防潮堤
緊張感溢れる前半と、少しデレる後半でした。明日は、一雄達が救助に向かった先の話をします。
大きな地震の後は数年、余震が続くが、今回もその余震の一つだった。
今日は朝から小さな余震が来ていたが、コンテナハウスはほとんど揺れが感じられないので、三津は深く考えずに、浜辺にランニングに来てしまっていた。
浜茶屋は大きく揺れ、柱はミシミシと音を立てた。三津は必死で柱にしがみついて揺れが収まるのを待った。揺れが収まった時、三津は津波を恐れて海に視線を移した。
テトラポットの内側の水はほとんど干上がっていた。
三津は、自分がつかまっている柱が、大きくひび割れていることに気がついた。
三津は咄嗟に、浜茶屋から飛び降りた。下りた瞬間に茶屋の柱が一本折れた。
三津は、崩れ始めた茶屋を見向きもせず、浜を走り出した。地震のため至る所が隆起している浜は、走りにくく、一部はひび割れて海水が噴き出していた。
ゴー
大きな音に振り返ると、海水が無数のテトラポットを飲み込みながら、浜に迫っていた。
三津は砂に足を取られながらも、村道浜道まで走った。
足元には大きなクラックも空いているので、下に注意を向けながら三津は必死で走ったが、顔を上げると、三津が目指していた村道の前に、大きな壁がそびえていた。
「防潮堤だ」
震災の後、桔梗村や桔梗学園村では、津波の可能性がある場合は、防潮堤を作動させることになっていた。普段は地面の下に格納されている防潮堤が、前回新潟市を襲った津波の高さ+10mの高さまで伸びることになっている。藤川の河口も、藤ヶ山も九十九農園もすべて守る長大な防潮堤だ。
三津が着いた時には、防潮堤は既に5mの高さまで伸びていた。
「誰かぁ。お兄ちゃーん。三津はここにいるよぉ。思い出してぇー」
ドーン。ドーン。
いくつかのテトラポットが、防潮堤にぶつかったが、防潮堤はびくともせず、どんどん高度を上げていく。
三津は腰まで、海水に浸かって、防潮堤に張り付いていたが、引き波に体を持って行かれそうになった。
鋼鉄の防潮堤に手を引っかける場所があるはずもなく、三津の爪はむなしく防潮堤を掻いた。
辛うじて触れている防潮堤からは、テトラポットがぶつかる振動が伝わってきた。
三津が再び引き波にさらわれる寸前、三津の脇を掬って引き上げた人物がいた。
「三津、よく頑張った」
三津の体は、誰かの腕と足でホールドされた。三津の体が海上に持ち上げられた瞬間、三津が張り付いていた防潮堤に大きなテトラポットがぶつかった。間一髪だった。
ドローンに引き上げられた三津は意識を失っていた。柊が間髪入れず、心肺蘇生を始めた。
「三津、大丈夫か?」
「柊、人工呼吸をいったん止めろ。水を吐き出した」
「オッケー。横に向けて、水を吐かせる」
ごほごほ。
「三津。息をしているか?」
一雄ではない誰かが三津の名を呼んでいる。
誰かの頬が、三津の唇についた。
「頬に、息が触れる。三津が呼吸し始めた」
三津の目の前で、誰かが手を振っている。
「見えるか?三津」
三津が両手をゆっくりその顔の方に伸ばした。三津の手をしっかり掴む手があった。
「柊、保健室1に横付けするぞ。三津を抱えられるか?」
「行ける」
「深海医師と四十物医師が待機しているそうだ」
「ん?小児科医ばっかりだな」
「外科の氷河先生は、山が崩れていて危ないからと、悠太郎さんが出したがらないそうだ」
柊は、ほぼ毎日バドミントンをしている2人の医師がいることで、少し気が楽になった。
琉がドローンを保健室1に横付けすると、まだハーネスをつけたままの柊が三津を抱えて走り出した。
「すいません。山田三津です。防潮堤に張り付いていました。水を吐いて、弱い呼吸を始めました」
「よし、よくやった。柊もハーネス外して、シャワー浴びて、その後、君の怪我を確認するからね」
柊がシャワーを浴びている間に、三津の意識は戻った。
「三津ちゃん。気がついた?」
「お兄ちゃん?」
「いや、御免ね。お兄ちゃんじゃないんだ。深海だよ。柊と琉が、三津を助けに行ってくれたんだよ」
琉と柊が、三津を助けに行けたのは、偶然ではなかった。
防潮堤は、浜辺に取り残されたものを危険に陥れることがある。そこで、防潮堤が作動すると、浜辺に残った人物を確認するセンサーが作動する。
今回も、AIが地震を感知し、防潮堤を作動させ、桔梗学園村と桔梗村に防災無線が流れた。
「ただ今の震度6.0。津波の危険性有り。防潮堤が上がります。浜辺にいる人は至急避難を開始してください」
九十九農園で、久しぶりに会った琉と柊、一雄は、防災無線を聞いてすぐに、セキュリティー担当の部屋に連絡を入れた。
「京、聞こえるか?三津は浜でランニングしているって言っていたよな」
「一雄、浜茶屋の近くに三津の反応がある。防潮堤の作動前には脱出するのは不可能だ」
「農園から、ドローン出して向かうよ」
「待って、柊と琉も一緒でしょ?その二人に行って貰って」
「なぜだ?」
柊と琉が飛び出した後、京は一雄に「薫風庵に来て欲しい」と依頼した。
一方、九十九農園のドローンに乗り込んだ2人は、中に常備されている箱から、ハーネスとワイヤーを取りだした。
「琉、ハーネスは僕がつける。三津のすぐ側に僕を下ろしてくれ」
「柊、テトラが流されてきているぞ。ぶつかったら潰されるぞ」
「わかっている。潰されるのは三津も同じだ」
「お前は、そうやって体が先に動く男だよな」
花火の暴発から藍深を守った時も、熊から万里を守った時も、柊は何も考えずに飛び出していった。
「今度は失敗したら確実に死ぬからな。少しは頭を使うよ」
「怖くないか?」
「一雄の代わりなんだ。三津を生きて返せなかったら怒られるぞ」
浜を覆う真っ黒な水は、テトラポットだけでなく、流木なども一緒に飲み込んで防波堤に向かっていた。三津の場所はGPSでピンポイントで把握できていた。浜茶屋は無残に傾き、そこから逃げ出した三津の小さい頭が、防波堤近くに確認された。
「おい。テトラがもう防波堤に到達しているぞ」
「わかっている。まっすぐ下にワイヤーを下ろせ」
琉はまっすぐ下を凝視した。柊が三津をしっかり掴んだタイミングを見計らって、ワイヤーを引き上げなければならない。
壊れた浜茶屋を見ると、水深は約80cm程度だ。辛うじて三津が立っていられる高さだ。
ただし、引き波で三津が水中に潜ってしまったら、柊もその濁流に潜らなければ探せない。
津波の水は、大量の瓦礫を飲み込んだ洗濯機のようなものだ。泳ぐことは到底出来ない。
「三津。柊が行くまで立っていろ」
琉は祈った。
ワイヤーで下ろされた柊の腰が水に浸かった瞬間、三津の頭が水中に沈んだ。
しかし、一瞬早く柊が三津の両脇に腕を差し込んだ。掴んだことを示すように柊の頭が、ちょっと上を向いた。
ワイヤーは高速で、二人を上空に引き上げた。柊は両手両足で、三津を抱え込んで、ワイヤーの力に負けないようにした。
こうやって、三津は柊と琉に助けられたのだ。
柊は、シャワーを浴びた後、患者用の服を着て診察室に入ってきた。
「柊君、先ずは上半身を脱いで」
背中には流木がぶつかってできた打撲の痕があったが、大きな傷はなかった。腕にはテトラポットがかすって出来た内出血があったが、骨に異常はなかった。
「保健室2にも患者がいるんですか?」
四十物医師は、何でもないかのように答えた。
「そっちには、一雄と京が助けに行った患者がいる」
衝立の向こうから、深海医師の声がした。
「柊君、三津の意識が戻ったよ。そっちが終わったらこっちに顔を出して」
柊は、衝立から恐る恐る顔を出した。
三津の顔は真っ青で、病衣からは、包帯だらけの指が見えていた。
「手はどうしたんですか?」
「何かの材木に挟まれたような傷と、防潮堤につかまろうとして傷ついた爪だな。たいした傷じゃないから、感染症さえなければ、1週間後にはボールが握れるんじゃないか?」
「テトラがぶつかった傷はありませんか?」
「そんな大きな傷はないね。レントゲンを撮ったけれど、骨折もない」
「三津。聞こえるか?三津を助けたスーパーマンが見舞いに来たぞ」
「止めてください。琉と2人で助けたし、本当は一雄が良かったんだろう?お兄ちゃんって、うなされていたぞ」
三津は、布団に半分顔を埋めた。
「私が、海岸で走っているって知っていたのは、お兄ちゃんと京ちゃんだけだから、お兄ちゃんが来ると思っていた・・・」
「そっか、三津はなんで今日は桔梗村に来ていたんだ?」
「お父さんが、コンテナハウスを買ったから、みんなで一緒に見に行った」
「じゃあ、お父さん達も桔梗村に戻ってくるんだね。良かったね」
「あんまり良くない」
三津は布団を被った。
三津が意識を戻し、後は感染予防のための点滴をするだけなので、医師2人は休憩に入ることにした。
「私達2人共、海水まみれになったんで温泉に入ってきていいかな?ついでに食事もして来ちゃう。その間、柊君、三津ちゃんの付き添い頼めるかな?」
「ああ、まあいいですよ。三津のこの点滴はあとどのくらいですか?」
「3時間くらいだから、その前には帰って来るよ。なんかあったら、桔梗バンドで呼んで」
柊は、そこにシャワーがあるのに、何故温泉に行くのか?と不思議に思ったが、あまりの疲労にそれ以上考えることを止めてしまった。
三津は、再度うとうと始めたようで、軽い寝息が聞こえてきた。
目をつぶると、今日1日の恐怖の体験を思い出してしまうので、柊は必死に寝ないようにしていた。胸の奥から、微かな喘鳴が聞こえてきた。柊は、今、休憩に入ったばかりの医者を呼び出すのには、気が引けて、三津のベッドに額をつけて、ゆっくり深呼吸を繰り返した。
どのくらい時間がたったのだろう。誰かが柊の背中をゆっくり撫でていた。柊が顔を上げると、三津がいない。柊が慌てて体を起こすと、三津は半身を起こして、柊の背中を撫でていたのだ。
三津は、柊と目が合うと、少し照れたような笑みを浮かべた。
「起きた?大分、ゼロゼロは治まったね。私のせいで、無理させちゃったね」
「ああ、いや、喘息は三津のせいじゃない」
三津はそれに答えず、同じリズムで柊の背中を撫でていた。柊は三津が差し出した枕に頭を預けて、三津が背中をさすりやすい姿勢を取った。氷高とは違う小さくて温かい手が、心地よかった。
「最近、疲れることが多くて、体調を崩していたんだ」
誰に言うともなく柊が呟いた。
「柊君の仕事、人より多いもんね」
「計画を立てたりするのは好きなんだけれど、人との交渉が疲れる」
「疲れているんだね」
「それに、辛い」
「何が辛いの?」
「政治家の我が儘。スタッフの減少。みんなが分校に行ってしまったこと」
「ごめんね」
「三津のせいじゃないんだ」
「私は、柊君が6月には留学しちゃうから、今日会えるのが最後だと思っていたんだけれど」
柊の喘鳴は、少しずつ治まってきたが、三津の手は規則正しく柊をさすり続けていた。
「留学ね。行く予定だったんだけれど・・・」
「行く予定だったの?」
「母さんが外務省を辞めさせられたんだ」
「どうして?」
「僕が恋子内親王と結婚するように圧力がかかってきて、それを母さんが拒否したらしい」
「ひどい。柊君は恋子内親王と結婚したいの?」
柊は枕から顔を上げた。
「2回しか会ったことがないんだよ。ほとんど話したこともないし、何で僕なんだって思うよ。それに、そのことを弟が電話で知らせてきて、僕を非難するんだ」
柊の喘鳴がまたひどくなった。三津の手は、相変わらず規則的に動いている。
「そのことと、留学に行けないことは関係があるの?」
「僕の海外渡航に、ストップがかかった」
三津は、ここで人生最大の勇気を振り絞った。
「柊君が結婚していたら、恋子内親王との結婚は強制されないんでしょ?」
柊は三津から、目を離した。その耳元に三津の囁きが聞こえた。
「偽装結婚したら?」
「誰と?」
三津は包帯まみれの掌で、柊の頬を挟んで、ゆっくりと自分の方に向けた。
「柊君は、私の気持ちを知っているでしょ?私は柊君の役に立ちたいの」
「三津の気持ちにつけ込むようなことは・・・」
「柊君に本当に好きな人が出来たら、すぐ離婚してもいいの。でも、今、柊君が知りもしない人と結婚して、もっと辛い境遇に落とされるなら、私の気持ちを利用して・・・」
今まで、妹のようにしか考えられなかった三津だが、ここにいるのは年上の女性のようだった。
三津は柊の首筋に手を滑らせた。そこには藍深を助けた時の火傷のケロイドが残っている。
「柊君のこの傷跡が好き。柊君の勇気を示しているもん。今日も、命をかけて私を助けに来てくれたじゃない。怖かったでしょ?でも、海に飛び込んでくれた」
柊は、三津の両手に自分の手を重ねた。
「怖かった」
そう言って伏せた目からは、涙が一筋こぼれた。
「格好よく助けたなら、こんな弱音を言わなければいいのに、本当に情けない・・・」
「そんなことないよ。格好悪くても、そこに飛び込む勇気は、柊君にしかない。今度は私に、柊君を助けさせて。私は、偽装結婚でもいいの。柊君が振り返ってくれるまで努力をするから」
そう言うと、三津は柊の顔に自分の顔を近づけた。
「温かい」
「生き返ったから、唇は温かいでしょ?これが私のセカンドキスなの」
「僕も」
人工呼吸を2人とも、ファーストキスにカウントしたようだ。
柊は、三津の舌が自分の口腔内に入ってきて、自分の舌についた時、小さな電気が走るのを感じた。自分と違う生物の体の一部が、自分に入ってくる感覚は、柊にとって初めての感覚だった。
突然、保健室のドアが開き、賑やかな2人が戻ってきた。
「はい。お邪魔しました。柊君はこれが必要ですか?」
廊下で聞き耳を立てていた四十物医師と深海医師が、差し出したのは、デジタル婚姻届だった。
ご丁寧に、保証人の欄には2人の名前が記入されていた。
「え?何時からいたのですか?」
「はい。そんなの関係ないね。今晩、提出して、明日はご両親に報告しなさい。いつものようにグズグズしていると、最後の優良物件に逃げられるよ」
「『いつものように』ですか?」
「そう、三津ちゃんは『偽装』でも『お試し』でもいいって言っていたじゃない」
いや「お試し」は言っていないが・・・
「そうだ。目に見える印も作ればいい。明日、指輪を作ってこい」
深海医師は、娘同様たまに理解不能のことを言う。
「いやいや、私は明日はもう岐阜分校に帰るんで、無理です」
三津も、嬉しい気持ちの半面、あまりのスピードで物事が進むことに戸惑いを覚えていた。
「燕市で銅製の指輪を、行ったその日に作ってくれるところがある。取りあえず、婚約指輪ってことでお揃いの指輪を作ってこい。目に見える形は必要だぞ。大会が終わるまでは、なかなか会えないだろう?ネットで店の予約をして置いてやる」
今一歩肝心なところで動けない柊を熟知している2人は、かなり強引な方法を取った。しかし、三津の気持ちも、柊の三津への印象も知っているからこその行動であった。そして、決断を延ばせば延ばすほど、柊が窮地に追い込まれることを2人は知っていた。