キューバ女子との練習会
「涼の外泊」の後半です。
T大学の男子練習は、9時からの乱取りから始まる。それまでに各自が乱取りができるように体調を整えるのだ。
太鼓の合図と共に「6分20本乱取り開始」のかけ声と共に、相手を見つけたもの同士が乱取りを始める。投げて1本取るか、押さえて1本取るか。試合さながらの稽古が始まった。
涼は早速、森川に捕まった。
「涼ちゃん、大きくなっただけじゃ駄目だよ。力も筋力もついてきているかな?」
そう言いながら、涼をぼろ雑巾のようにたたきつける。結局1本も投げ返すことができなかった。
そんな乱取りを10本もすると、吐き気がこみ上げてくる。「ちょっと失礼」といって、トイレで吐いて口をゆすいで、また乱取りに戻る。
(舞子は悪阻で吐きながらよく練習を続けていたよな)
結局、涼も気合いで、20本の乱取りすべてに参加した。
「15分休憩」
道場の外には、葛湯とスポーツドリンクが、巨大なポリバケツに用意してある。涼はすべて食べたものを戻してしまったので、葛湯を2杯飲んだ。胃がぽかぽかしてきた。
休憩の後は「1本取り20本」だ。5分の乱取り中、相手を投げたら休憩に入れる。強い者はたくさん休める。負けた者は残った者同士、投げ合う。誰も投げられない者は、5分間ずーっと乱取りをする。
1本も人を投げられなければ、100分間休憩なしだ。涼は1回、頭をリセットして、得意の左右技を出した後、舞子と練習している寝技や関節技を掛けることにした。研究の成果を実践で確かめるためにここに来たのだ。
午前の地獄のような練習が終わった。男子部員は、午後はトレーニングに出かけると言うことで、三々五々道場を出て行った。悠太郎は、涼と一緒にキューバ女子との練習に出てくれるようだ。
悠太郎と一緒に、道場でシャワーを浴びて、私服に着替えようとした涼は「あー」っと、素っ頓狂な声を上げた。「どうした」と悠太郎がタオルを腰に巻いたまま、見に来た。
涼が鞄から着替えとして出したのは、いつも着ている鶴田縞の猿袴ではなかった。
舞子の猿袴を持ってきてしまったのだ。道場で一緒に着替えているうちに、舞子の服を間違えて鞄に入れてしまったらしい。舞子は猿袴をリバーシブルで作って、内側に昔自分が着ていた浴衣の生地を使ったのだ。舞子の母が、試合ビデオを持ってきた時、手芸用に浴衣をほどいて入れてくれたのだという。
「それ、舞子が小学生の頃着ていた金魚の浴衣じゃないか」悠太郎が、猿袴を見て言った。
白地に赤い金魚が泳ぐ浴衣は、舞子の白い肌によく似合っていたのを覚えている。
だが、まさかそれを表にするわけに行かないので、青い鶴田縞の方を表にして、涼はしょうがなく猿袴を着た。今でも、舞子の方が15kgほど重いので、かなりゆったりした着心地だったが、暑い季節にはちょうど良かった。
着替えた後は、監督の差し入れのうな重弁当を食べて、2人で道場に大の字になって眠った。
1時間ほど昼寝をしていると、どやどやと女子キューバチームの面々が道場に入ってきた。廣井監督の奥さんが、T大女子柔道部の監督をしているのだが、涼のことを覚えていてくれたようだ。
「涼君、練習に参加してくれるんだって?大きくなったね。涼君は舞子ちゃんの練習パートナーもしているから、助かるわ。悠太郎君だけじゃ、大変だもんね」
廣井美鳥は、元日本代表女子柔道選手だった。その伝手で、キューバチームはT大学を日本の合宿地に選んだのだ。
キューバチームは大柄で筋肉質な体型をしている選手が多かった。それぞれ柔軟運動や打ち込みを始めた。涼達は、端の方で着替えを始めた。すると、キューバチームの方が騒がしくなった。
「Those pants look really cute. 」(あのズボンまじ可愛い)「Look!」「Lovely」
涼は、猿袴を半分脱いだところで固まってしまった。内側の金魚柄を見られてしまったようだ。次々に女子選手が走ってきて、猿袴を引っ張る。
「先輩助けて・・・・」
「脱いで見せてやれば?」
「Are these pants handmade ?」(このパンツ手作り?)聞かれて、涼は英語で答えた。
「My girlfriend made them」(彼女の手作り)
涼は多少聞き取りにくくはあったが、キューバの人たちの英語で受け答えできている自分に、ちょっとびっくりした。
猿袴を借りた選手は、すぐさま金魚地が見えるようにひっくり返して、涼に尋ねた。
「Can I try them?」(着ていい?)
「Sure」(どうぞ)
許可が出たので、ファッションショーが始まってしまった。
「I love them」とそのまま着て行ってしまいそうなので、涼は「これは彼女が思い出の着物で作ったもので、あげられない」とかなり強く言った。
キューバの選手は、「青い縞の上に金魚が泳いでいるように見えてとても素敵なので、同じようなものが欲しい。作ってくれないか?」とまだ粘った。
しょうがないので、「帰ったら彼女と相談する」ということで、デイジーというキューバ選手とアドレス交換をした。
涼は実はそろばんを弾いていたのだ。涼の母親の実家は呉服店だったが、祖母も高齢で誰も跡取りがいない。たまに、涼はそこの端切れを使って、アクセサリーを作ったことがあった。最近、店を畳む話が出ていた。そこに浴衣の生地がたくさんあったのだ。新幹線の中で考えていた商品のアイデアが思いついた。
「はいはい、時間ですよ。乱取り始めます」
廣井美鳥監督は、現役の時は、美人選手で有名だったが、監督としても一流選手を何人も育てている名将だ。とても厳しい。キューバ選手が元立ちで、そこにT大や附属高校の女子選手が当たるのだが、1本目から「RYO」をご指名する声があちらこちらからする。中にはわざわざ近寄ってきて気が済むまで涼と乱取りしようとする猛者もいる。
涼のお目当ては重量級選手だ。100キロを超える女子選手と積極的に戦った。舞子が使おうとしているすべての技を出して乱取りをする。
廣井美鳥監督から、「涼君、舞子とやり過ぎなんじゃない。柔道変わっているよ」と突っ込まれてしまうくらいだ。しかし、取れるデーターはすべて得られたので、休憩時間は、スマホにその情報を入力する。寝技でも女子特有の体の柔らかさを、痛感しながら、試行錯誤をした。
練習がそろそろ終わりそうな頃、ついに涼は今まで断り続けてきた中量級の選手に捕まった。
「Save the last dance for me」(ラストダンスは私に)といいながら彼女は、涼を畳の中央に引きずっていった。美鳥監督から「最後くらい涼の柔道で戦ってあげたら?」と声が飛ぶ。
キューバ選手からは、冷やかしの口笛が飛ぶ。
涼はその日初めて、自分自身の柔道に切り替えて、全力で戦った。体重はほぼ同じくらいの、投げても投げてもゾンビのように立ち上がる彼女との柔道は、ものすごく楽しかった。
涼は、自分の口元がほころんでいることに気がついた。舞子の出産が終わったら、こんな柔道を2人でしてみたいと考えていたら、最後に大腰で見事に投げられてしまった。涼は天井を見上げて、大笑い。楽しい6分間だった。
試合に勝つための柔道でなく、投げたり投げられたりする楽しい柔道を、涼は初めて知った。投げられても誰にも怒られない。そんな柔道こそ本来のスポーツなのではないか。
桔梗駅に着いたのは、夜11時頃だった。三川杏が駅まで迎えに来ていてくれた。
「今日初めて人を乗せて運転するんだ。後部座席が安心だよ」
何を考えているか、怪しい杏だったが、今日のお迎えは嬉しかった。
涼は女性に囲まれても、舞子一筋なんですね。