将棋部の部室で
5月30日、榎田涼はこの日まで今まで通り通学し、部活動にも参加した。舞子は中間考査の後すぐに、「心臓病のため転地療養する」という理由で退学届を出した。これは2人同時に退学届をして、下衆な勘ぐりをされないようとの配慮でもあった。最後の部活を終えた涼は、部室から荷物を運び出し、帰宅する途中で、将棋部の部室の前を通った。中から言い争うような話し声が聞こえた。
声からすると特別進学クラスで、上位を占める狼谷柊、大神琉の2人に、近澄子が話しかけているらしい。
「ねえ、琉君、おかしいでしょ?舞子さんに続いて、紅羽さんもいなくなるのよ。絶対おかしいわ」
「おかしくないよな、柊。東城寺舞子は病気療養、高木紅羽はバスケットのアメリカ留学。理由もはっきりしているし、たまたま時期が重なっただけだろう?」
「だって、2人ともオリンピック候補選手なのに退学するのっておかしいでしょ?インターハイ連覇もかかっているのよ。学校のために頑張ってもいいじゃない。みんなが応援しているのに」
廊下まで響く声で、近澄子が舞子の悪口を言っているのが聞こえる。涼は聞いているとイライラしたが、つい3人の話をそのまま聞き続けてしまった。
「近さん。病気なのに学校のために頑張るって方がおかしいし、海外留学のオファーが来たらチャンスを逃さない決断の方が偉いと思うよ、俺は」
優しい琉の声も今日は少しいらだって聞こえた。
「近。僕たち、明後日の将棋大会に出るんだから、そんなつまらないこと言って部活動の邪魔しないでくれない?」
将棋部部長の狼谷柊は、ふっくらした外見に似合わない毒舌家である。
「琉君は、将棋部じゃなくてロボコン部でしょ」
「大神はレンタル部員で大会に出てもらうんだ。やっと3人で団体戦に出られるんだから、邪魔しないで欲しい」
「今日のところはわかりました。これからは私と琉君の邪魔しないで欲しいわ。さようなら。琉君、大会が終わったらまた、勉強会しましょうね」
急に出てきた澄子にぶつかりそうになって、涼はのけぞった。ドアも閉めずに澄子が出て行ったので、大神琉がドアの所まで出てきたが、涼を見つけて嬉しそうに腕をつかんで、将棋部部室に引き込み、部室のカギを閉めた。突然引き込まれてびっくりしている涼に、柊が話しかけた。
「榎田涼君、イカスミではなく、僕たちは君と話をしたいと思っていたんだ」
「イカスミ?ああ、『ちかすみ』ね。確かに、いつも墨みたいに毒を吐くね」
「流石、理解が早い。明日からいい仲間になれそうだ。僕たち3人は桔梗学園の男子1期生だそうだ」
将棋盤の前で銀縁の眼鏡を光らせながら、柊が話した内容を聞いて、涼は納得した。
「君たちが例のヤングケアラーなのか?」
「そう、今『流行の』ヤングケアラーなんだ。僕たち」自嘲的に柊が答えた。
「嘘だろう。2人とも全校1、2番を争う秀才じゃないか」
「優秀だから、妹の世話をしていても家事をしていても、もう高校3年分の授業内容は終わってしまったんだ。なのに特別進学クラスに入れられ、朝の補習に休日の模擬試験。挙げ句に、自分ではお勉強ができないイカスミのような生徒の勉強の面倒まで見せられ、もううんざりなんだ」
今まで黙っていた琉も口を開いた。
「担任に言われてあんな女の勉強見なきゃならないのに、俺は大学進学もできないんだよ。不条理だね」
「桔梗学園は無認可の学校だろう?君たちのような優秀な生徒にメリットはあるの?」
「僕たちには、君のように彼女とラブラブの生活をするというメリットはないが、子守からも家事からも解放されて、勉強三昧できる上、学費は無料で、付属の研究所で大学や企業並みの研究ができるという夢のような生活が待っているんだ。僕は母親が桔梗学園の1期生だというコネクションを使って入学するんだ」
涼からすれば、カチンとするような言い方をされて気に障ったし、柊の話し方自体が傲慢で、とても仲良くできそうもない気がしたが、自分の知らない情報を知ることができるので黙って話させておいた。
1年の時、涼と同じクラスだった琉の物言いは、もう少しソフトだった。
「俺はさ、本当はロボコン部の活動がしたくて桔梗高校に入ったのに、一番下の瑠璃がまだ3歳でその世話と家事のために早く帰らなきゃならないんだ。7人兄弟だから大学進学なんて無理だし、大学に行かないから模擬試験も補習も受けたくないって言っても、担任が特別進学クラスに例外は許さないって。でも、桔梗学園には校則はほとんどないも同然だし、授業も自分のペースで行えるらしい。だから、柊君のお母さんに頼んで、入学の許可をゲットしたんだ。で、涼君はどうやって入学できたの?」
この2人は成績がよいようだが、桔梗学園をパラダイスだと信じ込んでいるところにお坊ちゃま感が溢れている。反対に、涼は進んでも退いても茨の道だと覚悟しているので、彼らの話はなかなか信じられない。しかし、もっと情報が欲しいので、自分の情報を小出しにしながら会話を続けることにした。
「東城寺舞子の祖父さんが、桔梗学園のスポンサーの1人らしくて」
「当たりー!」琉が叫んだ。
「御免。俺らも涼君の相手が、高木さんか東城寺さんだと思っていて、涼君から聞きたかったんだけど、直接聞くわけに行かないじゃん。俺は東城寺さんが相手だと思ったんだよ。部活も一緒だしね。だけど柊が、涼君の相手は高木紅羽さんだって主張するもんだからさ」
「え?高木さんも妊娠しての転学なの?イカスミが怪しいって言ってたのは的を射ていたんだね」
「あいつはおしゃべりでスピーカーだから、絶対情報を感じ取られちゃいけないよ」
「高木さんの相手については、僕たちに関係ないと言うことでこれ以上詮索しないようにしよう。
そこで、実は僕らは明日朝、内容証明郵便で退学届を学校に送って、学校を去ろうとしている。涼君はどうする」
さっきまでのヘラヘラした感じから一転した話しぶりで、柊が涼に訪ねてきた。
「担任の机に退学届をポンって置くと引き留められるから?」
「まあそういうことだ。今晩から入学の荷造りでもしようと思っている。入寮は明日午後からだろう?僕たちは乳幼児連れの入学だから、準備に手間もかかるしね。」
涼は柊の事情も知りたかったので重ねて質問した。
「柊君の妹さんは何歳?」
「0歳。うちの母親は産休明けたら、すぐ海外派遣が決まったんだ。妹連れて行こうにも政情が不安定な国で、しょうがなく置いて行ったんだが、
『大丈夫、男3人でも子育てできる』なんていいかっこしていた父親は毎日残業だし、
弟は『高校1年から受験勉強しないとT大には入れない。お兄ちゃんと違って、僕は凡人だから』って、妹が泣いても部屋から出てきやがらない。
正月から3ヶ月。気が狂いそうで母親に国際電話をして救援を求めたら、智恵子クラークという女の人が訪ねてきて、『お母様からご依頼があったので来ました』とか言って、入学の手続きしてくれた」
涼は、柊が赤ん坊を一人で、5ヶ月間も面倒見てきたことを知った。今まで家の手伝いなど一切せず、勉強と部活動に没頭してきた自分が恵まれていたことに改めて感謝するしかなかった。そして、その生活を自分で壊してしまった浅はかさを、今更ながらかみしめていた。
「じゃあ、延長保育の時間が終わりそうなんで、俺帰るね。明日1時、桔梗駅で会おう」
柊がそう言って新しいクラスメートとなった3人は将棋部の部室を後にした。彼らはもう二度と入ることがない桔梗高校の校舎を、振り返ることなく帰路についた。