ネゴシエーション
柔道の試合3部作は、長い話が多かったですが、まとめてお送りしました。今日の話は、その間に桔梗村で起こった事件についての話です。次回もこの話は続きます。
5月。
6月の全日本実業団団体対校大会出場を前に練習に集中したい舞子が、突然薫風庵に呼ばれた。薫風庵への坂を登る時、春佳が後から追ってきた。
「舞子義姉さん。今日は何があるんですか?私も呼ばれたんですけれど」
「私も練習中に急に呼ばれたんだよね。春佳は誰に呼ばれたの?」
「柊君に『ネゴシエーションの見学』って言われた」
「そっか、春佳ちゃんは、数少ない文系人材だもんね。将来、私の右腕になって貰わないとね」
4月から三津と明日華が岐阜分校に行ってしまったので、榎田春佳は寂しい思いをしていたが、実はそんな暇は無かったのだ。
桔梗学園は卒業後KKGで働く理系人材か、ナニー養成のシスターコーポレーションで働く保育系の人材が多いが、KKGの製品を売り込む文系の人材が圧倒的に不足している。それというのも、営業担当の鞠斗も柊も、1人で何でもこなしてしまうので、次の人材が育たなかったのだ。
薫風庵に2人が着くと、そこには3人の来客がいた。
N女子大学家政学部建築学科の佐藤教授。N女子大学は、期限付きで旧「桔梗高校」の校舎を借りている。
あと2人は、C大学園芸学部の加藤教授と工学部の伊藤教授だった。
上座には美規、壁を背にした席には舞子と柊が座った。一番下座に春佳の席があった。
春佳がお茶を入れ替えようとすると、柊がそれを手で止めた。
「では、お話を伺います。C大学の伊藤教授からのお話でしたが、同じ悩みをN大学でもお持ちと言うことで、今日は皆さんに集まっていただきました」
大学移転の窓口になった柊が今回の司会をするようだ。
最初に、伊藤教授が口を開いた。
「お忙しいところ、このような話でお時間を取って申し訳ありません。実は、本学の数名の学生が、正月の帰省後、妊娠をしていることが分かりました。今までならば、休学する学生が多かったのですが、近くに妊婦でも学べる桔梗学園があるので、学生の方から学業を続けたいとの要望が出ました」
続けて、園芸学部の加藤教授が話し始めた。
「つきましては、妊産婦検診を桔梗学園で受けることは出来ないでしょうか。桔梗村には現在医療機関がございません。でも、桔梗学園には産婦人科の先生がおいでで、出産も出来ると伺っています」
舞子が手を挙げた。
「申し訳ありません。最初の要求は『妊産婦検診』でしたが、『出産』もこちらで行いたいのでしょうか?」
「あー、いや、出産は里帰りで行うと思いますが・・・」
どうも、語尾が怪しい。
「春佳ちゃん、タブレットに大学からの要求を書いて、ディスプレイに映し出して」
春佳は舞子に言われたとおり、「妊産婦検診のみ希望・出産は里帰りで行う」とタブレットに打ち込んだ。
伊藤教授が遠慮がちに切り出した。
「ただ、切迫流産の可能性もありますし・・・。100%『里帰り』と書かれると困ります」
柊が心持ち低い声で切り出した。
「ノースエクスプレスも新潟市まで開通しました。新潟市には7月には、県立総合病院が開業する予定です。車で行けば、燕市にも三条市、長岡市にも医療機関があります。妊産婦検診を本学で行う理由が分かりません」
突然、N女子大学の佐藤教授が話し出しました。
「私達も困っているんですよ。タダで出産して、子供を預けて、勉強が続けられるからと、軽い気持ちで里帰り中に彼氏と性交渉をしてきた結果がこれです」
春佳が表情を動かさずタブレットに入力をした。
「学生に妊婦が増えた理由:桔梗学園でタダで出産して、子供を預けて、勉強が続けられると思い込んだこと」
佐藤教授はディスプレイに表示された文字を見て、春佳に突っかかった。
「あれじゃ、デマに踊らされた頭の悪い学生達のようじゃないですか」
舞子が涼しい顔で答えた。
「噂というものは尾鰭がつくものですね。N女子大学の方は1度も桔梗学園の中に入ったことはありませんから、多分、伝聞したことを自分たちに都合の良い情報に変えていったのかも知れませんね。
まず、桔梗学園の運営資金についてお話します。本学の運営資金は卒業生が作った会社からの寄付で賄っています。在学中にかかった費用を、卒業後返していることになります。
つまり、桔梗学園生だけに、無料で医療サービスが行われています。ご理解いただけましたでしょうか?
震災のような緊急時にはいくつか例外はありました。外部の方を1名受け入れ、緊急出産をしたことがありますが、後日すべてお支払いいただきました。また、心筋梗塞を起こした方については、長岡の病院にドローンで搬送しました。その方は病院でお亡くなりになりましたので、お支払いはいただいておりませんが、身内の方が分かり次第、請求書を送る予定です」
実際は心筋梗塞を起こした一本槍校長は、真子の義兄に当たるので、支払いは免除したが、それは話す必要のないことである。
佐藤教授はなおも食い下がった。
「話が違います。桔梗学園が近くにあるならば、そこの学生と同じサービスが受けられると思うじゃないですか。女性が妊娠しても、勉強できるって素晴らしいことですよね。日本全国にそのような理念を広げたいのではないですか?」
柊が、春佳のタブレットを受け取って、N女子大学との契約書をディスプレイに表示した。
「契約では、N大学については、『旧桔梗高校の校舎の貸出』と『そこへの生徒の移送分の代金』しか受け取っていないことになっております」
舞子が続けた。
「桔梗学園は、学校教育法とは無縁の企業の下部組織です。私も、妊娠をして桔梗高校を中退して、桔梗学園に参りました。狼谷のように大学生になった者は、高等学校卒業程度認定試験を受けて、大学入試を受けています」
佐藤教授は、舞子を少し蔑んだ目で見て、話し始めた。
「まあ、東城寺さんは高校中退なのですか?ご主人は?」
「夫は卒認を受けて、短期大学で保育士の資格を取るために勉強をする予定です」
「あら、立派ね。東城寺さんは大学に進学しないのですか?」
「就職するために、大学に行く必要を今は感じていません。学びたいことが出来たら、大学に行くかも知れませんが・・・」
最後に、美規が話をまとめてしまった。美規は、人の気持ちを忖度することが苦手なので、N女子大学やC大学の教授が、何を要求したいのかよく理解できなかったのだ。
「では、桔梗学園のシステムについての誤解があったようですね。今後このような要求はなさらないでいただきたい。妊娠した学生が大学生活を送れるかどうかは、各大学のシステムの問題です。妊産婦検診は公共交通機関を使って、近隣の病院においで下さい。
春佳さん、皆さんをお見送りして」
坂を下りていく教授は聞こえよがしに、話をしながら帰っていった。
「全く、学生になんて言ったらいいの?」
「崇高な理念を掲げて、看板倒れよね」
「全く、桔梗学園が認可校でないなんて、知らなかったわ」
春佳が3人を見送って、部屋に戻ると、柊が机に伏していた。舞子は冷蔵庫から大量のプチケーキを出してきた。
「ほらぁ、柊が落ち込んでどうするのよ」
「いや、舞子こそひどい言われようだったよね」
舞子は、九十九農園新作の苺ロールと、苺モンブランを両手に掴んでいた。
「そういう時は、血糖値を上げよう。美規さん好きなケーキを選んで良いんですよね」
「僕は何も食べたくない」
「春佳ちゃん、柊の分も食べていいよ」
春佳は苺プリンを選んで食べながら、柊に聞いた。
「柊さん。これがネゴシエーションですか?」
「いや、まあ。相手がひどすぎる。譲歩する価値もないよ」
「美規さんもすごいですね。バサッと切り捨てて、格好よかった」
美規も紅茶を飲みながら、苺ロールを食べ始めた。
「格好良いか?まあ、ただ、ごねてきただけだから、切り捨てたけれど。
桔梗学園に必要な人材しか、入れる気はないしね。人助けなんかしている気はないんだよ。
能力があるけれど、妊娠や子育てで、その能力が潰されると惜しいと、思えば入れるし、妊婦じゃなくても、女性だってことで能力が潰される人も入れている。それだけさ」
春佳は初めて話した美規のドライさに、二の句が継げなかった。しかし、柊になら話しかけられる。いまだに額を机につけている柊に以前から気になっていた疑問をぶつけた。
「あの、私はどんな能力を認められて桔梗学園に受け入れられたんですか?涼お兄さんのコネだって、周りの人に思われているんですけれど」
柊が机に伏したまま、春佳に話しかけた。
「あの場で、ぶち切れないだけすごいよ。僕は美規さんが話し合いを止めなければ、切れて怒鳴りそうだった」
舞子が、もう一つのケーキを春佳に勧めた。
「これからもっとタフな仕事が来るよ。でも、辛かったらすぐ、『辛い』って言ってね」
柊は心の中で「辛い」と呟いた。