危険な夜
楽しいはずのバーベキューなのに大事件が起こります。
男風呂で険悪な話し合いが行われたことなど、つゆ知らず、琉は温泉を堪能し、大満足だった。2台のバスは、対向車が来たらすれ違えないような山道を、どんどん登っていった。
1時間もバスを走らせた頃、目的の「山里村交流施設」と「滞在棟」が見えてきた。二つの施設は隣接していて、今回借りたのは「山里村交流施設」のほうだった。
バスが到着すると、少し白髪の交じった髪を一本に結んだ女性が待っていた。
「初めまして、里山村職員の若槻です。これが施設の鍵です。中の案内をしますが、いいですか?」
施設を借りる時、「担当は女性がよい」と琉が依頼しておいたのだ。
施設はかなり新しく、2階建てになっていた。2階は女性で1階に男性が寝ればいいだろう。施設の前庭には、バーベキュー用に備え付けのかまどがあり、見晴らしもよく、夜には麓の灯が一面に広がって見えるだろう。
「ここからは、今晩の花火がよく見えますよ。知名度が低くて、花火大会の時なのに、他においでになる方はいないのですよ。是非ご堪能ください」
琉の後ろから、柊が顔を出して、「崖の手前の柵はいつ頃作ったものですか?」と確認をしていた。
「さあ、この建物ができた時、作ったものなので・・・。日常的に点検したことはないです。なんと言っても、里山村の役場の職員が少なくて、手が回らないのです。まあ、お子さんは柵には近寄らせない方がいいですね」
なんとものんびりした返答である。
「ゴミは持ち帰りですか」琉の質問に、これもまたのんびりと若槻が答えた。
「持ち帰っていただくとありがたいのですが、持ち帰れない場合は庭に穴を掘って埋めておいてください。放置しておくと、動物が匂いに釣られてくるので」
「動物って、ネズミですか」柊が恐る恐る聞く。
「ネズミも来ますが、特に怖いのは猪と鹿ですかね。それから最近、小熊の目撃情報がありましたね。大丈夫です。熊よけの鐘とラジオは置いてありますから」
道理で、家族連れはここを訪ねて来ないわけだ。
「後、貸布団が必要な場合は、玄関脇に業者の電話番号が貼ってあるので、そこに注文してください。2時間くらいで届けてくれます。では、建物の中に有線放送電話もありますので、何かあったら電話ください。鍵はお帰りにある時、ポストに入れておいてください」
若槻は必要な話をまくし立てると、さっさと黄色いジムニーに乗って、坂道を下りていった。
熊が出るかもと聞いて、あんなにウキウキしていた琉の心が急速にしぼんでいった。みんなを危ないところに連れてきてしまったかも知れないと。
「琉、柊。落ち込むなよ。男子バスに色々積んできたから大丈夫だよ」
蹴斗が2人に声を掛けた。
災害派遣に来た自衛隊のように、男子のバスからは様々な生活用品が出てきた。
事前に仕事分担をしていたとおり、全員が指示を待たずにバスの中から荷物を運び出して、準備を始めた。
最初に持ち出されたのは、いつも琉や柊が使っているベビーサークルだった。ベビーサークルを広間にセットして、5人の子供を入れると、子守はマリアとオユンと水脈に任せた。
剛太と涼と陸の双子は、もう一つのベビーサークルを2階にセットすると、女性陣の寝室用にマットを次から次へと運び上げた。貸布団など借りなくても、マットとタオルケットで夜は過ごせそうだ。男性用のマットは、紅羽と舞子、卓子と深雪が、1階の広間の奥に運び込んだ。
圭と京、晴崇は、圏外の場所でも通信ができるよう、なにやら怪しい機械を設置している。ここでもリモートで仕事をする気らしい。
梅桃と雲雀、杏の3人はバーベキューの準備を始めた。女子バスの中にカット積みの食材が多数積み込まれていた。1升炊きの炊飯器が2台、セットされると無洗米が投入された。
醤油は最高の調味料らしく、茹でたトウモロコシが、醤油を塗られてかまどに並べられると、庭には香ばしい香りが広がった。
「早いんだよ」
晴崇はつぶやきながら、蹴斗と鞠斗を連れて、交流施設周辺の柵を点検しに行った。
「京!設置が終わった。電源入れてくれ」
電源を入れても、周辺に何の変化もなかったが、晴崇は柵の外に出て、中が見えないことを確認するとサインを出した。
「OK。設置完了だ」
機械のセッテイングをしていた圭が、京に尋ねた。
「京、晴崇は何をしているの?」
「柵の周辺に、バリアを張ったんだよ。少し涼しくなっただろ?」
「あぁ、まあ少し」
「虫も入ってこなくなるし、鹿や猪の侵入くらいは防げる。外から見ると中の人の様子も見えなくなるんだ」
そういえば、桔梗学園を外から見ると、建物は見えるが人影はぼんやりとしか見えなかったことを思い出した。
「熊の侵入は防げる?」
「今日、持ってきたのは簡易式バリアだから、長時間の母熊からの攻撃を受けたら、少し破損するかな?」
「え?」
「大丈夫だよ。そのために瑛兄ちゃんと久保埜医師を連れてきているんだから」
「瑛さんはなんとなく分かるけれど、久保埜医師も熊撃ちができるってこと?」
「久保埜医師は、バイアスロンの選手だったから、猟銃免許も早くに取ったし、桔梗村の害獣退治にもよく駆り出されているから、慣れているんじゃない」
圭は山の危険性を今更ながら認識した。と言っても10年くらい前から、人里にも動物が下りてきていて、人的被害が増えていることは、よくニュースで流れていた。だが、人ごとのように思っていたのだ。
前庭と、庭に面した縁側、その奥の広間の3か所をつなげた大空間で、食事は広々と行った。縁側は開放してあったが、バリアのお陰で、蒸し暑い空気と蚊が入ってくることはなかった
全員に麦茶や梅ジュースが配られ、琉がコップを持って立ち上がった。
「みなさん。今日はお疲れ様でした。1日楽しく有意義に過ごせたでしょうか。一応、今晩も就寝は9時と言うことで、それまで楽しく過ごしましょう」
「えー。今日も9時?」
「何故、9時就寝か分かっていないのかな?」
名波産婦人科医に睨まれて、洋海はしょんぼりしたふりをした。
「は~い。ちょっとふざけただけです」
乾杯の後、ベビーサークルの中の瑠璃のところに戻ってきた琉に、水脈が声を掛けた。
「お疲れ様です。飲み物持ってきましょうか」
「欲しい時は自分で行きます。今度は子供の世話を、柊と僕でするので、水脈さん達も好きな物を取ってきていいですよ」
水脈は戸惑ってしまった。飲み会での給仕は女の仕事だと思っていたからだ。
「水脈さん。空君嫌いな物ありますか?とりあえず、茹でトウモロコシと小さなお握り持ってきたんですけれど」
柊も梢用の離乳食と一緒に、他の子供でも食べられる物を持って、サークル内に入ってきた。
「水脈、子供は蹴斗琉に預けて、こっち来て話をしようよ」
同期の卓子と深雪から声を掛けられ、水脈は意を決したようにサークルから出た。
バーベキューのメニューは、バラエティーに富んでいた。
香ばしく焼き目がついたお握りやトウモロコシ。タレに漬け込んであるチキンにスペアリブ、殻付きのホタテに、イカやエビの丸焼き。アスパラベーコンに焼き野菜。トマトサラダやキュウリの浅漬け、茄子漬けまで用意されていた。
九十九農園の枝豆を口に放り込みながら、涼がぼそっと言った。
「枝豆にはビールが欲しいって、親父なんか言いそうだな」
側にいた久保埜医師が、スペアリブをかじりながら答えるともなく言った。
「だいたい、ビールで満腹中枢をマヒさせなければ、こんな量の食材を食べきれるわけないさ」
「確かに、油物も多いし、梅ジュースや麦茶だと、胸焼けしますね」
そこへ剛太がニヤニヤしながらやってきた。
「お客さん、禁断の飲み物持ってきましたよ」
剛太がゴロゴロ引きずってきた、大型クーラーボックスの氷に埋まっていたのは、なんとコーラやサイダーと強炭酸水だった。
「まじ、健康志向の桔梗学園では見られないものだな。でも1本もらうよ。確か櫛切りレモンがどこかにあったな」
涼は大きめのグラスに、炭酸水とレモンを入れて、氷を浮かべて飲み始めた。
「あー。いいの飲んでる」
舞子が背後からやってきて、涼からグラスを取り上げて、半分以上飲んでしまった。
剛太があきれて言った。
「涼、もう尻に敷かれているのか」
「瑠璃も飲むー」
そのやりとりを見ていた瑠璃がおねだりを始めた。サークルの中で遊ぶのに飽きた瑠璃を、琉は抱きかかえて庭を歩き回っていたのだ。「まずい物を見せた」と、琉がクーラーボックスから離れようとすると、突然瑠璃が柵の外を見つめて、
「熊ちゃんと遊ぶ-」と手をバタバタさせた。
全員がその方向を見ると、子熊が柵の向こうで立ち上がって、中を覗いているではないか。
瑛と久保埜医師が、バスの中からライフルを取り出すのと「京、バリアの透明度下げて」と晴崇が怒鳴るのは同時だった。これから起こることを、子供に見せるわけにはいかない。
涼はすぐさま、舞子を抱きかかえて、広間に飛び込んだ。
和気藹々としていた夕食会場に緊張が走った。
「全員、施設内に待避して、施錠しろ」
何が起こっているのか分からない者も多かったが、普段大声を出さない蹴斗の怒鳴り声を聞いて、全員が避難をした。
小熊が柵の外にいる。つまり、母熊もこの周辺にいるのだ。
瑛と、久保埜医師が暗視ゴーグルをセットした。このゴーグルは、バリアの透明度が下がっても外が見える機能がついている。
「熊ちゃん見えないね」
「瑠璃、よく教えてくれた。熊ちゃん、帰っちゃったみたいだ」
そう言うと琉は瑠璃を抱きしめた。そして自分の震えを必死に押さえた。
鞠斗が有線電話に飛びついて、村役場に連絡を入れた。
「もしもし、里山村役場ですか?交流施設の柵の外に小熊が出ました。応援お願いします。
母熊は出たら麻酔銃を撃ちますが、小熊は・・・・はい。檻を持ってきてくれるとありがたいです」
母熊は、子熊を追って柵のすぐ近くまで来ていた。
「熊の出没は早かったな」
「早かったって、分かっていたの?」
「お前ら、バリア張る前に、トウモロコシ焼き始めただろう」
晴崇に睨まれて、杏はしょんぼりした。洋海が側で慰めていた。
「最近は動物被害のない山なんてほとんどないから、気にするな」
熊の捕獲作戦は思いの外、早く終わったようだ。瑛の連絡を受け、蹴斗と鞠斗が柵の外に出かけていった。かなり大きな熊だったようで、村のトラックに乗せるのに人手が必要だったらしい。
「風呂入れてきます」水脈がさっと動いた。紅羽もその意味を理解して動いた。
「さあ、ご飯の時間は終わったから、片付けようか」
ショックで動けない琉の代わりに柊が、みんなに声を掛けた。
舞子は翌朝の準備のために、炊飯器をセットした。残った食材は朝食に使えるように準備して冷蔵庫に片付けた。
ドーン ドーン 遠くで花火の音が聞こえ始めた。下界では花火大会が始まったようだ。
晴崇が柵の外周に危険がなくなったことを確認して、再度バリアの透明度を上げた。
「2階の方が花火よく見えるよ」
いつの間にか2階に上がっていた杏が、階下のみんなに声を掛けた。
「私、バーベキューの油でギトギトだから、先に風呂に入るね」
2階から下りてきた杏は、そのまま舞子達が準備した風呂に向かった。
舞子が「久保埜医師用に風呂を焚いたのに・・」と声を掛けると、
「熊臭くなるから、先に風呂に入るの」と杏が答えた。
舞子が動くより早く、涼が「放っておけ」と舞子の腕をつかんで止めた。
花火は佳境に達し、ナイアガラの後は、3尺玉が上がるのを待つばかりになったが、4人はなかなか帰ってこなかった。
紅羽は庭に出て、花火を見ながら出かけた4人を待っていた。
「花火を上から見られるって、なかなかない体験だね」
振り返ると剛太が側に立っていた。身長188センチの紅羽より、ほんの数センチ背が低い剛太だが、並んで立つと顔の位置はそれほど変わらなかった。
紅羽は、剛太の顔が誰かに似ていると思っていたが、今思い出した。五十沢健太に似ているのだ。
「何か俺の顔についている?」
「いや、知人に似ていると思って」
「それは紅羽の赤ちゃんの父親?」
「さあね・・・。子供の父親を知りたいの?」
「そうだな。その人と出産後、紅羽が結婚するなら、俺の出番がないと思ってね」
いくら鈍い紅羽でも、剛太が自分に興味があると言うことは分かった。
ただ、健太似の顔で、迫らないで欲しかった。
「それとも、本校の誰かと、もう付き合っているの?」剛太は距離を詰めてくる。
「妊婦にそういうこと言うの?」
「生まれた子も一緒に受け入れると言ったら?」
「ずるい言い方だね。『受け入れる』とは言わないんだね」
紅羽はきつい目で剛太を見返した。
その時、2人の後方で柵の戸が開いた。出かけていた4人だけでなく、里山村の猟友会の人まで入ってこようとして、バリアに弾かれていた。
「あれ?俺たち入れないっすよ」
日に焼けた胡麻塩頭の40男が、戸をバンバンたたこうとした。
「やめてくださいよ。みんなもう寝ていますから」
蹴斗が声を潜めていった。
「折角、熊肉持ってきたのに、ご馳走ですよー。皆さん起きてください」
もう1人のヤンキー風の男が、ろれつの回らない声で叫び始めた。
「蹴斗、鞠斗、こんな酔っ払い放っておいて、中に入ろう」
久保埜医師が、怒り音を立てた。
「この中の子は、未成年なんで酒盛りは遠慮してください」
瑛も少し怒った声で言った。
「18歳なら成人だろう?ちょっとくらいならいいじゃないか。酌だけでもいいから。
お前さん達だけで、きれいな姉ちゃん、独占するなよ」
久保埜医師がついに切れた。
「熊を仕留めたの私たちです。私たちは、熊を仕留めるたびに酒盛りなんてしません。
運ぶために車を出してくださってありがとうございます。あと、檻もありがとうございます」
「行くよ」と声を掛けて、酔っ払いの村人を柵の外に置き去りにして、桔梗バンドをしている4人は柵の中に入った。
「京、バリアの防音機能MAXにして!」
外の様子を覗くため顔を出してきた圭に、久保埜医師は指示をした。
「あの2人酔っ払っていたよな。車で帰れるのか?」
優しい蹴斗が、戸の方を振り返った。
「知るか!女と見れば、酌婦だと思うような連中だぜ。嫁も来ないわけだぜ。こんな考えの古いところ」
鞠斗が吐き捨てるように言った。
「皆さん、お疲れ様。お風呂入っていますよ」
水脈が施設の戸を静かに開けて、声を掛けてきた。
「あー。すいません。熊臭いですよね。みんな、風呂に入るぞ。千尋さん、頭冷やしますよ」
瑛が戸に向かってまだ、仁王立ちしている久保埜医師を施設の中に引きずって行った。
「あれ?紅羽、起きていたの?花火見ていたのか」
蹴斗は、突然暗闇から現れた紅羽に背中を押された。
「あんまり押すなよ。熊臭いよ。そんなに近寄ると」
蹴斗は紅羽が出てきた暗闇から、剛太も出てきたのに気がついた。
「紅羽、剛太に何かされたの?」
「まだ!」
「押すなって、玄関に頭をぶつけるだろ。紅羽も頭ぶつけるよ」
背の高い2人は、日本家屋の入り口ではかなり気をつけなければならない。
蹴斗がそっと振り返って、紅羽の頭を大きな手のひらでカバーすると、紅羽はそのまま涙がこぼれそうになって、顔を上げることができなくなった。
「俺風呂に行くから、2階で待っていろよ。話を聞くよ」
「ううん。いいの。お休み」
階段を駆け上がっていく紅羽を、蹴斗はぼんやり眺めていた。
「にぶちん」
鞠斗に頭をたたかれても、蹴斗は突然のことに思考が停止してしまった。
修学旅行の夜って、恋が芽生えますよね。