ。そして、その後、深い後悔にさいなまれる。
「蹴斗と離されてしまったら、この痛みを誰に理解して貰えばいいんだろう。心が壊れそうだ」
深いため息をついた鞠斗は、眼鏡を外して、目の上にハンカチを乗せ、しばしの眠りについた。帯同ドクターはタブレットで、鞠斗の桔梗バンドのデータを見て、つぶやいた。
「『鞠斗にはしばらく休みが必要だ』って、村長と学園長に言うべきだな」
次回は、桔梗学園本校に戻って、柔道の話をしたいと考えています。