涼の外泊
涼は入学後初めて外出しました。そこで何があるのか。お楽しみに。
薫風庵のファーストチルドレン同様、桔梗学園の6月入学生はそれぞれに日曜日を過ごしていた。
桔梗学園に居残ったのは、柊と琉、紅羽と舞子の4人。
紅羽と舞子は、食堂にあるTVでN県の高校野球の予選を見ていた。その日のカードは、桔梗高校とN市の強豪私立B高校だった。食堂は地元桔梗高校を応援する人で、それなりに混雑していた。紅羽達はTVから一番遠い、庭の紫陽花がよく見える窓際の席に座っていた。
会場は県下最大の野球場コメダスタジアム。準決勝なので、全校応援である。昨年はベスト4で敗退だったので、応援にも熱が入っている。スタジアムにはよく知った顔が見える。TVカメラはオリンピック選手でもある碧羽を大写しにしていた。首から桔梗色の揃いのタオルを掛けており、応援団の号令で、振り回していた。
ピッチャー五十沢健太は、今日も安定したピッチングで、丁寧にコーナーを攻めていた。キャッチャーの山田一雄も落ち着いている。しかし、強豪B高校は、だんだん五十沢の珠に目が慣れてきて、少しずつ打球が外野に飛ぶようになってきている。まだ、球数制限に余裕があるが、決勝まで進むことを考えると、2年生の左腕山田雄太に代えるべき時だ。しかし、昨年は8回で仲村に交代して、逆転負けした。嫌な思い出のある場面だ。
監督はブルペンで投球練習していた雄太を呼んでいる。やはり8回で代えるようだ。
ベンチに下がった健太は、タオルに顔を埋めてじっといている。
山田一雄はマウンドの雄太に駆け寄って、グローブで口元を隠しながら、何やらアドバイスをしている。雄太が自信に満ちた顔でバッターに向かった。兄弟バッテリーは流石に息もぴったりで、緩急織り交ぜ、見事に9回まで押さえきってしまった。喜びに沸くベンチとスタンド。そして食堂にも大きな拍手が沸いた。
舞子が「決勝は雄太が先発かもね」と言った。応援に集まっていた人々は、徐々に食堂から出て行った。
紅羽だけが、まだTVの五十沢健太を目で追っていた。心なしか、うつろな顔で健太はスタンドの桔梗高校生やOBOGへの挨拶をしていた。誰もが、押さえきった2年生ピッチャー雄太をねぎらっている中、健太だけが1人、誰よりも早くベンチに戻っていった。
食堂の入り口で妹を抱いてTVを見ていた柊と琉は、紅羽の様子を盗み見ていた。
「やっぱり紅羽の相手は、五十沢健太だと思うんだけど」
下世話な話が好きな柊は、どうしても真実を突き止めたいようだ。
「俺もそう思う。あれ?涼は?」
「気がつかなかったのか?涼は昨日夕方に、自宅に帰ったよ。涼の家にある試合のビデオも持って来たいんだって。ついでに、舞子の兄貴がいる大学に出稽古に行きたいって言っていた」
ドローンレース部の出し物にかかりっきりだった琉は、昨日、涼に会えなかったようだ。
「舞子の兄貴の大学ってどこ?」
「K県のT大学だって」
「柔道の強豪じゃん」
「なんか、体育祭の日、舞子の練習相手に外国人の選手が2人来たんだって。世界的に有名な強豪選手で、涼はその2人の相手もすることになるらしい。実践からかなり離れているから、勘を戻すために練習してきたいって言っていた」
涼は体育祭の日、母親と一緒に自宅に戻った。
「涼、戻っていたのか。桔梗学園は・・・」父親の声に答えず、涼は2階の自分の部屋に上がった。壁一面に置いてあるビデオに手を付ける前に、涼は真っ先に舞子の兄、悠太郎からのメールを覗いた。母親の車の中で、前もって送っておいたメールへの返信が来ていた。
悠太郎からは、今晩、T大学柔道部の寮に泊まっていいこと、明日1日練習に参加してできることが書いてあった。涼は、勉強机の引き出しから、小遣いの入っている財布を出した。アクセサリーの売上金が入っているはずだった。
(もっと入っていると思ったのにな)
そこには4万円しか入っていなかった。
(桔梗学園に行く前に、レジンなんかを買ったんだっけ。高校退学したから学割がもう使えないのが痛いな。まあ、寮に泊まれるし、コンビニで握り飯でも買えば間に合うな)
試合のビデオを段ボールに詰めて、柔道着の入った鞄と一緒に抱えて、親への挨拶もそこそこに涼は自宅を出た。
「待ちなさい。涼、駅に行くなら送るよ」父親の秋作が車のキー片手に着いてきた。
「新幹線に乗るなら、桔梗駅よりN駅まで行った方がいいだろう。段ボールは近くのコンビニで送りなさい」
涼は後部座席に荷物を置いて、助手席に仕方なく乗った。
車は国道を20分ほど走って、N市中心部のバイパスに乗った。そこで秋作はやっと口を開いた。
「舞子さんは元気か」
「うん、毎日柔道している。勉強もしっかりしている。1ヶ月で数Ⅲが終わった」
「いい先生がいるんだね」
涼の両親は小学校の教師なので、子供の勉強が心配なのだろう。
「いや、授業はない。ビデオ見たり、友達に習ったりして自分のペースで学ぶ。来月はプログラム言語を勉強するんだけど、インストラクターは小学校6年生の女の子らしい」
「桔梗学園って、教師はいないのか?」
「特にいないようだけれど、医者が来て専門の話をしてくれたり、研究所の人が手助けしてくれたり、後は図書館があって、そこにない本は頼めば揃えてくれる」
「でも、高卒の資格は取れないんだろう?」
「高等学校卒業程度認定試験を取って、大学に行く人も多い。でも、医者とか保育士とか資格が必要な仕事以外を希望する人は、桔梗学園の中でずっと研究している人もいる」
「お前は大学に行かないのか?」
「わからない。今は舞子のサポートで精一杯だ。大学のスポーツ工学レベルの実践は、毎日行っているから、大学行ってもきっと一般教養の2年間が退屈かも知れない」
そこまで言った後、涼は強い言葉で言った。
「多分、桔梗学園のシステムは、父さん達の今までの常識では、理解できないことかも知れないが、今までの『普通』はもう時代遅れだと思っている。舞子の試合が終わったら、その先の進路について考える。駅まで送ってくれてありがとう。悠太郎さんのところ行ったら、そのまま桔梗学園に帰るから、当分会えないけど、元気でね」
「涼、交通費を持って行け」と秋作は財布から2万円を出して、涼に渡そうとした。
「大丈夫。じゃあね」
涼は荷物を抱えて、振り返ることなく、駅に向かっていった。
色が浅黒くなり、体重も筋肉も増えた涼のたくましい背中を見て、秋作は涼が自分の手から羽ばたいていってしまったことを実感した。
新幹線の中で、涼は考え事をしていた。父親から2万円を受け取らなかったことを、少し後悔していたのだ。しかし、親の言うことを聞かないで、うちを飛び出したのに、今更親から小遣いを受け取るなんて、格好悪すぎて受け取れなかったのだ。
鞠斗さんの絵みたいな、収入源が欲しいな。
鞠斗さんの販売サイトに、俺のアクセサリーも載せて貰えないか?
鞠斗さんの絵画のアンカリング効果で、値段設定を高くしても売れるかな?
いや、小振りのアクセサリーだと鞠斗さんの商品と値段的に釣り合わない。
いっそ、金のある30歳以上の女性をターゲットにした商品を作れないか?
ブローチとかバレッタとかもっと大振りで、豪華なもの・・・
そんなことを考えているうちに、新幹線は東京駅に着いてしまった。
T大学柔道部に涼が出稽古に来るのは、今回が初めてではない。もともと外部の選手の出稽古はウエルカムなので、東城寺悠太郎の伝手で、涼は何度も来ていて、男子部監督とも顔見知りだった。
「お久しぶりです。明日1日よろしくお願いします。今日は東城寺先輩の部屋に泊まらせて貰います」
T大学の柔道部の廣井監督は柔道部の寮監も兼ねていた。いつもの通り、ニコニコしながら言った。
「良く来たね。明日丸1日練習して貰おうと思ったんだけど、午後はキューバの女子ナショナルチームが来ていて、大道場を明け渡さなければならないんだ」
涼はすぐさま廣井監督に申し出た。
「午後は女子チームと練習させて貰えませんか」
「いいの?榎田君、女子と練習するの上手だから助かるよ。お昼おごるから頼むね」
夜は東城寺先輩の部屋に布団を敷いて、泊まらせて貰った。
「1ヶ月ぶりだね。母さんから聞いたよ、父さんには当然秘密だけど。舞子は元気?」
「すいません。舞子さんの将来を潰すようなマネをして」
「舞子も同意の上だろう?涼1人の責任じゃないさ。舞子は親父の指導から離れたがっていたから、涼こそ利用されたのかも知れないよ」
「そんなこと・・・」
あるかも知れないと、涼は少し考えた。
「涼ちゃんが来ているんだって?」」
悠太郎先輩の部屋のドアが突然開いた。素っ裸の森川キャプテンが部屋をのぞき込んでいる。
「先輩、風呂に行ってから、服脱いでくださいよ」
「男子寮に何の気兼ねがいるのだろうか。涼ちゃん、もう高校3年生だろう?来年、うち来てね。あれ、大分体が大きくなったね」
涼はもう自分が高校生でないことも、T大の柔道推薦では入れないことも、森川に言えずに下を向いていた。
「先輩、こいつは明日、キューバの女子とも乱取りするんですから、早く休ませてやってください」
「わかった。十分休養取れよ。みんな超重量級だから。でへへ」
ちょっと嫌らしい笑いを立てながら、森川キャプテンは嵐のように去って行った。
「相変わらず、部屋の鍵を壊されているんですね」
「まったく、プライバシーがないんだ。この寮は」悠太郎は苦笑した。
「ところで、舞子の話」
「すいません。舞子は出産後、全日本女子柔道選手権に出るつもりです」
「無理だろう。いくら去年の優勝者は予選免除だって、出産後、時間がなさ過ぎる」
「でも、舞子は出て優勝するつもりで、桔梗学園に『チーム舞子』を作って、あらゆるサポートを受けているんです。実は偶然なんですが、今、うちに、キューバの世界選手権3位だったマリア・ガルシアが来ているんです」
「なんで?」
「桔梗学園が舞子の練習相手として、スカウトしてきたみたいなんです。モンゴルのオユンも」
「世界ジュニア選手権で舞子と当たった子?」
「そうです。そうすると俺は彼女たちとも練習しなきゃならないので、今回の練習会は、僕にとって渡りに船だったんです」
「まあ、女子の練習相手は気を使うし、女子は体が柔らかくて、男子のようにスパッと投げられないからな」
「舞子の話も大切だけど、涼は舞子の子が生まれたら、その後どうするんだ?」
涼は兄のように慕っている悠太郎に心配されて、少し涙腺が緩んでしまった。
「まだ、何にも考えていないんです。ただ自分の選択は後悔していません。それに桔梗学園の仲間のレベルが高すぎて、今は勉強についていくのがやっとなんです。将来のことを考える余裕がないって言うのが、正直な話です」
「お前、一般受験で桔梗高校に入ったんじゃないか。優秀なんだろう?」
「あそこでは落ちこぼれなんですよ。俺が1ヶ月かかって数Ⅲを終わらせたのに、次のプログラム言語の指導は、小学6年生にやらせるって言うんです」
「嘘だろう?小学6年生なのに、高校3年生の数学が終わっているってことか?」
「全員ではないでしょうが、そういう子がゴロゴロいるってことです」
「まあ、弱音を吐くな。いつもお前は、Slow and steady(ゆっくり着実に)で、最後にはみんなを追い抜いていくじゃないか。焦るなよ」
「そうですね。悠太郎さんと一緒にいると、勇気が出ます。明日はよろしくお願いします」
静かな涼の寝息を聞きながら、悠太郎はぼそっと言った。
「お前だから舞子を任せられるんだよ」
後半に続きます。