もう一人の被害者
残酷な描写があります。苦手な方はこの章は読まないでください。
三津の救助に行きたい気持ちを押さえて、一雄は薫風庵に走って向かった。薫風庵に着くと、深刻な顔をした美規が、地下室に一雄を連れて行った。
薫風庵に来ることはあっても、一雄は地下室に来ることはなかった。京が働く部屋を一雄は興味深く見回した。
しかし、晴崇から被せられたヘッドホンからの音声を聞いて、一雄は固まってしまった。
聞こえる音声は、女性の泣き叫ぶ声だった。
「何の音声?」
晴崇は、京に応えるように促した。
「藍深の桔梗バンドが捉えた音声。俺たちが、帰った後から3時間以上、この叫び声がしているらしい」
「一雄、もう一人いるのはお前の弟、雄太だろう?」
美規も音声を聞いたらしい。
「京が心配だというので、藍深の桔梗バンドにチューニングを合せたが、どう考えても、悪質なDVだな。途中で、藍深を殴る音も入っている」
晴崇が、時間を巻き戻して、殴る音のシーンを再現した。
「嫌だ。もう止めて。痛い」
「おい、何で血が出ているんだ。2回目だろう?まさか、生理か?子供が出来立っているのは嘘だったのか」
その後、鈍い音が何回か聞こえた。そして、藍深の泣く声が小さくなっていった。
美規が断固とした声で命令をした。
「一雄、京と一緒に藍深の救出に行って。流産だけじゃなく、藍深自体の命も危ないかも知れない」
「京、住宅の鍵は開けておいたから、すぐ入れるよ」
ここにも一人、命の危機に遭っている女性がいたのだ。
一雄と京が、山田家のコンテナハウスに到着して、玄関ドアを開けた時、雄太はシャワーから上がって、ソファーで一息ついているところだった。
「兄さん。どうしたの?忘れ物?」
雄太の言葉に耳を貸さずに、一雄は二人の部屋だという部屋のドアを開けた。
「何するんだよ。俺たちの部屋だぞ」
雄太は、後から部屋に入ろうとする京の腕を、強く引いて引き止めようとした。しかし、京は振り向きざまに、雄太の鼻に裏拳を食らわした。鼻の骨が折れた雄太が、のたうち回っている間に、二人はベッドで動かない藍深を発見した。
一雄はあまりの様子に立ちすくんでしまった。
裸の藍深は、殴られて片目が潰れ、唇が切れていた。体中には強く掴まれた指の痕が、無数にあり、白い足には血の筋が見えた。
「藍深ちゃん。京だよ。聞こえる?」
京は、藍深の呼吸を確認し、手首を掴んで脈も計った。
「生きている。脈はかなり遅いけれど、息はしている。一雄、シーツごと藍深ちゃんを抱えて、ドローンに乗せるよ」
「義姉さん。俺の鼻は・・・」
床で鼻を押さえている雄太が、辛うじて京に話しかけた。
「鼻が折れているんじゃない?パパとママでも呼んだら?悪いけれど、俺はお前の姉になったことはないからな。藍深もお前の所有物じゃない」
保健室2では、名波と陸の2人の産婦人科医が待機していた。一雄は藍深を下ろすと、そのままドローンで東城寺に氷河外科医を迎えに行った。
3人の医者はあまりの被害のひどさに、涙を流しながら藍深の処置に当たった。
「3時間も暴行を加えたんだって?」
「鬼畜だね」
「止めてって行っても止めなかったんだろう?」
「『嫌よ嫌よは好きのうち』って考える男っているんだね」
「感染症も起こしている。赤ちゃんは駄目だな」
顔の様子を見ていた氷河もため息をついた。
「眼窩底骨折している。視力は眼科に確認しないと、分からないな。動かせるようになったら、眼科に搬送だね。歯も折れている」
「京ちゃんが、折れて転がっていた歯を3本回収してきている」
「ない歯の本数としては合っているね。でも、ここは歯科の設備がないから、歯は戻せないね」
医師達の必死の処置で、藍深の命は守られた。藍深の意識が戻ったのはそれから3日後だった。
京は藍深のリュックも回収してきていた。リュックの中のスマホを開いて、藍深が見た最初のメールは、三津からの結婚報告だった。
藍深の意識が戻らない間、一雄はしかるべき処置をしていた。
まず、秋田に戻った両親を至急、呼び戻した。
両親が戻るまでの間、雄太は誰もいないコンテナハウスで痛みにのたうち回っていた。
次に、両親に雄太の暴行と、それにより藍深が流産したことを告げた。
両親は今度も、藍深の実家、五十沢家に事実を告げることも、謝罪することもしなかった。
最後に、雄太を富山分校から追放した。雄太の荷物は両親の避難先に送り届けた。その後、雄太は傷害罪で起訴された。
山田家のコンテナハウスは、その後売却され、リフォーム後、県外から来た若い兄弟が購入した。
意識が戻った藍深はDV被害者と言うことで、桔梗学園で生活することになった。
児島内科精神科医師が、最初は一緒に暮らすことにした。藍深は、最初のうちは、スケッチブックにも手をつけず、一日中何もせず過ごしていた。
そのうちに、児島医師と朝仕事に連れて行かれたが、作業はせずにずっと虫を見て過ごしていた。
最初に藍深に声を掛けたのは、琳だった。
「おい、おばさん。『働かざる者食うべからず』だ。仕事をしろよ」
「琳、おばさんじゃないよ。お姉さんだよ。ねえ、お姉さん。青虫一緒に取ろう。ナメクジも。青虫やナメクジがいると、キャベツが穴だらけになるから。琳、虫取りも仕事だよ」
「風太がそう言うなら、一緒に仕事教えてやれよ」
それから、風太の後を、バケツを持ってついて歩く藍深が見られるようになった。
それから、藍深が小学生と一緒に過ごすようになった。
鬼ごっこの鬼をしたり、キャッチボールをしたり、子供の似顔絵を描いたりする藍深は、どっちが子守しているのかよく分からなかったが、少しずつ笑顔がこぼれるようになってきた。
事件から、1ヶ月ほどしたある日、琉と柊が昼食をとっていると、藍深の方から柊に話しかけに来た。柊は、児島医師に当分、話しかけないようにと注意されていたので、藍深が話しかけに来てくれて安心した。
「柊さん、これ」
そう言って、藍深は久し振りに柊にスケッチブックを渡した。
そこには、色とりどりの青虫が描かれていた。今までの藍深の描く絵は、精密な風景画や人物画だった。今回の絵は、もっとエネルギッシュで、明るい絵だった。
「随分、カラフルだね」
「風太や琳が、言うとおりの色で塗っているうちにこんな風になったの」
「いつものように、この絵もHPに載せていい?」
「売れるかな?」
「僕はいいと思うけれど」
「売れたら、琳や風太達に何か買ってあげていい?」
「何を欲しがっているの?」
「スキーの道具」
「そうだね。レンタルじゃ、もう我慢できない頃だね。喜ぶと思うよ」
柊の笑顔に、藍深がほんのり笑顔を返した。そして柊の左指を指して言った。
「おめでとうございます」
銅製の少し大ぶりの指輪は、表に結婚した年月日が小さく刻印されていた。三津の指輪は、運動中に邪魔にならないように、細い形状だった。
「三津の大会が終わったら、もっとちゃんとした指輪を作るよ」
「でも、綺麗」
「銅の指輪は手入れが大変だけれどね」
そう言って、柊はハンカチで丁寧に指輪の表面を拭いた。
スケッチブックを週に預けて、藍深がテーブルから離れていった。
「藍深ちゃん、大分明るくなったね」
「うん、琉にはそう見えるか。でも、片目の視力は半分以下になったらしい。球技は今までのようには出来ないかもね」
「三津はこの事件のことを知っているのか?」
「一雄と京が、直接、岐阜分校に行って話したらしい」
「三津はなんて言っている?」
「さあ、何も言わないな。三津も死にかけたから、あの日の話はなるべくしないようにしている」
「ところでさ。三津は卒業後の進路はどうするんだ?」
「看護師になりたいらしい。そのために4年制大学の看護科を目指すんだって」
「看護師長にでもなりたいのか?」
「いや、国際看護師を目指すんだって」
「それは、柊が海外に留学してもついて行きたいってことか?」
「えー?そういうことなの」
「本当、そういうところ、お前は鈍いよね。大学の費用はどうするんだろう?桔梗学園が出してくれるのかな?」
「さあ。半分くらい出してくれるんじゃないかな。残り半分は俺が出すよ」
「どこにそんな金あるんだよ。お前のお母さんだって、外務省辞めさせられたんだろう?」
「それが、弟の勘違いで、実は外務省内部での左遷だったらしい。母親は外務省相手に訴訟を起こすってゴネたら、元のポスト以上のところに戻して貰ったって。まあ、僕の結婚で強気に出ることが出来たみたい」
「三津様々だな。勿論、偽装結婚じゃないんだろう?」
「三津と結婚したら、喘息の発作が出なくなったんだ。僕の方が、三津から離れられないかも知れない」
「ご馳走様でした」